Mayumiの日々綴る暮らしと歴史の話

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大奥でスキャンダルを起こした江島は流刑された土地で清廉な身となる

2017-12-14 05:15:26 | Weblog

◆六代将軍の大奥に入って 大きな権力を持つように
 後に船橋聖一の小説『江島生島』で描かれた、大奥を舞台にした江戸の一大スキャンダル事件があった。それが江島生島事件であり、この一件の主人公となる女性が江島(1681~1741)である。甲府藩士の娘として生まれた江島は初めに尾張徳川家に仕え、次に甲府徳川家に仕え、甲府藩主の徳川綱豊が1709年に江戸幕府の六代将軍の徳川家宣となる際に大奥に入った。...
大奥では、家宣の側室で七代将軍となる家継の生母・月光院の右腕的な存在で、御年寄として大奥の公務を取り仕切っていた。
その江島が事件を起こしたのは、1714年のことだった。

◆人気歌舞伎俳優との宴会で 大奥の門限に間に合わず........
 月光院の名代として江島は、前将軍・家宣の墓参りの為、奥女中らと寛永寺、増上寺を参詣する。その帰路、江島は懇意にしていた呉服商の誘いで、木挽町(現在の東京都中央苦銀座)の芝居小屋・山村座で人気の歌舞伎役者・生島新五郎の芝居を観る。
芝居の後、江島は生島らを茶屋に招いて宴会を開くが、この宴会に夢中になって大奥の門限に遅れてしまった。大奥の門限は絶対で、時間を過ぎての出入りは何人たりとも禁じられている。
この事により、江島は評定所での審理を受けることになった。関係者が徹底的に調べられた結果、大奥の規律の緩みが明るみとなった。江島は役者の生島との男女の関係を疑われ、島流しと云う厳しい裁決が下された。
連座者として、江島の兄で旗本だった白井平右衛門は斬首(武士にとって切腹は体面が保てるが、斬首は屈辱と言える)、弟の豊島常慶は追放刑で最も重い重追放となった。
生島は三宅島への遠島となり、山村座は廃座となっている。
この様にして千人以上が罰せられたのだった。

当時の大奥には七代将軍・家継の生母の月光院と、前将軍・家宣の正室の天英院との間で勢力争いがあり、大奥では月光院の方が力を持っていた。
この江島生島事件を好機と見て、天英院は巻き返しを図り、その後、天英院が大奥に於いて圧倒的に優位な立場となるのだった。

◆幽閉された屋敷で 極めて質素に過ごす
 江島に下されたのは島流しの刑だったが、月光院は減刑を嘆願する。これにより、江島には罪一等を減じて、信濃高遠藩(現在の長野県伊那市高遠町)へのお預けと云う処分が下されたのだった。屋敷に幽閉された江島は、酒と菓子類を禁じられ、朝夕二度の食事は一汁一菜、着る衣服は木綿のみと云う質素な生活を送ることになった。外部との手紙のやり取りは許されなかった。

一日読経をして過ごしたり、唯一、外出が許されている日蓮宗の蓮華寺に行くなどしたりして、信仰を心の拠り所としていた。
そうした清廉な態度に高遠藩の藩主・内藤頼卿は心を動かされ、幕府に赦免嘆願書を出した。
その様なこともあって、江島の日常は比較的自由になった。屋敷周囲の散歩も認められ、月に何度かは城に出て城に勤める女性たちに躾の指導も行ったそうだ。
また、月光院が吉宗の許可を取り付け、江島は江戸に戻ることが許されたのだが、江島はこれを断り、信濃に留まり続けた。
二十七年の幽閉生活の後、江島は1741年に風邪が元で他界している。江島の墓は前途の蓮華寺にあり、彼女が幽閉された屋敷は当時の見取り図を元に復元され「江島囲み屋敷」として、長野県伊那市高遠町歴史博物館の敷地で公開されている。
尚、生島新五郎が三宅島に流された関係で、伊那市と三宅村は友好盟約を結んでいる。


(画像・月岡芳年による『新撰東錦絵 生嶋新五郎之話』)

*まとめ
 二十七年も幽閉され質素に生きた後に病死

       


                         「その後」の日本史
                              歴史を動かした女たちの「その後」

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