私のタイムトラベル

ある家の物語・白鷺家の人々
― 道理を破る法あれど法を破る道理なし ―

長男の悲哀

2017年07月15日 | 2. 闘争編

1985年4月。

すべてに慎重で念入りな祖母・松子さんは、母屋の裏庭に私たちの家を建設する旨をまず祖父に話した。

そしてその翌日、父がそのことを祖父に報告し、承諾を得た。

また当時の松子さんの日記にはこう記されている。

   8月 6日 竹子、梅子と家の件 話し合い。

   8月11日 四郎、竹子、梅子に手伝ってもらって本箱三つ分の整理

 

こうして父のきょうだいも皆、私達家族がナシの木町に家を建てるということを松子さんから聞き、

その年の夏の実家滞在中には、10月から始まる我が家建設に向けて何かと手伝ってくれたりした。

そして家が完成する頃には “できるのを楽しみにしています” “よかったですね”といった手紙をよこし祝福してくれた。

 

- それから約20年後 -

2005・2006年頃、松子さんは祖父の書いた散文や俳句、また自分の疎開時代に書いた手紙などの整理をしていた。

「竹子ちゃんはこんなものにぜんぜん興味はないの」と、似たような嗜好を持つ母にあれこれ見せてくれる。

そんな或る日、表紙に<昭和60年工事のこと>と書かれた一冊のノートが松子さんの机にあるのを母は見つけた。

 開けてみると、それは我が家に関する詳細な記録だった。


トラブルが勃発して以来、松子さんは我が家に関することは一切触れようとはしなかった。

建設費さえも竹子ちゃんから聞いて初めて知った”と言っていた。

しかし松子さんのノートには我が家建設に関する事が実に克明に記されていた。 

母は記録がある!と、父にそう言い、父は松子さんから過去の日記を借りた。

 そんな日記を貸すなんて・・・松子さん、この時ちょっとボケてたのかな・・?


それは両親の記憶、両親がこれまで言ってきたことが正しかったことを再確認させてくれた。

自分達の家を作るために、松子さんに命じられるままにくるくる働きまわっていた当時の若い両親の姿がそこにはあった。


-1985年-

10月11日 イチロウ 夕方来りて小屋のもの片づける

10月20日 イチロウ来り、裏の庭のアジサイを窓下へ植え替える。表の庭の堆肥入れを手伝ふ

10月25日 ユキさん来たり 土はこび モッコにて土運び

11月  4日 イチロウ来りて土運び180杯の由、通路及び表の土手に土入

11月 9日 オオハシさん(近くに住む親戚)にイチロウの新築の件 話をしておく

11月 11日 工事はブロック造り 今朝5時頃よりイチロウと裏の土を表に運ぶ 午後よりユキさんと土を運ぶ

11月 16日 イチロウ 増築許可書を書いて、印が必要との事にて書類を書いてくれとのこと(主人の印)

ー1986年ー

4月  21日 ―大工さんに残金およびお礼50万を支払った後-

      おすし6ケ取ってイチロウ一家加え、大工さんとイチロウ宅にて、仕事済の乾杯の食事をする 

                                 ~ 祖母・松子さんの日記より ~


松子さんの日記は一日の出来事の覚書のようなもので、それは昭和51年1月から平成26年頃まで、

大学ノートにして29冊あった。

父が白鷺家の長男として、また親の近くに住むただ一人の子供として、対外的なこと、たとえば親戚の付き合い、

庭仕事や家の細かなさまざまな雑用をはじめ、祖父母をなにくれとケアしてきたことが詳細に記されていた。

そして父の他のきょうだい達が  いかに松子さんの恩恵を受けていたかということもまた記されていた。

この日記を読んで  母は父を想い  涙を流した。

 

かなしいかな。

父は父のきょうだいが決して認めようとしない <白鷺家の長男> の役割をこの家でずっと担ってきたのだった。

そして認めようとしないくせに、叔父や叔母たちの意識裡には長男としての父があったのだ(と私はおもう)


母は言っている。

 『この家での松子さんの存在の強さと、子供たちの母(松子さん)への愛の深さを思い知った。

  松子さんが嘘さえつかなかったら、たとえ過剰なまでの恩恵を彼ら3人(竹子・梅子・四郎)が受けていたと

  知ったとしても、イチロウもまた彼らと同様、いやそれ以上に親孝行な優しい息子のままでいただろう』


                                  

2005年に白鷺家の今後について、両親は松子さんと竹子伯母と3回に亘って話し合った。

そして2006年不動産鑑定士兼調停委員であるT氏に良い解決法を見つけてほしいと仲介を依頼した。

しかし、なにもかもうまくいかなかった。

いったいT氏と松子さん・竹子伯母の間でどんな会話がなされたのだろう?

話し合いで合意したはずの全ての約束事がなかったことになり、何の予測も計画も立たなくなったのである。

 

父はこれ以上自分を理解してもらうための無駄な努力はしない と松子さんに伝え、

最後にT氏に依頼した内容のコピーと自分の気持ちを記した手紙を渡した。

 

しかしそのことは、後に松子さんの介護という生活を通して、私たちが「無期限の暫定的存在」(V・フランクル『夜と霧』)

としての更にストレスの多い道への第一歩を踏み出したということを意味していた。



 

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