人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

ああ...自称覚者様 i

2017-07-08 10:35:03 | スピリチュアル
宗教、スピの周辺には「段々物欲がなくなってきた...怒らなくなった...ooヘルツに達した...何か見えるようになった...瞑想中体が浮いた...ついに悟った...」と、自慢話がいっぱいです。そんなに自称覚者になりたいのでしょうか。
今日では別になりたくなくても覚醒経験者になってしまう例が頻繁に起きています。
私もそんな人間の端くれなのかもしれませんが、そういう人=覚者でないことは、このブログを丹念に読まれれば判ります。
一方、「私は何10年も信仰し続けているけど、一向に神を実感したことがない...自分の長年の努力は無駄だったのか...」
という言葉には滅多に接することはありません。自称覚者、その予備軍のエライ人たちからは絶対に聞かれないでしょう。
正直にそういう言葉を口に出来るということは、それだけでもスバラシイことだと思います。内心ではともかくなかなか言えることじゃないです。
それが、真に己の限界というものに突き当たったという、心境の表明ならなおのこと、私は敬服に値するものを感じます。こっちの方が覚者に思えてきます。皮肉で無しに...
そういう言葉に接すると、閉めきった空気の淀んだ部屋に通気孔から涼風が吹き込んだような気分になります。
そこに思いを越えたものの息吹が伝わるからでしょう。
"何十年もおんなじこと言って、やってて何やってんだ..."と私が時折心無いことを呟いたりするのは、惰性でやっているような向きに対しての、心がネジ曲がった、私からの愛ある?、あるいはその全く無い心からの皮肉なのです。
神を知ったら、悟りを開いたからエライ訳でも、そうでなければダメな訳でもないのです。
第一、そういうことはいつも言うように、個人がどうこう出来るものじゃないし、個人だけでは起こり得ません。
ノンデュアリティなどでは、よく"誰でも皆最初から悟っている、神と一つのもの..."などと言われていますが、ある意味ではその通りでしょう。
目覚めに預かるか、どうかということは、ひっきょう我々の根底にある大本の神なる命が、表層意識に知らされているか、どうかの違いなのです。
精神的目覚め、悟りとは、"すでに目覚めている、神的なものと一つである"ということに"目覚める"、ということの他には無いのではありませんかi
一生懸命信仰して、修行して、このちっぽけな自分が一歩一歩神に近づいていく、ということが如何にズレた考え方であることでしょう。
ホントの悟りとは、"いくら人間が悟ろうと、神と一つになろうと五十歩、百歩だ"ということを悟ることでしょう。(私は悟っていないので分からないが...)
"みんな悟っている"...しかし一方"誰も悟っていない"...こう思わせられるのは、上記の理由だけではありません。
みんな悟っていて何で世界は、かくも迷妄、混乱、矛盾に満ちているのかi
この世界の現実を向こうに置いて、自称覚者の自分にだけアセンションが来たかのような言辞ほどオメデタイものはありません。
"自分が悟っている"、神と一つである"と周囲に吹聴することは、如何にこうしたことの内実を歪めてしまうことかi
本当に神に近い人とは、心底己れの限界、無力、無知さを知った、という人でしょう。
ここに至るまでのその人のそれまでの人生というものは、無駄だったのでしょうか?
多分..."ムダ"でしょう...それは"無"だったのです。たとえ死の目前まで、人生が無駄だったとしても、この一瞬の無の自覚に代えられるでしょうか...
それは自己の現実に向き合うということであり、そこから自己の思いは越えられ、自己の真実が開かれるのです。
自称覚者になろうとすることは、自己の幻影を追いかけていることです。思いの中で。
目覚めとは、幻影から覚める、ということでもあります。いつも正しくないとならない、自称覚者というものは、実は目覚めるのがもっとも難しいのです。アーメン...
宗教、スピ屋、自称覚者が居なくならないと、あなたと私の真実は開かれない...。



コメント
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