三酔人の独り言

ルポライター・星徹のブログです。歴史認識と国内政治に関わる問題を中心に。他のテーマについても。

再び安倍首相「戦後70年談話」について

2015-10-10 21:20:22 | 歴史認識・社会論
 今年8/14、安倍晋三首相は「戦後70年の首相談話」(安倍談話)を閣議決定し、記者会見で発表した。
 *「朝日新聞」2015.8.14web「安倍首相の戦後70年談話全文」参照

 このことに関しては、当ブログ2015.8.15「安倍首相らしい皮相で自己中な「戦後70年談話」」ですでに述べた。タイトルにあるように、安倍首相の皮相かつ自己中心的な、そして反知性主義を地で行くような「談話」だった、というのが趣旨だ。

 「朝日新聞」2015.10.10(朝刊)「【耕論】安倍談話の歴史観」は、3人の識者の個別「談」で構成されている。「なぜ今?」との疑問もあるが、そこは問い詰めないことにしよう。以下、この3人の発言の中で、特に印象に残った部分をまず引用する。
 *[   ]内は、引用者(星徹)が補った。

(1)成田龍一さん──日本女子大学教授(近現代日本史)
<ただ、そこ[*司馬遼太郎氏の史観]には弱点もありました。司馬は、日本の近代化と国民国家化は成功だったが、その先で間違えたという二段階で考える。だが(中略)司馬が成功と見なしたことが、実は失敗に直結していた。安倍談話も同じく二段階で捉えているから、司馬史観の弱点を引き継いでいるといえます。>

<もう一つの弱点は、植民地の問題に視線が及んでいないことです。[司馬の長編歴史小説で、日露戦争終結までを描く]「坂の上の雲」には台湾や朝鮮の植民地化がほとんど出てこない。安倍談話も「植民地支配からの訣別(けつべつ)」は強調しても、誰が植民地化したのかには触れない。日本が加害者だという視点が希薄な点でも共通しています。>

<ただ、忘れるべきでないのは、司馬の考えが時代によって変化していたことです。>

<つまり、司馬は単純に国民国家を肯定していただけの人ではなく、グローバル化の波の中で、国民国家の枠組みを超えていくことも考えていました。しかし、安倍談話はそうしたものは一切、採り入れていない。「坂の上の雲」の司馬しか見ず、司馬史観の一つの側面だけを安易に利用しているように見えます。>

2)李元徳(イ・ウォンドク)さん──韓国・国民大学教授(韓国現代日本学会長)
<安倍談話には「日露戦争は、植民地支配のもとにあった、多くのアジアやアフリカの人々を勇気づけました」とあります。これは韓国の立場から見て、最も違和感を覚える部分です。

 日露戦争は朝鮮半島と満州の支配をめぐって争われ、日本がロシアを破った。日本は1905年に第2次日韓協約で韓国の外交権を握り、保護国にします。そして10年には韓国を併合し、植民地にしてしまう。>

(3)久保亨さん──信州大学教授(中国近現代史)
<安倍談話はまた、日本が「戦争への道を進んでいった」きっかけとして29年の世界恐慌を挙げました。その後の満州事変、国際連盟の脱退を経て、日本は全面戦争に向かったという見方です。

 しかし、これも正確ではありません。軍事力にものをいわせ、日本が中国で利権を手に入れようとした動きは、もっと早くに起きているからです。それらが結局、「戦争への道」を踏み固めていったと私は考えています。

 典型例は第1次大戦中の15年に、中国につきつけた「対華21カ条要求」です。>
           
                  <「朝日新聞」【耕論】からの引用終わり>

【考察】
 まず(1)について。司馬史観に関する成田氏の著作は、以前何冊か図書館で借りて読んだことがある。司馬氏が述べ・書いたことの全体像と、後に「司馬史観」として形づくられたものの異同を、まずは認識する必要がある。その際、時間軸という問題意識を持って考察することが、とても重要となるはずだ。

 こういった観点を無視して〝司馬史観〟なるものを都合よく組み立て、それを根拠に自身の主張の〝正しさ〟を言い立てるのが、日本に於ける歴史修正主義者たちの常套手段だ。この「〝司馬史観〟自己満足バージョン」は、ある時は「安倍史観」となり、またある時は育鵬社版や自由社版の中学校「歴史」教科書となって、私たちの前に立ち現れる。

 結局、「安倍史観」なるものは反知性主義の典型的あり方であり、つまりは「実証性や客観性を軽んじ、自分が理解したいように世界を理解する態度」(佐藤優)を地で行っている、ということだ。
 *当ブログ2014.3.11「反知性主義が日本をダメにする」参照

 次に(2)について。上記「当ブログ2015.8.15」で、私は次のようにほぼ同じことを述べた。

≪談話は、<日露戦争[1904-05年]は、植民地支配のもとにあった、多くのアジアやアフリカの人々を勇気づけました>と肯定的にサラッと書いて次に進む。あまりにも一面的だ。この日露戦争後に日本は朝鮮半島の実質的「植民地化」を加速させ、1910年には韓国併合に至る。しかし、談話にはその事が全く書かれていない。
 *[   ]内は引用者(星徹)が補った。以下同。≫

 そしてこれに続けて、(3)について、私は以下のように述べた。

≪談話はこの後、<第一次世界大戦[1914-18年]を経て、民族自決の動きが広がり・・・>と飛び、国際連盟創設(1920年発足)や不戦条約(1928年)を経て、1929年からの世界恐慌まで進む。しかし、第一次世界大戦には日本も参戦し、1915年には対華21か条要求を中国に突き付けた。1920年代前半の一時期はワシントン体制の下で「小休止」となるが、同「要求」は実質的に生き続け、その後の中国侵略につながって行った。 

 それなのに談話はその後、<当初は、日本も足並みを揃(そろ)えました。しかし、世界恐慌が発生し、欧米諸国が、植民地経済を巻き込んだ、経済のブロック化を進めると、日本経済は大きな打撃を受けました。その中で日本は、孤立感を深め、外交的、経済的な行き詰まりを、力の行使によって解決しようと試みました>と語る。これでは、その後の日本による満州・中国本土への軍事侵攻・侵略支配の主原因が「経済のブロック化」にあるかのようだ。山東出兵(1927-28年)張作霖爆殺事件(1928年)はどうしたのか? 日本は追い詰められ、満州事変(1931年~)から日中戦争(1937年~)を経て太平洋戦争(1941年~)に至った、かのように聞こえるではないか。≫

 要するに、「安倍談話」なるものは、(1)で述べられたように(*以下大意)、「明治から昭和の敗戦までの歴史」に於ける前半(*第1次世界大戦終結くらいまで?)と後半(*1920年代後半以降?)の因果関係を認めないこと(A)、そして植民地支配の歴史を「支配される側」の視点で見ないこと(B)、を基本〝理念〟としているのだ。このBについては(2)で述べられ、Aについては(3)で述べられている、ということではないか。

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