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旅行記、世相独言

大人の迷子は放ったらかし? -ミラノ-(異文化体験12 都市再生の旅4)

2011年03月29日 15時16分18秒 | 異文化体験_西欧
東北関東大震災の被災者の方々にお見舞い申し上げます。
また、亡くなられた方々に深く哀悼の意を捧げます。


(写真はクリックで拡大します)

大人の迷子は放ったらかし? -ミラノ-  1990.9.16~18

 ゴシック独特の沢山の白い尖塔がビルの間に見え隠れする。ドウモの鮮烈な印象は前回ほどではないが、人の創造力の偉大さを思い知らされる建物の一つである。ドウモ広場にはいつものように老若男女が集い、お喋りや恋を語る人達でエネルギーを感じさせる。

 ミラノの象徴「ドウモ」とドウモ広場

 イタリアの女の子を見ると大抵の日本人は綺麗で可愛いと言う。特に北欧州からイタリアに来るとその感じが強まる。小柄な所とラテン系独特の魅力的な顔が良いのかなあ。日本人でも東京人よりは大阪人の気質に近く、親近感を覚える。しかし、それもせいぜい20歳まで、それを越えると落差がどんどん大きくなる。

       
          ピンクの内装の「Saint Louis」                        ミラノ風カツレツ  

 Saint Louisというレストランが初日の夕食の場所。明るいピンク系の内装で、スパゲッティを食わせろという皆のリクエストに応えて、添乗員のO君が用意したメニューはパスタ料理とミラノ風カツレツ。スパゲッティを1.5人前頼んだのは大間違い。ミラノ風カツレツ。これがまた18文はあろうかという草履のような薄くて脂っこいカツレツ。半分はいただいたが、Give up。今回の「都市みらい」が主催するミッションには、Iさんと言う若い美女が女性では一人参加されている。交通計画を専門に担当する才女である。彼女の食欲はなかなかのもので、少なくとも小生は負けている。

  
            新しく開発されたミラノ郊外の住宅地「ミラノ・トーレ」
 
 ミラノでの視察は、郊外の新しく開発された団地、ミラノ・トーレ。イタリアの都市は古代遺跡の宝庫ゆえ、都心の高層化住宅は望めそうにない。郊外の緑豊かな地に新たな団地が開発されており、折しも地元TV局が広場で住民へのインタビュー録画の最中であった。

      
(左)カンツォーネを聴いたレストラン          (右)ミラノ中央駅まで散歩
 
 翌日の夕食は、3回目の異国文化体験としてカンツォーネを聴こうと探すものの、正統派の適当な所がなく、Osteria Comune Antico Con Giardinoというピアノ弾き語りのレストランでPop’sカンツォーネを聴きながらの夕食となった。I女史は音楽や歌はあまりお好きでないようである。食後、レストランを後にミラノ中央駅に立ち寄って駅近くのホテル・ミケランジェロに戻る。

              
(左)ホテル・ミケランジェロ 中央駅前の新しいホテル      (右)ル-ム・キイ

 このホテルは正にHi-tech Hotelである。何がハイテクかと言うと、窓のカーテン開閉、空調調節、部屋の照明、TV等々、全てのコントロールが枕元やリモコンで出来る。お風呂はジェット気流のバスタブ。早く部屋に戻って泡風呂で疲れた足をマッサージするのが楽しみである。結構、強い気泡を足の裏にあてながら、今日の行き違いを回想する。

 サンタ・マリア・デッレ・グラツィエ教会 

 サンタ・マリア・デッレ・グラツィエ聖堂で全員バスを降りた時、丁度見学の終了時間の間際だった。同行のM氏は「最後の晩餐」を見るのが最大の楽しみにしていたらしい。それならと小生が勝手知ったる聖堂故、ひょっとしたら見れるかも、とエスコートを買って出る。壁画のある修道院食堂入口は、丁度閉まった所だが、少なくとも何人かはまだ内部で見ているはず。しからばまだ開いてる右手の聖堂入口から入って逆方向に進めばM氏が夢にまで見たと言う「最後の晩餐」にご対面出来るはずである。

 M氏が夢にまで見たという「最後の晩餐」

 しかし、世の中そんなに甘くはない。同じように考えた米国ツーリストが神父とやりあっている。頑として聞き入れない神父。狙いは良かったが結局ダメ。外に出ると、皆の気配が全くない。近くを探し回れど、どこにもいない。何と冷たい奴らだ!と2人してタクシーでホテルに戻る。待つこと1時間、皆両手に買物袋一杯持って、バスから降りてくる。それもそ知らぬ顔で! ああ、神様、我々の存在は全く忘れられていたのか!

