Mayumiの日々綴る暮らしと歴史の話

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◆一般市民を虐殺したゲリラ組織 『べトコン』

2017-10-11 12:41:10 | Weblog

*ベトナムの為にアメリカと戦う
 1945年に第二次世界大戦が終わってから、ベトナムはカンボジア戦争を経て南北に分断された。
このうち南ベトナムでは政情が安定せず、貧富格差が進行するなど、様々な問題が発生していた。
そんな状況に憤った者たちが結成したのが、南ベトナム解放民族戦線、通称ベトコンである。
彼らは「腐敗した南ベトナム政府の横暴に抵抗し、ベトナム統一と民族解放を求める」と唱えていたが、実際には北ベトナムの言いなりであった。その為、アメリカや南ベトナムからはベトコンと呼ばれていた。ちなみにコンとは、コミュニスト(共産主義者)の略である。彼らは結成後、南ベトナム政府に対する攻撃を開始し、宣戦布告もないままベトナム戦争が始まった。
ベトナムの独立と統一を巡り、1960年から15年間に渡って繰り広げられたこの戦争で、南ベトナム解放民族戦線はアメリカ軍を苦しめることになる。

*何でもありのゲリラ戦を展開
 ベトナム戦争は、中国やソ連の支援を受けた北ベトナムと、アメリカの支援を受けた南ベトナムが争うと云う構図だった。
最初はベトナム国内の内戦にすぎなかったが、北ベトナム側の台頭を恐れたアメリカが南ベトナム政府に介入した為、戦いは泥沼の様相を呈して行った。アメリカ軍はベトコンと手を組んでいた北ベトナムを爆撃し、更に近代的な戦力を以って南ベトナムを支援した。これに対し、ベトコンは正面切っての戦いを避け、ゲリラ戦を展開する。時には民間人を装って攻撃して来る為、どこからともなく仕掛けられる戦いに前線のアメリカ兵は疲弊して行った。これに手を焼いたアメリカ軍は、枯葉剤を散布した。
これは、ジャングルを巧みに利用するゲリラ攻撃を防ぐ為の戦略だったが、後に奇形の子供が生まれるなど、結果的には多くの一般市民に健康被害を与えた。

*一般市民を虐殺する
 ベトコンはゲリラ戦を展開する一方で、一般市民を巻き込んだ無差別テロ攻撃も行って、捕虜となったアメリカ兵や南ベトナム兵を必要以上に虐待し、更に味方の市民や兵士でも南ベトナム側の諜報員と見なされると、人民裁判にかけて即刻処刑した。
そして1968年、ベトナム戦争最大の転機となったテト攻勢に於いても、彼らは無差別攻撃を行っている。
「テト」とはベトナムで旧正月を表し、その間は南北ベトナム軍は共に休戦すると云う暗黙の了解があった。ところが、北ベトナム軍とベトコンはこの慣習を無視し、南ベトナムの各都市に対して一斉に攻撃を仕掛けた。この作戦は大成功に終わり、一時はアメリカ大使館まで占拠する程だった。そしてベトナム中部にある古都フエもベトコンの支配下に置いたが、この時彼らは南ベトナムの政府関係者を片っ端から捕らえ、路上で次々と処刑して行った。役人や警察官だけでなく、神父や学生、外国人医師などの一般人も処刑の対象となり、2000人以上もの人々が虐殺されたという。このテト攻撃を機にアメリカ本国では反戦運動が本格化し、遂に撤退を余儀なくされたのだ。そして1975年、南ベトナムの首都であるサイゴンが陥落し、ベトナム戦争は終結したのである。
南北ベトナムが統一された後、その役目を終えたベトコンは北ベトナム軍に吸収される形で解体した。
だが、ベトコンの面々は北ベトナムの労働党から疎んじられ、出国する幹部や元兵士も少なくなかったという。

*画像
 ベトコンによって爆破されたサイゴンのブリンクホテル
 2人のアメリカ人が命を落とし、107人のアメリカ人及び
 ベトナム人が負傷した(1964年)

 テト攻勢の当事者として米軍に捕獲され、尋問を待つベトコン

 テト攻勢で殺された夫の写真を抱いて葬儀に向かう若い未亡人

              




                                               本当に恐ろしい地下組織
                                                                          歴史を変えた地下組織

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