三酔人の独り言

ルポライター・星徹のブログです。歴史認識と国内政治に関わる問題を中心に。他のテーマについても。

水島治郎『ポピュリズムとは何か』から考える

2017-04-17 17:31:37 | 政治論
長い間、当ブログの新しい記事を更新しませんでした。この間、別のことに多大な時間を取られ、更新する余裕がなかったのが、最大の理由です。もし少しでも期待してくれた方がいらっしゃれば、誠に申し訳なく思います。

当ブログの記事の中心は「身辺雑記」的なものではないので、作成するのに多大な時間と労力を要します(*以前も書きましたが、大部分は「自分のため」です)。これからもそれほど頻繁には更新できないかもしれませんし、いつまで続くかも分かりませんが、とりあえず再開します。よろしくお願いします。

さて、水島治郎『ポピュリズムとは何か-民主主義の敵か、改革の希望か』(中公新書・2016年12月)を最近読んだので、これを手掛かりに考えたことを以下に少し記したい。「ポピュリズムとは何か?」ということに関しては、人それぞれの認識・イメージにけっこうズレがあるのではないか、と思う。その原因は、大雑把に言えば、肯定的なものと否定的なものの割合の違いにあるのではないか。

■水島治郎(みずしま・じろう)
1967年東京都生まれ。東京大学教養学部卒、同大学院法学政治学研究科博士課程修了。博士(法学)。現在、千葉大学法政経学部教授。専攻はオランダ政治史、ヨーロッパ政治史、比較政治。著書に『反転する福祉国家-オランダモデルの光と影』(岩波書店・2012年)など。[2017.4.19加筆]

以下にまず、本書の中で私が特に重要だと思った個所を紹介する。ただし、これらは本書全体を網羅したものでもなければ、まとめ的なものでもない。念のために。

【『ポピュリズムとは何か』からの引用または紹介】
*〈 〉内は本書からの引用。ただし、[ ]内は引用者(星徹)が補った。傍点は省略した。
(1)ポピュリズムとは何か? 2種類の定義(P6-8)
《第1の定義》固定的な支持基盤を超え、幅広く国民に直接訴える政治スタイル。
《第2の定義》「人民」の立場から既成政治やエリートを批判する政治運動。
→〈変革を目指す勢力が「人民」を「善」とする一方、エリートは人民をないがしろにする遠い存在、「悪」として描かれる。〉(P7)
*本書では《第2の定義》を採る、としている。

(2)ポピュリズムの4つの特徴(P9-12)
①主張の中心に「人民」(普通の人々)を置く。
→外国人や民族的・宗教的マイノリティは「よそ者」として批判(・除外)。
②エリート批判→手法としての「タブー」破り
③カリスマ的リーダーの存在
④イデオロギーにおける「薄さ」
→〈具体的な政策内容で特徴づけることはできない〉

(3)ポピュリズムとデモクラシーの関係
〈「ポピュリズムは、デモクラシーの後を影のようについてくる」(マーガレット・カノヴァン)〉(「はじめに」ⅰ)

〈特に本書を通じて提起したいと考えているのは、ポピュリズムとはデモクラシーに内在する矛盾を端的に示すものではないか、ということである。なぜなら、本書で示すように、現代デモクラシーを支える「リベラル」な価値、「デモクラシー」の原理を突きつめれば突きつめるほど、それは結果として、ポピュリズムを正統化することになるからである。〉(同ⅳ)──①

ポピュリズムとデモクラシーは重なる面が多い→
〈ポピュリズム政党においては、国民投票や国民発案を積極的に主張する傾向がある。〉(P13)
〈「反民主主義」と一概にいうことはできないだろう。〉(P14)
〈各国のポピュリズム政党が標的とするのは(中略)代議制民主主義(間接民主主義)である、ともいえる。〉(同)

