人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

人格の裏側

2016-09-10 13:07:53 | 哲学・思想
「人格は神の写しであり似姿である。人格は、超人格的なものの実存を前提とする。人格より高い何ものかが存在しなければ人格は存在しない」(ベルジャーエフ)

主流のキリスト教神学を初め、一神教を奉ずる宗教では、多く所謂人格神というもの、神は人間と同じようにある個性、感情、意志など、人格を有するものとされてきました。
当然の事だと思いますが、こういう事は神に直接聞いてみなければ分かりません。ミもフタも無い話ですが…
御存知の通り、神というのは分からないものです。そして”分かりたい”、”知りたい”、”信じたい”という我々の原初的な欲求がこの人格神という概念を生んだのではないでしょうか?
だから、それには神の擬人化が多分に反映されている、と思われます。それはもとより我々の意識の反映と言えるでしょう。
私にはしかし、この事とは全く別に、この人格なるものについて、全く逆にしたような観方が有ります。
現臨…(それは神なのかどうかは分かりませんので、神的なものと言ってます)それが臨むとき、愛に包まれます。
愛…それについては誰かを愛したり、愛されたり、愛について語ったりしてきました。だが、その愛はそのどれでもありません。思考や感情といったものを超えてあるものなのです。だが同時にその愛が無ければ、そもそも我々が知ってる愛というもの一切が存在しない事でしょう。
それについては、この世では言い表す術がありません。強いて言えば愛そのもの、愛それ自体と言ったらいいでしょうか…
我々が知ってる愛というのは、思考、感情、欲望などが入り混じっていて、そのものが見えなくなって、時に本来愛であったものが変質してしまったりするものです。だが又時には、その言い表し得ない愛の発露というのも顔を覗かすことも有る…これはみんな知ってることじゃありませんか!
この世のものでないようだけど、知ってるハズのものなのです。愛にしても、神的なもの自体にしても…抽象的、思弁的な神といい、我々が考えられるものは全て、そのよって立つ源が存している、と言ってもいいのではないですか?…でなければ何一つ考えることも、イメージすることも、語られることも無いでしょう。
我々はこのように、個性を有し、ものを考え、感じられるのは人格なるものから来るものと想定しているのです。
人格には多く幻想性が取り巻いていて、移ろいゆくもので、何一つ確たるものなど見出し得ないもののように見えます。だからこそ世の人は確立したがるのでしょう。
だが、我々が諸々の思考、感情、欲望から切り離された、現臨がハタラクそこにこそ、その源泉が有るのではあるまいか?
その源泉、例えば愛…それは捉える術が無い!、捉えられて実感するものなのです。掴むのでなくて、それに包まれるしかないのです!
我々は絶えず、それを追い求め、獲得し、取り込もうとしているもの、それはかのハタラキに有って、目の当たりにするものなのです。
そのものを求めても、そのものに至り得ない苦しみ、これは我々が人格を有している、という事を表しているのでしょう…
だが、その人格は思われたままのものでは無いのです。その表れは人格を超えたもの(超人格)に源を有し、つながっているのです。
私はここに、全体、ワンネス、ブラーマンといったものには決して、解消されることの無い、永遠の汝、神人ともいうべきものを想起せざるを得ません。
そうでなければ、ここに生まれ出ずる理由を見出すことが出来ません!
神的なものの人格は、我々の人格を元に想定出来るものでは有りません。これには何と多くの闘争する神、怒れる神、無慈悲な神を生み出してきたことでしょう。
我々の人格とされてきたものこそ、超人格、神人格の部分的、地上的移写なのです。
おそらくは我々の思考、感情、欲望というものはそこから、発したのでしょう。それは何より”この世の生”と関係している…そこには天国の磨かれざる石(意志)が織り込まれているのでしょうか?…
神的なものの我々への呼びかけ、我々のの神的なものへの応答が、その内実を深め、その地上応現を促進していく事でしょう…。



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