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唐王朝の宦官について  「宦官列伝より」

2017-07-15 12:28:24 | Weblog

宋代の人で「資治通鑑」の遷者としても有名な司馬光は、唐代における宦官勢力の発展経過を四つの段階に分けています。
「資治通鑑」に寄ると、「宦官の禍は明皇(玄宗)の時に始まり、粛・代宗の時に盛んとなって、徳宗の時にその勢力を確立し、昭宗の時に極まったと言えよう。」とあります。
この司馬光が挙げた四つの区分は、大よそ唐代における宦官時代区分を表していると云えます。
が、ここではその前段階も説明しようと思いますので、唐代を初期、武則天~睿宗期、玄宗期、粛・代宗期、徳宗期以降のそれぞれの時代に分けて考えてみようと思います。

1)唐初期の宦官について

唐の高祖(李淵) 紀元618年、煬帝が江都で殺されると、李淵は長安で皇帝を称して唐王朝を建国します。
唐王朝は隋の制度を多く引き継ぎ、宦官制度についてもほぼ隋の制度をそのまま引き継ぎました。
また、煬帝の頃に膨れ上がっていた後宮の宮女を大量に削減し、宦官の総数も大幅に削減します。

唐の太宗は建国後に於いて、彼らの職責範囲を厳しく制限しました。
太宗はその下詔で「宦官に物事を任せず、ただ門閣の警備と廷内の掃除、食事の世話だけを行わせよ。」と明確に規定していることからもそれが判ります。

その上、宦官が任じられる職の品帙を四品に抑え、また養子を持つことも禁止するなど、制度的に宦官に寄る政治干渉を抑えようと図ったのです。

また、宦官に対しても厳密に法を行使しました。
これは一見するとごく当たり前の事の様に思えますが、悪事を働く宦官は皇帝の威を借りている場合が多く、更には、常に皇帝の側に侍っているので、下手に法を適用して裁こうとすれば、逆に誣告(ぶこく・他人を 陥れることを目的として訴えることされるのは目に見えていました。

この為、それまでの王朝では、官吏が罪を犯した宦官を罰しようとしても、成功しない事の方が多かったのですが、唐の初期には、君主が宦官を罰することに何ら躊躇いを示さず、逆に官吏の側に立って宦官を弾劾した為、宦官に対しても容赦なく法が適用されることとなりました。

制度だけでなく、皇帝自らが宦官勢力の抑制に歴然とした態度で臨んだ為、唐初においては宦官が勢力を作り上げることや、政治に干渉する様なことは起こりませんでした。

2)武則天~中宗、睿宗期の宦官について

第三代皇帝高宗の後期、皇后の武則天が政治の大権を握った後、玄宗が即位するまでの約50年の間に、武則天の即位・中宗の復位・韋氏一族の専権など激しい権力争いが繰り返される事となります。

武則天の執政時に、内侍省は司宮台と改名されますが、
中宗の即位後に内侍省に戻され、その後、また内侍監と改名されます。
そして、後に元の名称に戻ります。

これらは名前の変更だけに止まらず、その人数も大幅に増加し、その任職の品帙も上がって行きました。

「旧唐書」に寄れば、「この頃には宦官の総数は3000人以上に上り、七品以上の品秩を与えられたものが1000人以上となった。」とあって、唐初に比べて大幅に人数・品秩の上昇が見られます。
ただ、この頃は五品以上の品秩を持つ宦官はまだ少なかった様です。
 
武則天の退位後、わずか8年の間に三人の皇帝が次々と即位することになりますが、その都度血なま臭い事件を伴っており、この一連の政変に於いて、多くの宦官が参与することになりました。

その結果、宦官の品帙制限は有名無実のものとなり、内侍省の官職以外に任じられるものや養子を持つことを許される宦官が出て来る様になりました。

玄宗期に宦官勢力が政界に進出してくる土台づくりは、この頃には出来上がっていたのです。

3)玄宗期の宦官について

玄宗が即位する前から、宦官はある程度の勢力を持つ様になっていました。
その中でも玄宗の即位に功があった「高力士」は、特に高い官職に任じられることとなります。
しかし、開元年間には「妖崇」による建議などに寄り、政務に関与することはほとんどありませんでした。
しかし、玄宗が女色に溺れて政治に飽きると、高力士に代表される宦官たちは遂に政治に関与できるようになりました。

旧唐書の高力士伝によると
「全ての奏文は、まず高力士が目を通し、その上で玄宗に上奏されるが、細かいことは高力士によって決裁された。玄宗は常に『(高)力士が居るからこそ、私は安らかに眠ることが出来る。』と言うほどで、常に宮中に留まり、自宅に戻ることすら稀であった。」
と云うから、高力士が玄宗からとても大きな信任を受けていた事が判ります。

当時の宦官が実際に勢力を握ったのは、内廷における事務処理の範囲に限られていましたが、宇文融、李林輔、楊国忠、安禄山、高仙芝ら、軍を掌握している将軍や、国政の要職にある大臣たちと交誼を結ぶことに寄り、間接的にではありますが、朝廷全域にその権勢を強めて行きました。

この事は当然、更なる宦官勢力の増大を招きます。
武則天の頃に数えるほどしかいなかった五品以上の宦官が、わずか50~60年後の開元・天保年間には、千人以上に膨れあがり、また「監軍」と云う宦官専任の職が制度化される事により、太宗以来続いてきた宦官を内廷以外の職に任じないと云う不文律が破られる事となりました。

では、なぜ玄宗の時に、宦官たちは急速に勢力を伸ばしていったのでしょうか?

唐も玄宗期になると、律令体制と現実との乖離(かいり)が大きくなり、次第に律令体制が崩壊して行く過程にありました。
この過程において、皇帝・官僚間の公的関係から、皇帝・宦官間の私的関係へと云う流れが、歴史の表面に現れて来たのではないかと思われます。

(補足の説明)
唐代では、宦官たちはその役所の場所から北司と呼ばれ、宰相など国政を司る官僚たちは南司と呼ばれていました。
公的関係の南司から私的関係の北司への勢力の転移といった現象は、禁軍においても見ることができます。
元々、唐の禁軍は、唐朝創立の頃の兵士達から選ばれた者で、元従禁軍と呼ばれていました。
彼らは宮城の北壁中央にある玄武門に駐屯し、則天武后から玄宗期の間に次第に拡張されて、北衙(が・役所のこと)禁軍と呼ばれる様になっていました。
これに対して府兵制により募兵された首都警備兵は、その駐屯位置から南衙禁軍と呼ばれていました。
国軍的存在である南衙禁軍に対して、北衙禁軍は皇帝との私的関係の強い親衛軍的存在であり、府兵制の崩壊に伴う南衙禁軍の縮小に対して、北衙禁軍が拡充の一途を辿った事は、律令体制の崩壊過程に、私的関係が支配秩序として歴史の表面に現れて来た現象になります。




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