(4)近代デモクラシーにおける2つ説明・解釈(*山本圭による)
立憲主義的解釈(法の支配、個人的自由の尊重、議会制などを通じた権力抑制を重視)とポピュリズム的解釈(人民の意思の実現を重視)
→この2つの解釈の間には緊張関係がある。(P16)
〈ポピュリズムは、「人民」の意思を重視する一方、権力分立、抑制と均衡といった立憲主義の原則を軽視する傾向がある。〉(P21) ──①

(5)政治権力の位置による違い(P22-24)
①野党としてのポピュリズム政党の存在
→デモクラシーの質を高める方向に作用
②与党・政権党としてのポピュリズム政党の存在
→安定的なデモクラシーを実現していない国の場合、立憲主義を否定して権威主義的統治を断行するなど、デモクラシーの質を貶(おとし)める危険がある。
*デモクラシーの定着した国の場合、その限りではない。

(6)現代のヨーロッパで伸長しているポピュリズム(政党)の特徴(P68-70)
①マスメディアやインターネットの重視。弁舌巧みなリーダーの存在と「タブー」を破る発言。
②[1980年代以降]民主的原理を基本的に受容。むしろ国民投票や住民投票といった「直接民主主義」を主張する方向へ。
〈現代のポピュリズム政党は、「デモクラシー」を錦の御旗に押し立てることで、エリート批判と移民排除を進めようとしている〉
③[1990年代以降]福祉と移民排除を結びつける福祉排外主義を積極的に活用。
*失業増大や治安悪化の原因を移民増加に結びつけ、自国民優先を前面に押し出す(P75-76)。

(7)リベラル的価値観を援用しての「反イスラム」
〈[デンマークやオランダの]ポピュリズム政党は、近代西洋の「リベラルな価値」を前提とし、政教分離や男女平等を訴えるとともに、返す刀で、「近代的価値を受け入れない」移民やイスラム教徒への批判を展開している。〉(P107) ──①

〈彼女[フランスの国民戦線の党首マリーヌ・ルペン]は、同性愛者やマイノリティの権利擁護も訴えつつ、同性愛やマイノリティの存在を認めないとしてイスラムを批判する。〉(P206) ──②

〈現代のポピュリズムは、「リベラル」や「デモクラシー」といった現代デモクラシーの基本的な価値を承認し、むしろそれを援用して排除の論理を正当化する、という論法をとる。〉(P222) ──③

(8)引き下げデモクラシー(P216-217)
〈ヨーロッパのポピュリズム政党は(中略)既存の制度による「再分配」によって保護された層を「特権的」と見なし、その「特権層」を引きずり下ろすことを訴えるのである〉

【考察】
【(1)(2)について】

後発の政党の多くは、「固定的な支持基盤」を持たないがゆえに、ポピュリズムの《第1の定義》に基づく手法を取らざるを得ない、というケースが多いだろう。そして、「固定的な支持基盤」を持たないという「不利な要因」を逆手に取るように、《第2の定義》のような対立軸を設定し、A「一部の特権層(エリート)のための政治」からB「人民(普通の人々)のための政治」への転換を訴える。

Aは現段階で政治権力を持っていて、Bは持っていない。しかし、いずれ「Bを代表する」と称するポピュリズム政党が政治権力を握れば、この権力関係は逆転する。これで「人民」総体が権力を握ることになるのか? 否。そんなアナーキー(無政府状態、無秩序)な政治権力など考え難い。結局は、Bの「新たなエリート(特権層)」が出現するだけではないか。いや、「主役が替わるだけ」ならまだ害は少ないが、より悪い流れとなる可能性が大きくなる。

立憲主義は後景に追いやられ、表層的な「数の民主主義」がますます前面に出てくる、ということだ。「これが民主主義だ、何が悪い」というように。これは、学校の教室内で「〇〇さんはキモいから、明日から来ないでほしい」と多数決で決めて追い出すことを正当化する、といった構造と似ている。本来は、立憲主義(*根本規範、犯すことのできないルール)が根底にあり、それを前提とした上での成熟した民主主義を考えるべき、と思うのだ。

【(3)(4)について】
(3)の①について。ここに言う〈現代デモクラシーを支える「リベラル」な価値、「デモクラシー」の原理〉とは、表面的な意味での「リベラル」「デモクラシー」であるがゆえに、結果として、ポピュリズムと同調する方向に進みやすくなるだろう。