 後で分かったことだが、添乗のO君はじめ全員、二人がいなくなったことに全く気付かなかったとか。頼むで!O君!


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ガウディの街で出会ったダッチワイフと花嫁 -バルセローナ-(異文化体験12 都市再生の旅3)

2011年03月20日 13時08分26秒 | 異文化体験_西欧
東北関東大震災の被災者の方々にお見舞申しあげます。
また、亡くなられた方々に衷心より哀悼の意を表します。



(写真はクリックで拡大します)

ガウディの街で出会ったダッチワイフと花嫁 -バルセローナ- 1990.9.14~16

 モンジェイックの丘からの眺望(Wikipediaより)

 カタルーニャの首都バルセローナ。アントニオ・ガウディと出会える街。2年後のオリンピック開催とあって街は活気に溢れ槌音があちこちで響いている。
 宿舎はホテル・リッツ。昔は最も権威あるマタドールが正装してこのホテルから闘牛場に向かったという。その由緒あるホテルで夕食ということになったが、お隣の宴会場では結婚披露宴があって、しかも金曜の夜、深夜までランバダの軽快な音楽と歓声がその熱気を伝えていた。

 
      今回の宿舎「ホテル・リッツ」(左)とそのダイニングルーム(右)

 土曜日の朝のグエル公園。先にこの街を訪れた会社の女性から見聞きした夢とお伽の世界がそこにある。本当は86本らしいが「百本柱の空間」、セラミックベンチの広場等、楽しい雰囲気が醸し出されている。

     
(左)グエル公園の御伽の国のような家    (右)百本柱の空間

 市内に一際高くそびえる聖家族教会。規模と気の遠くなるような年月と時代を超えた技術の融合。1882年ビヤールが着手し、1891年ガウデイが引き継ぎ、彼の死後(1926)も彼の残した設計図に基づいて建設中の教会である。

      
(左)晩年市電事故で死んだアントニオ・ガウディ (右)延々と工事の続く聖家族教会

 しかし、ガウディらしさを素直に伝えるのはCasa MilaやCasa Batlloであるように思える。彼の作品に多用される爬虫類は、カタルーニャ地方に伝わる宗教と密接に関係していて、まさに曲線の魔術師、アブストラクト彫刻の極致である。それは結局、光と影のおりなす紋様の世界のようにも思える。

  
(左)カサ・バトリョ(ガウディが改築、屋根が特徴的)(右)カサ・ミラ(ガウディ設計、直線のない建物)

 モンジェイックの丘に登り、整備が進むオリンピックスタジアムや世界3大美港のバルセローナ港を見物の後、ミラ邸の隣のレストランで昼食となった。ちなみに、パンにトマトペーストを塗ったpan con tomate(パ・アン・トマケット)、イカの墨煮、パエーリャ、デザートはcrema catalana(カタルーニャ風カスタードプリン)がこの時のメニュー。

 2年後に迫ったオリンピックのメインスタジアム建設現場
 
 午後は自由行動。ポルトガルのファドに続き、各国文化の第2段はフラメンコ。夕刻ショーレストラン前に集合までの間、S氏とランブラス通りを散策する。旧市街地のある店でミロ・デザインのTシャツ買おうということになった。1着2000円位と記憶するが、4着買うから1着おまけにしろと粘る。敵も負けじと売上伝票を持ってきて、皆に正札で売っていると対抗。お互いに意地の突っ張り合いが続く。そこでもう一枚買うから1着おまけにしろと言うと先方もやっと妥協。言い値で買わないのはS氏も私も、関西系の企業風土がなせるわざか。

  
(左)バルセローナの目抜き通り「ランブラス通り」 (右)タブラオでのフラメンコ観賞

 バルセローナの今回のタブラオは、マドリードのそれに比べるといささか質が落ちる。田舎芝居のようなフラメンコであったが、それでも会場は「オレー!」で沸いている。初めて見る時程の感激はないが、それでも血沸き肉踊るものである。

 
               夜の街に繰り出した花嫁一行、ダッチワイフで大騒ぎ

 フラメンコの余韻を楽しみつつランブラス通りをホテルに戻る途中、若い女の子達がお喋りしながら一人の花嫁姿の女性を取り囲むように賑やかにやって来る。どうやら結婚披露宴を脱出してきたようだ。別の女の子のグループが今度はビニール製のダッチワイフを持って駆け足で花嫁の方に近づいて来る。一人の子が花嫁の腰にダッチワイフの足を絡ませ、キャッキャ言って大騒ぎ。小生が近づくと花嫁を指差して「結婚ほやほやなの!」と言う。小生の「ダッチワイフとかい?」の一言に又もやキャッキャと大笑い。

 土曜の夜はこれから。一日を二日楽しむスペインの人達。お休みなさい!


