Mayumiの日々綴る暮らしと歴史の話

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征夷大将軍だった坂上田村麻呂は蝦夷討伐後に自宅を寄進 後に清水寺となる

2017-09-26 04:29:52 | Weblog



*征夷大将軍として蝦夷の征討を成し遂げる

桓武天皇の時代以降、朝廷は稲作に適した土地を有する東国へ、支配の手を伸ばし始めた。
これに抵抗したのが、縄文以来の狩猟生活を送る蝦夷である。
この蝦夷討伐に大きな功績を残したのが、坂上田村麻呂(758~811年)だった。
789年、紀古佐美(きのこさみ)の率いる征討軍が、阿弓流為(アテルイ)の率いる蝦夷軍に大敗を喫する。
すると朝廷は、791年に大伴弟麻呂(おおとものおとまろ)を征東大使に任命し、出征。この時、征討副使の一人に選ばれたのが坂上田村麻呂だ。副官ながら中心的な活躍を果たしたと謂う。この活躍を見込まれ出世を続けた田村麻呂は、797年には征夷大将軍に任じられている。そして801年には阿弓流為を降伏させ、蝦夷討伐を完了させた。
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*妻と共に仏法に帰依し 自邸を清水寺の本堂に

坂上氏は渡来系の一族で、その祖は後漢の霊帝であると謂う。
百済から日本に帰化した阿知使主(あちのおみ)より、日本有数の氏族としての家系が始まる。代々弓馬に優れていたが、
中でも出色の人物が田村麻呂であった。
身長五尺八寸(約171㌢)、胸の厚さ一尺二寸(約35㌢)、体重二〇一斤(約132㌔)と云うから、見た目もかなりの偉丈夫だ。
更には目は蒼鷹の如く、髭は金色だったと云う伝承も残っている。
こうした偉丈夫然とした容貌とは異なり、田村麻呂の戦略は、ただ力だけに頼ったものではなかった。武力を誇示する一方で、治安の回復と民心の安定に努め、帰順する者の生活を担保してやることで、朝廷の威光を示したのだ。
田村麻呂は無益な殺生を好まず、敵に対する礼も知っていたが、そこには仏法への帰依もあったと想像される。
例えば、次の様な逸話が残されている。
780年、田村麻呂は妻・高子の安産祈願の為、鹿の血を求めて音羽山に登ったことがあった。山中に一筋の美しい水の流れを見つけた田村麻呂は、水源を求めて歩くうちに、清水寺を開創した賢心(後の延鎮上人)の草庵に辿り着く。
この時賢心は、鹿狩りにやって来た田村麻呂に対し、殺生の罪を説き、観世音菩薩の教えを諭したと謂う。感銘を受けた田村麻呂は、帰宅後に賢心との一件を妻に話し、仏法に帰依した。
そして、自邸を本堂として寄進することを決め、十一面千手観世音菩薩を本尊として安置することが決められた。
これが清水寺創建に纏わる縁起である。
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*死後も墓の下から朝敵に睨みを利かせる

英雄的な活躍をした田村麻呂だけに、東北地方を中心的に、多くの伝説が残されている。寺社建立の縁起も各地にある。
ただし、そのほとんどは信憑性が薄いものだ。
信頼できる話として晩年には、当時十二歳であった孫の葛井(かさどい)親王が、嵯峨天皇の御前で弓を射る余興を行なったところ百発百中だった為、田村麻呂は喜びの余り親王を抱いて舞を踊ったと云う逸話が伝わっている。親バカならぬ、祖父バカな一面である。

さて、武人が活躍するのは外敵との戦いに限らない。
内戦にあっても、その武威を示す機会は巡って来る。810年、平城上皇と嵯峨天皇の対立が激化し、政変が起きる。薬子の変だ。
この時田村麻呂は嵯峨天皇側に立ち、乱鎮圧に功績を挙げた。
これにより正三位、大納言兼右近衛大将兵部卿の官職を与えられている。
依然、健勝なところを見せた田村麻呂だが、死は直ぐそこに迫っていた。
薬子の変の翌年となる811年5月23日、五十四歳で病死。死後、従二位を贈られた。

田村麻呂の死を惜しまれた坂上家は、墓地として三町の土地を賜っている。
墓所の確定はされていないが、京都の山科区にある西野山古墓ではないかと推定されており、また、同じく山科区の勧修小学校の北にも、田村麻呂の墓とする石碑が建っている。
遺言により、死後も平安京を守護する為、金の鎧に太刀を帯びた姿で、鬼門を向いて埋葬されたと伝えられる。



(画像・幕末の絵師・菊池容斎によって描かれた伝記集『前賢故実』の挿絵)



*まとめ
 平安時代を代表する英雄は、仏門の世界でも伝説を残す

      

      




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