人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

”しこう”への道

2016-10-14 18:15:17 | 哲学・思想
昨日の記事は、初めてこのブログを読んだ方など、何を言っているのかサッパリ分からないと感じた方も居たかも知れません。(いつもそう感じている? そうでしょうとも…)
思考を超えないと現臨に預からない…安易に信仰にハマらないで自分で考える~思考する…一方では思考停止~”邪魔な思考が止まって結構なことじゃないか!”…ごもっともです。言葉の上では…
この自分で考えるという事には先が有って、自己を超えた照明を受けるという事が重要なのです。それを悟性の光とかで言い表しているのです。
この思考を巡る二つの有り様の感じ方というのは、表現はややこしいですが、もう水と油のようにまるっきり違うものです。
ジンジンとあのハタラキが迫ると、もうデキアイの信仰などの入る余地は無くなります。そっちへの思考の通路はロックされてしまいますから。
どうして、こうしたマドロっこしい事になってしまうのかというと、これまで我々は思考、思念、思惟というものがよく分かってなかったからでしょうね。
何で突如、思考がポカーンと浮かぶのかもよく分からない…その止めかたも分からない…そして何よりその出どころ、源が分かっていないのです。
して、それを言い表す言葉が(私の知る限り)無い!…私は照明、観照するもの(これはこの自己がする訳じゃない)との関連で言っていますが、適切なのかどうか分かりません。
固着した思念に捉われると、この門が開かれなくなるという事です。
そして又、何と多くの宗教、スピ界において、この思考、マインドというものが忌み嫌われてきたことでしょう。
これが私がいつもこの界隈に違和感を感ずる事です。
”考えている”という当たり前のことを、”マインドってーヤツは…”どうとか、こうとか、かえって考えが堂々巡りするハメになったりしています。
修行者などはその機能を止めようとトライすることに余念が無いみたいですね。多分無理に止めようとしたら上記とは違う意味で思考停止になることでしょう…(目出度いことかどうかは分かりません)
何度も言いますように、持ち前、天与のものには何一つ否定されるべきものは無いと言えます。
先の思考の源、現臨の照明の場へと導くものこそは、この思考、思惟だと思います。
思惟が自己へと向かい、自己省察というものにとどまらず、さらには自己を通って、突き抜けてしまう…これは自ずとそう向かわせられてしまうようなものです。
そういうハタラキが有るという事ですね。思惟がその源とつながっている時にそうなるようです。
これは、感性というものと切り離されないものです。というより、思考とか感性とか意識などが別々のものとして働き、そのように捉えるのは、表層的な面での話で、内面へと深まっていくにつれ一連なりになってしまうものです。
そして、このように思考にしろ、自我にしても、それを通して真我に導かれるとも言え、肉体を通して霊的な性質のものにも触れられるなど、お荷物のように感じているものが、実は深みに至る導入口になっているように思われます。
とにかく思いを固めてしまわない事が、精神を活性化させる上でも、神的なものにつながる上でも肝要なことです。
私など自然と身に付いたのですが、心象に浮かんだことを思念で捉えようとしない(精神的な働きの客体化につながる)で、心の内奥に留めておいて自由に遊ばせておけばいいのです。
これを私は”神棚に挙げて置く”と言っています。神的なものに委ねることですね。
真実は神のみぞ知る…。

(関連記事)…「パトス、思惟、人格」







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