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必要な逆の発想 東北地方太平洋沖地震

2011年03月17日 00時41分37秒 | 世相独言
必要な逆の発想

高速道路が通行止めになり、折角の新幹線も動かせない。
今、必要なことは一刻もこれらのインフラを営業運転ではなく被災者救済インフラとしてかつようすることである。

 多くの物資が動脈が梗塞を起こしているので、静脈に届かないという現実。
全国に有り余る土木業者を総動員して、これらのインフラをいち早く開通させることがまず求められる。

 次に、どこかの愚知事が問題発言しているが、阪神・淡路の時も無数の若いボランティアが静脈の役割を果たしたことを思い出して欲しい。幸いあの時は大阪という若い人を供給できる無傷な大都市が近接していたので、彼らが一斉に動いた結果、物資が比較的早く被災者の手元に届いた。

 しかし、今回は被災地域が広域で、かつ東京がこれらの地域から若い人達を吸い上げた結果、過疎化が進展し、年寄りだけの街、村になっていることから考えれば、東京都知事はいの一番に若い人達中心に巨大ボランティア軍団を組織し、静脈の役割を果たすことで、日頃の自行政の発展の恩返しを図るべきであろう。
愚知事が言った「我欲を洗い流す」必要のあるのは、愚知事自身であることに気づいて欲しいものである。

 そして、これらの被災者の方々を、とくに弱者の方々を一刻も早く首都圏に移送し、看護・介護等医療サービスや暖かい住環境を提供することで、時と共に被災地で起こる恐ろしい二次的被害を最小限に止めることが肝要である。
 
 これだけ広域な被災地では、被災地にモノを運ぶという発想よりは、逆に被災者を健常地区に移送するといった発想が必要である。
そのためには、何としても幹線高速道路、新幹線の早期復旧が、各被災地での道路復旧と共に、その移送手段として必要である。
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活かしたい阪神・淡路の経験

2011年03月15日 14時00分45秒 | 世相独言
活かしたい阪神・淡路の経験

 先ず以て被災者の方々にお見舞い申し上げます。
 不幸にも亡くなられた方々に深く哀悼の意を表します。


今、最優先でなすべきことは、

「広域輸送幹線の早期集中復旧」

  新幹線、高速道路の何とか動かしうるレベルまでの早期集中復旧。その上で、
  被災者をとりあえず、首都圏まで輸送すること。
  40万~50万とも言われる避難・被災者に次に起こることは・・・・。
    孤独死、ショック死、ストレスからくる様々な病、不十分な看護・介護。
  生活支援物資は集積所までは来るが、今回の被災状況ではうまく配貨が出来ない。
  被災者向け仮設住居の建設にはとても時間がかかる。雪が降る、雨が襲う・・。
   
  被災地に対応処方を図るのではなく、被災者を被災地から一刻も早く首都圏の健常  地区に救出する手だてを講ずることこそ、今一番なすべきこと。


「原子力発電の対処は専門家に任せる」

  現場知らずの役人、政治家が、現場の邪魔をしていないか?
  そんなことより、政府として、中央の役人としてやるべきことが山ほどある。
  計画停電の実施許可は、経済産業大臣や資源エネルギー庁長官マター。
  一国の総理が全国民に言うような話ではない。


 東京だけが名前の売れている日本、今後、東京一極集中の是正を図らないと、諸外国では東電の原発問題は日本の電力崩壊のように捉えられ、日本経済が沈没するかのような評価がなされては、たまったものではない。
それこそ、東京が日本を滅ぼすことになりかねない。

 阪神・淡路の時に、残念ながら首都圏や中央では、一地方の出来事であった。
あの時の事後処理対応の様々なノウハウが今回は全く活かされていないのは、極めて遺憾である。
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サウダーデの国 -リスボン-(異文化体験12 都市再生の旅2)

2011年03月13日 16時34分42秒 | 異文化体験_西欧
今回の震災被害者の方々にお見舞い申し上げます。
また、亡くなられた方々に深く哀悼の意を表します。


