人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

幸福を超えた幸福

2017-10-08 12:25:52 | スピリチュアル
「完全な至福はブラフマンです。完全な平安はアートマン(真我)に由来しています。...ブラフマンは偉大な幸福であり、非人格的で、絶対的なものです。ブラフマンと神から源を得ている有限の自我は、その精神的な本性においては、ただ至福なのです。...幸福とは私達の自然な状態、あるいは本質と言えるでしょう」(ラマナ.マハルシ)

ラマナ.マハルシは、近年、精神世界で注目されてきた所謂ノンデュアリティの草分けと目されています。
ノンデュアリティには様々な観方、解釈がありますが、現代では「個は居ない」と説いているのが主流のようです。
ホントはそういうことは誰も説けないはずなのですが、抽象論でなく、本当に自分が永遠の虚無のうちに消え去ってしまうような実体験に出くわす人も稀にはあるようです。
色々背負いこんでしまったようで、大変な身の上の元メイドさんによってその記事に触れられる、故エンライトさんの体験からはそうしたものが伺われます。
そこには苦悩も不安もないが、愛も幸福もない、そう感じる自分が無くなるのだと言います。
私は、そうなりかけたことはありますが、そのままそっちに入り込んでいたら、多分ここでこんなことを書いたりしてないでしょう。
私の限られた理解に基づくものですが、それは私が"人生の裏側"に入り込んだ事態とは全く異質のものに感じられます。
端的に感じられることは、その事態の真の主体ともいうべき"現臨"の不在ということです。
それと共にある愛、幸福としか言いようのないものが伝わってこず、逆に言うと、現臨と共にある、そこには永遠の虚無というものなどなにも感じられません。
エンライトさんは、"幸福とは、不幸と隣り合わせのもので、相対的なもの"という旨のことを言っています。全くその通りです。
そして、"ノンデュアリティでは、この相対次元が越えられてしまい、幸福というものもないのだ"とも...(彼がハートの気付きを強調することで違うことを伝えようとしているように思えます)
そこで語られている幸福とは、正しくこの世的な相対的な幸福のことでしょう。
それは、富であれ、恋人であれ、名声であれ、その幸福をもたらすであろう対象を得ることで、"得られる"幸福のことでしょう。
それは得られないことにより、今の自分を苦しめているものです。その渇望が強くなればなるほど、その苦しみは重いものになってきます。
そして、それは一瞬その求める対象を"得たi"ことにより、幸福を得たとしても、それを失った時、急転直下、不幸のドン底に突き落とされてしまうものです。(幸福とされるものは、何と苦しみ、不幸の種となるものなのでしょう)
しかし、手に入れなければ得られない幸福しか知らない人には、突っ立っているだけで...何もしていなくても幸福でいられることなど、理解出来ないことでしょう。
そこには幸福の対象が無いのです。幸福それ自体に預かっているのです。
得なければならないものでもなく、失って消えてしまうものでもないのです。
私は前述の事態になってしまう以前からこの幸福の味を与えられていました。
何で幸福なのかは分からないのです。幸福なものと自分とが切り離されていない...私は私で居られるだけで幸福なのです。それ自体で充足しているのです。
これは相対的幸福に対し絶対的幸福と言ってもいいかもしれません。
こう言ったからといって、私は相対的な幸福を否定することなど絶対に出来ません。私はいつも充足している人間とは程遠い人間だから...
ラマナは、どうも常に絶対的幸福に充足していた(自称覚者には見られない)稀な人物だったようです。
ラマナは、個人も消え、幸福も感じられない世界の消息を伝えていたのでしょうか?
いいや、ラマナが伝えようとしていたことは、"この幻想に満ちた現実世界にあっても我々は絶対的幸福に預かることが出来、それに根差した生き方が可能である"ということではなかったでしょうか?
でなければ、何で繰り返し(感じられない自分が居なければ意味のない)至福について語られる意味があったでしょうか...

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