本来は、以下のように、AとBの対立軸を中心に考えるべきではないか。

《Aグループ》狭義の(表面的な)「リベラル」「デモクラシー」、ポピュリズム
《Bグループ》立憲民主主義、成熟した現代デモクラシー

そして、《Bグループ》に於いては、立憲主義こそが根源にあり、これを前提とした(人民の意思を反映した)民主主義、と考えるべきではないか。この流れこそが、私たち人類が長い苦闘を経てたどり着いた現状での最善のあり方、と思うのだ。

(4)はそのことを考える際の手掛かりになる。しかし、①に示されたポピュリズムのあり方は、《Bグループ》の基本原理とも言える優先順位・根源性を無視し、逆転させている。私はここから、歴史から学ぶ姿勢の欠如を感じる。

【(6)(7)(8)について】
(7)について。文字どおりの限りでは、そして「近代西洋の「リベラルな価値」」「現代デモクラシーの基本的な価値」を受け入れない人々(A)への批判という意味に限るのであれば、納得する人もけっこういるのではないか。問題は、Aと「移民やイスラム教徒」(B)をことさら結び付け、「等価」としてレッテルを貼り、またはデフォルメし、排除の〝論理〟を喧伝することにある、と思うのだ。

「近代西洋の価値観」に現状では馴染んでいない人々の割合が、移民やイスラム教徒の中に多いということは、十分に考えられる。しかしそれは、「移民」「イスラム教徒」だからというよりも、違う文化や価値観の下で育った人々が多いから、と考えるべきではないか。お互いに議論し、解決策を見出していく必要がある、と思うのだ。そして、受け入れ国のルール(法など)を侵害した人がいれば、非移民・非イスラム教徒と同じ基準で対処すればよい(*ただし、宗教的自由をどう考えるかは、また別の問題)。

ただ、①の〈近代西洋の「リベラルな価値」〉や③の〈「リベラル」や「デモクラシー」といった現代デモクラシーの基本的な価値〉とは何を意味するのか、よく吟味する必要があるだろう。

移民やイスラム教徒らを排除したいと考える人々は、その目的に沿うような理屈を考えがちだ(*一般論として)。しかし、その「理屈」の形成過程において、ゴマカシ・論理の飛躍がないか、十分に検証する必要がある、と思うのだ。

男女平等や同性愛・マイノリティ容認といったことも、「現代デモクラシーの基本的な価値」だ。しかし、その「基本的な価値」をもし重視すると言うならば、「移民やイスラム教徒の排除・差別」は、その価値と大きく矛盾するのではないか。大いなる自己矛盾だ。重大な違法行為をなした人に対しては、「排除の論理」も時には必要だろう。しかし、「移民・イスラム教徒→排除」とは意味合いが全く違うはずだ。

確かに、自国で移民や難民が増えつつある現実を前にして、「無制限に受け入れる」という政策は、現実的対応とは言えないだろう。その数を制限するか否かについては、各国の判断によるのかもしれない(*EUなどの共同体に加入していれば、その限定要因もある)。しかし、だからと言って、移民やイスラム教徒などをことさら差別・排除するような言動は許されるべきではない、と思うのだ。

そうは言っても、私たち日本の国はどうかを考えた場合、偉そうなことは言いにくい。移民や難民をほとんど受け入れていないからだ。移民や難民が日々流入し、私たちの仕事が奪われ、福祉や医療などの財源が彼らのために使われ(*(6)③と(8)参照)、凶悪犯罪などのニュースが増えれば、「きれいごとは言っていられない」と考える人が増えてもおかしくはない。そういった時、私たちはどう考え、どういった言動をするだろうか? 理想的なことを言い続けられるだろうか? 

欧米を中心とする現在のポピュリズムの流れを他人事として捉えるのではなく、私たちの問題でもある、日本でもすでにこの流れは進行中かもしれない、と考える必要があるのではないか。
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