(写真はクリックで拡大します)

サウダーデの国 -リスボン-  1990.9.12~14

 聖ジョルジュ城から見たリスボンの旧市街
 
 ユーラシア大陸最西端の国ポルトガルと、はるか東の果ての海に浮かぶ国日本とが、頻繁に交流し相互に重要な影響を及ぼしあったのがおよそ500年前。
その幕開けは1549年。イエズス会の宣教師フランシスコ・ザビエルが鹿児島に上陸し、日本の鎖国が始まる1635年までのおよそ1世紀の間に、鉄砲、パン、天ぷら、金菱糖、カルタ、ボタン、カステラ等々、沢山の西洋文明がポルトガルからもたらされた。

 大航海時代の偉人達が勢揃い 発見のモニュメント

 その頃のポルトガルは、1488年にディアスがついに喜望峰を越え、1498年バスコ・ダ・ガマはインドに達し、1500年カブラルがブラジルに、1519~1522年にマゼランが世界一周を成功させる等、大航海時代の世界の先導国であった。

 スペインとポルトガル、共にラテン民族でありながら、その印象はかなり違う。スペインが陽とすれば、ポルトガルは陰。動に対する静。何故なのだろう?
 歴史的には大航海時代の華やかな実績を持っているにもかかわらず、控え目な国民性は民族歌謡「ファド」の真髄とでも言うべき「サウダーデ(やるせなさ、懐かしさ)」の心に通じているのだろう。

    
 (左)「Restaurante Tipico」      (右)ファドの名手 Amalia_Rodrigues

    
 (左)今回の宿舎シェラトン・タワーズ・ホテル       (右)ルーム・キイ

 初日の夜は到着が遅かったこともあり、シェラトン・タワーズ・ホテルの一室で酒盛りとなったが、2日目の夜は小生の要望を添乗のO君が聞き入れてくれて、ファドの世界に浸るべく「Restaurante Tipico」のディナーショーとなった。

 
    (左)リスボンの街の起源アルファマ地区     (右)アルファマ テージョの河口

 リスボンの街の発展は、アルファマから始まっている。小高い丘に位置し市街地を一望出来る聖ジョルジュ城(5世紀)のふもとにあって、赤土色の瓦屋根、太陽と風にさらされてかすかに琥珀色を帯びた壁、窓には洗濯物がはためき、バルコニーには鮮やかな花がけだるく揺れている、そんなイスラム支配の香りを伝えるアルファマ地区が今回の調査地である。

 
   (左)消失建物の残った壁を生かした復興再建      (右)アルファマ地区内部

 数年前、アルファマ地区は大火災に見舞われ、現在その復旧に取組んでいる。壁一枚残った建物もその壁を残して復元しようと、少しでも昔のものを残そうとする姿勢は、この地区の歴史的重要性を裏付けているのだろう。

 
       (左)ロッシオ広場          (右)リベイラ宮殿前広場とジョゼ1世騎馬像

 アルファマ地区の西にバイシャと呼ばれる地区がある。ロッシオ広場とコメルシオ広場を結ぶ通りは、金座、銀座通りと呼ばれる商店街となっており、大勢の市民で賑わっている。この地区は1755年に大地震があったが直ちに再建されている。アルファマ地区の復興に取組む若いチャーミングな女性設計技師は、資金豊富な当時と比べ現在の財政難を嘆いていたのが印象的であった。
 この商店街では、天ぷら、カステラ等の原型をショー・ウィンドゥの中に見ることが出来るが、似ても似つかぬもの。

 
      (左)ジェロニモス修道院         (右)王家の馬車とバスコ・ダ・ガマの棺

  
       (左)ベレンの塔             (右)発見のモニュメント東面

 更に西に移動するとインペリオ公園にゴシック風寺院であるジェロニモス修道院がある。バスコ・ダ・ガマの海外遠征で得た富を使ってエマニュエルⅠ世が建造したと言われる1502年の建物である。付近には1500年初期、港に入る船の見張りに使用されたベレンの塔や、発見のモニュメント、馬車博物館等があり、リスボンの一大観光名所になっている。

     
 (左)洗濯物がなびく路地裏     (右)狭い曲がりくねった道とケーブルカー

 リスボンを中心とするポルトガルの街は、人種的偏見もなく、観光資源も多くあり、物価も安いとあって、今後観光の処女地として大躍進すること、間違いなし!


