メランコリア

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ここにあるのはわたしの心象スケッチです。

女性リアル 母が重たい・・・@あさイチ

2014-07-26 12:49:58 | 日記
女性リアル 母が重たい・・・@あさイチ


 


「女性リアル」コーナーは、毎回、共感度100%の深いテーマが多いけど、
まさかこれを取り上げて、なにもかもすべからく自分に当てはまるケースばかりなのに正直驚いた。
自分だけじゃないんだ。マンガ家さんがゆってた通り「あるある」なんだ。

ゲストには、著書『母がしんどい』が反響を呼んだ漫画家・田房永子さんが自身のトークイベントで取り上げているテーマはズバリ!

「親からもらって困ったもの」
例1:何も入らない小さすぎるポーチ
例2:どこにも着ていけない微妙な柄のシャツ

他人事だと笑ってしまうけれども、私もコレに悩み、数十年かけてようやく最近、客観視、沈静化しつつある段階(苦笑

 

 


ケース1:完璧主義の母親


 

 






子育ては世襲されていく
 

いくらマニュアル本がたくさん出ていても、家庭によってケースバイケースだから、
たとえ自分が親からされてイヤだと思ったことでも、気づけばつい子どもにしてしまっていることに気づき自己嫌悪になる。



 




ケース2:娘は母の愚痴の聞き役
 

 

「たとえ愚痴でも聞いてあげるのが(娘の)務め、それを途中で遮るのも悪い気がして、何年も過ごしてきた。
 私も母に合わせていた部分がありました。
 社会人になっても、30代で結婚し、親元を離れてからも、電話で愚痴話は続き、たとえ母親でも結構しんどかった」

あるある。たとえ食事中でも「じゃ、早く要件だけ言わなきゃね」と言いつつ、これまでの鬱憤を全部話して、
数時間経ってスッキリしたら「じゃ、またね」と切られる。こっちはグッタリ

 

「義母の介護でうつ病となり、介護が終わっても治らず、医師から実母からのストレスも原因では?と言われた。
 ずっと黙って無理してきたのが、ある時コップから溢れてきたのかな(私もカウンセリングでまったく同じことを言ったよ
 何十年も愚痴の聞き役は勘弁してほしい。いくらお世話になったとしても、そこまでする必要はないと思う」


ケース3:母の言いなりになっていた女性
数年ぶりに帰省して、母と話し合う決心をした女性。
「いろいろ分かってほしいのに分かってくれなくて、頭ごなし言われていたのが辛かったと言えたらいいなと思う」と言ってから実家へ。
その2時間後・・・
「母の今までの思いを聞く予定だったけどできなかった。次はお互いの思いを素直に話せる機会が持てたらいいな。
 完全和解はそう簡単ではなかった。」




問題なのは、すべて無意識だということじゃないか?と、私はいつも思う。あらゆる物事についても同じ。
親のいいなりにならなくてもいい、親から着せられた恩義を返さなくてはいけないと思わなくてもいいのに思って行動してしまう。

  

親の思いは「子どものため」「自分の失敗を、子どもにはさせたくない」「自分の果せなかった夢を叶えてほしい」「幸せになってほしい」
「親が子どもを心配するのは当然」「子どもが親の世話をするのは当然」etc...そこに意図的な悪気はないことが多い。
カウンセリングを受けて、それがすべて親側の都合、“親自身の問題”であって、“私の問題ではない”ということに気づかされた。
→“親と自分の人格は別だと自覚すること”てゲストの方もゆってたね。



親を大事に思う、そして、「そのままの自分を愛してほしい」「認めて欲しい」「褒めてほしい」と思うほど、呪縛から逃れられない。
しかし、物事はすべて「自分でいつでも、一瞬、一瞬、選択し直すことができる」。
今、自分が負担に思い、カラダとココロを壊しているならば、距離を置くことは罪ではない。
誰でも「自分の身は、自分で守る」ことが大事。



母と娘、母と息子の関係の違い
フシギなのは、「母と息子」の関係は、「夫から得られない愛情や理解がほしい」「理想の男性像に育てたい」、
という、まるで“恋人”のような関係になって、果ては息子の彼女や嫁に嫉妬して、
ライバル関係になって、息子夫婦の生活にまで過干渉になるのに対して、
「母と娘」の関係は、「一身同体化」して、1個人として“切り離せない”ことにある。
夫とのコミュニケーション不足、友人にも話せないことを話せる唯一の味方、
よく言えば「親友的」、悪く言えば「しもべ的」に扱われること。

男女差別は、必ずしも男性→女性だけじゃなく、それが当然として身について
「世間的常識」と考えるようになってしまった女性→女性にも引き継がれていく。

私の母も「兄に言えば怒られるけど、あなたならちゃんと聞いてくれるから」という理由で、
物心ついた時から父の悪口ばかりを聞かされてきた。まるでゴミ箱にゴミを捨てるように。

兄にとって、母は“守らなければならない存在”となり、父と対立
私は、そんな家庭の不和をなんとかしようと必死にバランスをとって、「手間のかからないイイ子」になろうとしていた。
それが自分の使命かなにかのように。



●母親の立場からの視聴者FAX
 

 

 



「母親ばかり責めるのはおかしい」
「甘えでは?」
「自立してないから」

まさに、これこそ無意識に娘を傷つけている要因だと気づけない意見ばかり。これが現状。

私も勇気を振り絞って母に手紙を書いた時は「傷つけられた」「いつも(これまで)の娘らしくない」と逆ギレされ、
お互い深く傷ついてしまったことに、さらに落ち込んだことを思い出していた

「本来は自分で解決すべきことを、母親になすりつけてる」という意見。これには、一理ある。
「他者は変えられない。変えられるのは自分だけ」「自分が変わることで、他者が変化する場合もある」
老いて柔軟性を失った親に、何万回同じことを必死に訴えても、なにも変わらない、ということに気づいた。

変えられるのは、自分の見方と態度。
距離を置く、カウンセリングを受けて第三者から客観視してもらうことで、これまでの自分の言動パターンを知る。
そして、親に対して罪悪感を持たなくてもいいんだ、自分を自分で褒めてあげればいいんだ、と思った。



コミュニケーションの欠如
これは「良い悪い」の問題ではない。
元をたどれば愛情だし、コミュニケーションの欠如が根因の場合が多い。
だからこそ、なお難しい。それぞれに課せられた今生での課題なのかもしれない。


しばらく帰省せず、若干、客観視できるようになって、最近また上京するたびに会う機会があるけれども、
数十年の習慣、個人の人格、関係性は、カンタンには変わらない。
でも、また、同じパターンにハマりそうになっても、今度は、それに「気づき」→「選択し直す」ことは出来る。

きっと、親は変われないと思う。
変われるのは、自分のものの見方と行動。それが自身の成長につながるんだ。


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