最近、黄桜のCMで元プロ野球選手の江川卓氏と小林繁氏が競演しています。
昭和53年のドラフト前日、巨人はいわゆる空白の一日を利用して元法大の江川と電撃契約。ドラフト会議では阪神が江川を指名するも本人に阪神入団の意思はありませんでした。そして混乱の末、トレードでの決着。阪神側は小林投手を要望し、巨人側もそれに同意。かくして前代未聞の江川騒動は一応の決着を見ました。
当時、幼かった私はこの事件に関する詳細はわかりませんでしたが、江川=悪、小林=犠牲者という目で見ていました。以後、熱狂的な小林ファン、アンチ江川となりました。
昭和54年の小林は鬼気迫るものがありました。この年22勝で最多勝。特に巨人戦には無類の強さを発揮し、8勝を挙げました。一方の江川は謹慎期間はありましたが、9勝どまりと怪物としては物足りない数字に終わりました。
しかし翌年以降、江川は徐々に実力を発揮。昭和56年には20勝をマークし、投手5冠王に輝きました。
一方の小林は22勝のシーズンをピークに、少しずつ精彩を欠き始め、昭和58年、13勝しながらも30歳の若さで引退しました。小林対江川の直接対決は小林の0勝4敗。小林は一度も江川に勝てないままユニフォームを脱ぎました。
その江川も小林の引退からわずか4年後の昭和62年、32歳の若さで引退しました。きしくも江川もこのシーズンの勝ち星は13勝でした。
あのトレードから28年。以後私は掛布、そして清原のファンとなり今に至るわけですが、やはりあのツーショットのCMを見ると感慨深いものがあるし、江川氏も小林投手に対する申し訳ないという気持ちはずっと持ち続けていたんだなと思うと、遅すぎたかもしれないけれど、小林氏と対面することが出来て本当に良かったと素直に思えます。
昭和53年のドラフト前日、巨人はいわゆる空白の一日を利用して元法大の江川と電撃契約。ドラフト会議では阪神が江川を指名するも本人に阪神入団の意思はありませんでした。そして混乱の末、トレードでの決着。阪神側は小林投手を要望し、巨人側もそれに同意。かくして前代未聞の江川騒動は一応の決着を見ました。
当時、幼かった私はこの事件に関する詳細はわかりませんでしたが、江川=悪、小林=犠牲者という目で見ていました。以後、熱狂的な小林ファン、アンチ江川となりました。
昭和54年の小林は鬼気迫るものがありました。この年22勝で最多勝。特に巨人戦には無類の強さを発揮し、8勝を挙げました。一方の江川は謹慎期間はありましたが、9勝どまりと怪物としては物足りない数字に終わりました。
しかし翌年以降、江川は徐々に実力を発揮。昭和56年には20勝をマークし、投手5冠王に輝きました。
一方の小林は22勝のシーズンをピークに、少しずつ精彩を欠き始め、昭和58年、13勝しながらも30歳の若さで引退しました。小林対江川の直接対決は小林の0勝4敗。小林は一度も江川に勝てないままユニフォームを脱ぎました。
その江川も小林の引退からわずか4年後の昭和62年、32歳の若さで引退しました。きしくも江川もこのシーズンの勝ち星は13勝でした。
あのトレードから28年。以後私は掛布、そして清原のファンとなり今に至るわけですが、やはりあのツーショットのCMを見ると感慨深いものがあるし、江川氏も小林投手に対する申し訳ないという気持ちはずっと持ち続けていたんだなと思うと、遅すぎたかもしれないけれど、小林氏と対面することが出来て本当に良かったと素直に思えます。