*敵味方関係なく巨額を貸した日野富子の錬金術
日野富子は室町幕府の第8代将軍、足利義政の正室である。
第1子が生まれるがその日のうちに夭折。それを義政の乳母が呪いを掛けたせいだとし、彼女を琵琶湖沖島に流罪にし、
義政の側室4人も追放した猛女である。
富子はその後に相次いで女子を産むが、男子を産むことは出来なかった。
義政は実弟で仏門に入ってい義尋を還俗させ、名を足利義視と改めさせ、細川勝元を後見に将軍後継者とした。
しかし寛正6(1465年)に富子が義尚を出産、富子は溺愛する我が子・義尚の将軍擁立を目論み、義尚の後見である山名宗全や実家の日野家が義視と対立した。これに斯波氏、畠山氏の家督相続問題などが複雑に絡み合い、応仁の乱が勃発した。
富子は戦いの全時期を通じて東軍側(足利義尚、山名宗全側)にいたが、東軍だけでなく西軍(足利義視、細川勝元側)の大名に多額(1回に1000貫≒4000万円単位)の金銭を貸し付けた。
また、京都の出入り口に7つの関所を作り、その通行料で莫大な富を得た。米の相場を釣り上げボロ儲けもしている。
それらにより富子には現在の価値で、60億円もの資産があったと謂われる。
(画像・応仁の乱を起こした天下の悪妻にして金儲けの達人である日野富子、応仁の乱の図)
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