三酔人の独り言

ルポライター・星徹のブログです。歴史認識と国内政治に関わる問題を中心に。他のテーマについても。

行政権独走の先に国会不要論?

2017-06-18 20:08:16 | 国内政治
 本日、通常国会が閉幕した。あれだけ問題点を指摘された「共謀罪」法案(*組織犯罪処罰法改正案)は、まともな審議もなく、疑問点がほとんど解消されることなく、可決・制定されてしまった。参議院では委員会採決を省き、「中間報告」なるものによって本会議に持ち込むという奇策が使われた。こういった光景は、国会の軽視と形骸化を特徴づける「演舞」のように見えた。

 安倍政治は、「これでもか」というほど三段跳び(三段論法)と擬態を駆使して舞って見せたのだが、国民のどれほどがこの三文芝居の本質を見抜き、末永く記憶にとどめるだろうか。

 この共謀罪法案は、安倍晋三内閣がその気になれば、その内実がいかに危険で欺瞞に満ちたものであろうとも可決される運命にあった、と思う。「その気になれば」とは、内閣支持率の下落を心配せず、次の国政選挙への悪影響を心配しなければ、というようなことだ。

 議院内閣制の日本においては、衆議院で過半数の支持を得た議員が首相に任命される。通常は与党第一党の党首が任命されるのだが、細川護熙内閣や村山富市内閣のような例外もある。

 現在の安倍内閣は前者のオーソドックスな内閣であり、自民党を中心とする与党は衆議院・参議院ともに過半数を占めている(*2/3さえ超えている)。だから当然、一般の法案に関しては、与党内が一枚岩ならば、政府または与党提出法案は基本的に可決されうる。

 こう考えれば、日本の国政においては、私たちが中学や高校で習った三権分立は「絵に描いた餅」のように思えてくる。要するに、行政(内閣・政府)と立法(国会)は独立・緊張関係にあるとは限らず、「ほとんど一体化する」こともありうる、ということだ。これは、議院内閣制の根源的な問題でもある。

 この根源的問題に加えて、昨今の日本の政治、もっと具体的に言えば「安倍政治」は、この行政府と立法府の一体化という「負の側面」をさらに拡大させる政治を行なっている、と思うのだ。

 日本の衆議院議員選挙は、1990年代初頭から小選挙区制中心の選挙制度に変わった。派閥の力学が働きにくくなり、自民党首脳(特に総裁)の権力がさらに強大となった。少しでもこの絶対権力に歯向かえば、もしくは「歯向かった」と見なされれば、自らの「政治生命の危機」を覚悟しなければならない。党内での出世も、政権内での役付けも、次の選挙での扱いに於いても。まあ、こういったことは、既に言い尽くされていることだが・・・。

 要するに、現在の安倍政治の下では、行政府と立法府の緊張関係は極度に形骸化・無化しつつあり、行政府の中でも官邸・首相の意向が絶対化しつつある、ということだ。内閣支持率さえ一定程度に保てば、好きなように人事を行ない、好きなように法を制定し、好きなように憲法を解釈しうる、ということだ。

 「内閣支持率さえ一定程度に保てば」と書いたが、アベノミクスなる〝経済政策〟への期待感が国民の間に根強く浸透し(*根拠は薄弱ながら)、昨今では株価上昇と就職状況の改善などにより、「何をやってもあまり支持率が下がらない」状況となり、安倍首相らは有頂天になっていたようだ。しかし、森友問題とその後の加計(かけ)問題などによって、内閣支持率はジリジリと下がりつつある。
「共同通信47news」2017.6.18「共同通信世論調査 内閣支持10ポイント急落44%」参照

 山口二郎法政大学教授(政治学)は、「東京新聞」2017.6.18(朝刊)本音のコラム「国会の自殺」の中で次のように述べている。

<多数決は民主主義で物事を決める手続きであり、民主主義そのものではない。多数派の意のままに物事を決めるのが民主主義なら、国会で延々と議論をするのは時間の無駄である。議会政治の歴史の中で議事手続きが確立されたのは、議論そのものに意味があるからであり、議論を欠いた多数決は民主主義ではないという共通了解が議会人に存在したからである。>

「朝日新聞」2017.6.18(朝刊)社説「安倍政権 「議論なき政治」の危機」は以下のように述べている。

〈憲法41条は、国会を「国権の最高機関」と定める。憲法66条は、内閣は、行政権の行使について国会に対して責任を負うと定めている。
 国会は内閣の下請けや追認のためにあるのではない。
 内閣をチェックし、行き過ぎを正すことこそ国会、とりわけ野党の重要な責務である。
 首相をはじめ行政府には、野党の国会質問に誠実に答える義務があるのだ。
 深刻なのは、首相も閣僚も、そして多くの官僚たちも、そのことを理解していないように見えることだ。
 不都合な質問は、国会で何度問われてもまともに答えない。質問と直接関係のない話を延々と続けて追及をかわす。そんな首相の答弁が連日のように繰り返される。野党議員の背後に、多くの国民がいることが目に入らないかのように。〉

 内田樹氏(うちだ・たつる/哲学者・武道家)は、TBSテレビ「報道特集」(2017.6.17)の特集VTRの中で次のように語っていた。
*[  ]内は引用者(星徹)が補った。

〈この数年ずっと思っていたが、[安倍政権と与党は]国会審議で何をやっているかと言えば、「国会審議には意味がないんだ」ということを、その印象を、国民に広く植え付けることを目的として一貫としてやっている、と。「立法府不要」ということを全身で訴えているから、今回も結局、どれほど野党が反対しようとも、内閣が決めた法律[*法案]は必ず通るんだ、と。ということは、立法府は存在意義が無いじゃないか、ということですよね。立法府不要論が出てくるのは、もう時間の問題だと思いますね。でも、そっちに持っていこうとしていると・・・。まさに、法の執行機関と制定機関が同一あるような統治形態のことを「独裁」と言うわけですから〉

 内田氏が言うように、国会が形骸化しつつある現状において、「立法府(国会)不要論」なるものが大勢を占めるようになってもおかしくはない。

 しかし、話はここに留まらないはずだ。行政府が立法府を飲み込んで無化しつつある中で、司法はどうなのか? 司法は行政権力から独立しているのか? 残念ながら、そうとは言えないようだ。

 特に最高裁判所は、長官・判事の人事に於いて内閣の影響下にあり、「高度に政治的な性格を持つ問題については判断を避ける」という統治行為論の立場を取り、政府の言動に対して「実質的な歯止め」を掛けない姿勢をこれまで貫いている。要するに、重要な問題ほど最高裁はダンマリを決め込む、ということだ。これでは、重要な問題ほど行政府のやり放題、ということだ。

 このように、司法も行政権力に歯止めをかける決定的な役割を放棄している現状に於いて、「行政権力の専制」「官邸の専制」(*ここでは「専制」と「独裁」等の厳密な区別はしていない)に突き進む危険性が大いにある、いやもうその段階に入っているかもしれない、と思うのだ。私たちは、こういった現実の只中(ただなか)にいることを自覚する必要がある。
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