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ロンドンの再生や、如何に? -ロンドン-(異文化体験12 都市再生の旅1)

2011年03月03日 20時32分24秒 | 異文化体験_西欧
(写真はクリックで拡大します)

 バブル経済の最中、旧い都市は再開発の話で持ち切りである。「都市みらい」という建設省の外郭団体が欧州の都市再開発を調査するミッションを派遣することになり、建築・土木・不動産・都市計画・エネルギー等々の業界が参加する一大ミッションとなった。さてさて、どんな旅になることやら。

 今回の調査団メンバー

ロンドンの再生や、如何に? -ロンドン-  1990.9.11~12

 海外渡航者も年毎に多くなり、英国航空BA008便はほぼ満席状態で成田をテイクオフ。ロンドンまでは地上げ屋紛いのいかつい顔に立派な体格の某不動産会社のT氏と隣り合わせ。外見からは想像出来ない娘さんや愛犬の話にナイーブな心優しい一面を感じ取る。

 
(左)「Great Western Royal Hotel」   (右)創建時の同ホテル 1890-1900頃(Wikipediaより)

 Great Western Royal Hotelでの夕食後、彼とパブに行こうということに。パディントン駅周辺は人通りはほとんどないものの、とあるパブに入るといるわいるわ、沢山の若者が! 飲み物片手におしゃべりに夢中の者、恋人と熱烈なキスの真最中のカップル等、熱気でムンムンである。やや場違いな2人であるが、数分もすれば場に溶け込めるから不思議である。

 
(左)ホテル近くのパブ「Pub_Great Western」   (右)英国パブの雰囲気(参考)

 翌早朝、ホテル周辺を某ゼネコンのSさんと散策する。海外渡航が初めてというSさん、街の雰囲気に痛く感心された様子である。

 
(左)開発前の姿(造船王国の名残)   (右)近代ノッポビルに生まれ変わるドックランズ

 
(左)いち早く整備されたDocklands Light Railway   (右)今日(2010)の路線図

 ドックランズは、世界都市ロンドンがその再生を期して数年前から取組んでいる大再開発PJである。旧シティに続くテームズ川下流一帯に、新しい都市機能を建設するこのPJは、現在欧州の各都市と結ぶCity Airport(竣工済み)と域内のメインアクセスであるLight Railwayがほぼ完成し、テームズ河畔では至る所で建設作業が進行中である。
 中世は貴族が狩猟犬を放し飼いにしていたIsle of Dogs(犬半島)が、産業革命と共に造船のメッカとなり沢山のDock(造船のドック)に変貌し、今EC統合に向けそのリーダーシップを取ろうとする英国の威信を賭けた街づくりが槌音高く続いている。

 
(左)ドックランズの入口、タワーブリッジ    (右)7年前タワーブリッジ横の木造レストラン

 しかし、人間の興味の持ち方というものは面白いものである。今から7年前、私は今から思えばこのドックランズ再開発の一番西の端にあたるTower Bridgeに隣接するホテルで、1週間缶詰で国際ガス連盟(IGU)の仕事を行っていた。その当時、ホテルの対岸は壊れたレンガ塀の工場があり、一方ホテルの隣はボードウォークで導かれる雰囲気のある木造のレストランがあるといったアンバランスな場所で、週末の夕刻ともなると多くの市民でレストランは超満員であった。
 当時は小生はエネルギー屋であり、都市開発屋ではなかったし、IGUメンバーからもドックランズの話は出ていなかったように思う。しかし、その頃から既に開発は始まっていたのである。人間、立場が変わると興味の視点も変わるものである。
 
 昔の面影や何処 Canary_Wharfの夜警(2010Wikipedia)

 この再開発で参考にすべき点は、インフラ整備の考え方と開発マネージメントであろう。街づくりの初期において軽量鉄道をいち早く導入し、街づくりを加速させる方法は、日本ではまず採用されない方法である。目先の経済合理性を追求する日本と、長期的視点からインフラ整備を重視する欧米との考え方の差がここにあるように思える。
 また、サッチャー首相が開発公社に多くの権限を委譲しているが、これもまた我が国では簡単にいきそうにないことであろう。

 
(左)賑わい空間コベントガーデン、大道芸人も  (右)バービカンセンター

 「コベントガーデン」や商業・居住複合再開発区(1982年竣工)内の欧州最大の文化施設「バービカンセンター」等にも立ち寄って、私にとっての処女地、待望のポルトガルへ。


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