人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

商店街の灯

2016-12-28 17:14:50 | 雑感
師走も押し迫り、一年で最も各地の商店街が活気づく頃合いを迎えている頃?…でしょうか…
私はとにかく、物心付く頃から商店街には愛着が有ります。
よく母に連れて行かれたものでしたが、あの電柱などに設えたうらぶれた飾りにとても郷愁を憶えます。昔も今もウキウキとした気持ちが自然と湧いてくるのは、色々な店をゆったりと歩きながら眺める事で、心身にある種のリズム感が生まれることにあるようです。
考えてみれば、私用で外出する時は必ずと言っていいほど、勝手にどっかの商店街に足が赴いてしまうようです…ホッと一息つきたいのでしょう。
デパートにもよく連れて行かれましたが、こちらの方は人混み、空気の悪さ、迷子になって二度と家に帰れなくなる恐怖(ここに居ない恐怖?)を味わったことなど、ほとんどいい想い出は残っていません。
どうもビル型のものは、経済は流通するのかもしれませんが、私的には、”気”の通りはその閉鎖された空間のためか良く感じません。
品が安けりゃ良いってもんじゃなーい…でも…バカ安だと買っちゃうかも…このサガが一番悲しいことでしょうか?

2001年の頃、仕事で大阪を中心にあちこちの商店街を回っていたのですが、数年ぶりに訪れた郊外の商店街など閉店が目立ち、まるでゴーストタウンのようでした。21世紀になって一気に衰退化が始まったようです。
天神橋商店街とか有名なデカイ商店街(長い!…東京の武蔵小山商店街は”東洋一長い”、なんてフレコミがありましたが、大阪の人が聞いたら、”アホか!何言うてまんねん!”どころじゃ済まないでしょう…)は別として、ローカル色が強くなるにつれ、その影響を深刻に受けている様でした。
その時分は、寒風吹きすさぶ頃でしたので、人通りもまばらで、野良猫の鳴き声ばかりが聞こえ、より一層さびれた感じを強く抱いたものです。
いつしかこうしたさびれた商店街を指してシャッター街などと呼ばれるようになりました。
こうなった大きな原因は、駅前に巨大ショッピング・センターなどの商業施設が次々設けられたことにあります。
これが、私が初めて欧米型グローバル経済のひずみというものを如実に感じたことです。
駅前の巨大ビルは見かけは超近代的で、多様性に富んでいるように見えますが、各店の色とりどりの個性というものは、一つのビルの内に括られ、組み入れられ、霞んでしまうように見えます。
そして何よりその周囲…とりわけ死んだような商店街は取り残されて、巨大ビルばかりが分離して突出してしまい、実に不自然なアンバランスな風景です。
こんな奇形な街並みが21世紀の商業都市の在り方なのだろうか…
巨大ビルに遮られて街全体に光が差さないではありませんか…
商店街というものは、昭和の象徴とも言えますが、昭和のモニュメントで終わってしまうのでしょうか?

しか―し、東京にはまだまだ時間が停まったままのような、レトロな商店街も元気に残っています。十条銀座とか砂町銀座とか(”高い銀座”以外に安い銀座がいくつもある)
古き良き時代、とか言いますが、ただ昔を懐かしむだけじゃありません。昔から残されているものというのは、良いものだからこそ伝えられてきているのでしょう。
いつも商店街をブラついていて思うのは、その生き生きした気持ちにさせるものというのは、人間の営みばかりでなく、その周囲の自然もその足元の土地も生きたもので、そうしたものとのつながりあってこそのもの、という当たり前のことです。そしてそこには又多く生きた歴史があるのです。
町興し、地域興しは、こうしたものに根差したものでなければ、目先の合理化、進歩などに眩惑されては空洞化してしまうでしょう。
そうした調和と共にあることに楽しみを見出すことは、昔も今も変わりは無いでしょう。

暗い夜を寂寥感を覚えながら彷徨っている時、商店街の灯を見つけてどれだけ慰められたことか…
商店街の灯よ、永遠に…








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