ボランティアとは何だろう?
ボランティアという言葉が歩き出したのは、神戸の地震以降のことではないだろうか?
(話は逸れるが、この本に、神戸の地震の時のボランティア活動について、私の知らなかったことが載っている。マスコミが言わないことにした話は、きっと神戸の人たちはご存知なのだろう。情報というのはそういうものなのだと改めて思う。活動は身近なほうがいいのかもしれないとも思う)
広島ドッグパークのボランティアをなさった方たちの意見交換を読み、
私が最も息苦しく感じたのは
意見を言う人が「自分は一回しかボランティアに行っていないので、意見を言うのは心苦しい」とか
「一回しかボランティアをしていない人に、言って欲しくない」という書き込みを目にすることだった。
ボランティアとはそ~いうものだろうか?
もしそうだとするならば、私には到底出来ない。。。とため息をついていた。
例えば、施設の訪問とか、小学生がお年寄りに手紙を書くとか、街の掃除をするとか、
自分の出来る範囲でするちょっとしたことを、ボランティアという言葉で括ることは、
昭和の犬飼いの子供時代にはなかったように思う。
ボランティアを助け合いと定義するなら、私の身近なところでまず最初に思い浮かぶのは、町内会活動だ。
現在、わが町の町内会入会率は、かなり高率なのだそうであるが
ゴミ置き場の掃除当番が回ってくること、年に二回町内清掃があること
当番で町内会の世話役が回ってくること、世話役の時は夏祭りの準備などの世話役もあること。。。
私の田舎では、お葬式の手伝いも町内会の仕事だったが、ここではなさそうだ。
犬のシアワセ具合からも分かるように
くまさん地区はどちらかといえば生活水準があまり違わない平和な団地のように思える。
町内会運営に当たって、お互いが同じ分量の手助けをのぞめるというのは重要なことだと
過去の数少ない町内会ウォッチングの経験からではあるけれど、私は推測している。
町内会活動というのは、かつての「結」という組織の延長線上にあり、
日本人のボランティア感もどうもその延長上にあるように思う。
「おんなじ!だけの助け合い」が大切なキーワードだとすれば
「私はこれだけやっている。あなたはやっていない」という事態が起こるのは納得がいく。
ネットでは情報は何処までも、誰にでも飛んでいくのだから
おんなじ!ということは、ありえない。
それなのに、段々、同じような気がしてきてしまうのがネットの不思議だ。
だから、「同じだけ」という感覚を取り除けない限り、
ネット上の繋がりで擬似的「結」と化した活動を
グローバルスタンダード的なボランティア活動にすることは困難になってくる。
もしも欧米流のボランティア活動というスタイルが目指すべき活動ならば
ボランティアには、キリスト教的価値観が入り込んでいることを念頭に置かなければならない。
キリスト教的背景が入ると、ボランティアの考え方は「結」とはかなり違ってくる。
キリスト教徒の場合、他人との比較はする必要がない。
心の中には、絶対的な存在であるキリストが居て、人は常に神との対話によって
自分のポジションを決めていく。
自分が関心を持った事に関して自分が何が出来るかが大切であり、
人との比較は必要がない。
王様も大統領も、一般の市民も、絶対的神の前では平等であり
自分が出来るだけのことをするという考え方が、その基本にある。
日本のボランティア活動が「ボランティア殺しのボランティア」に陥りやすいのは
この考え方の差を自覚せずに、ボランティア活動というシステムを持ち込もうとしたからなのだろう。
注*「ボランティア殺しのボランティア」とは、この本によると
自己満足、変な義務感、使命感を持つ自己陶酔型のボランティア
他人を責める、皆の気力をなくさせるボランティアのことをさすらしい。
ネット上の繋がりが、思いがけず私たちの根っこにある「結」の感覚を呼び起こしてしまった。
そんな風に考えると、ボランティア活動の中で起きる様々な葛藤の説明も少しはついて
私の中にあったあの居心地の悪さの原因が、ちょっとは分かったような気分になり
それはそれ・・と思えるかな?
さて、過去からの根っこを引き摺る日本人にとって、
活動しやすいボランティア活動とは一体どんなものか?
ここから先のことは、またしても。。。。私にはまだよく分からない。
ボランティアという言葉が歩き出したのは、神戸の地震以降のことではないだろうか?
(話は逸れるが、この本に、神戸の地震の時のボランティア活動について、私の知らなかったことが載っている。マスコミが言わないことにした話は、きっと神戸の人たちはご存知なのだろう。情報というのはそういうものなのだと改めて思う。活動は身近なほうがいいのかもしれないとも思う)
広島ドッグパークのボランティアをなさった方たちの意見交換を読み、
私が最も息苦しく感じたのは
意見を言う人が「自分は一回しかボランティアに行っていないので、意見を言うのは心苦しい」とか
「一回しかボランティアをしていない人に、言って欲しくない」という書き込みを目にすることだった。
ボランティアとはそ~いうものだろうか?
もしそうだとするならば、私には到底出来ない。。。とため息をついていた。
例えば、施設の訪問とか、小学生がお年寄りに手紙を書くとか、街の掃除をするとか、
自分の出来る範囲でするちょっとしたことを、ボランティアという言葉で括ることは、
昭和の犬飼いの子供時代にはなかったように思う。
ボランティアを助け合いと定義するなら、私の身近なところでまず最初に思い浮かぶのは、町内会活動だ。
現在、わが町の町内会入会率は、かなり高率なのだそうであるが
ゴミ置き場の掃除当番が回ってくること、年に二回町内清掃があること
当番で町内会の世話役が回ってくること、世話役の時は夏祭りの準備などの世話役もあること。。。
私の田舎では、お葬式の手伝いも町内会の仕事だったが、ここではなさそうだ。
犬のシアワセ具合からも分かるように
くまさん地区はどちらかといえば生活水準があまり違わない平和な団地のように思える。
町内会運営に当たって、お互いが同じ分量の手助けをのぞめるというのは重要なことだと
過去の数少ない町内会ウォッチングの経験からではあるけれど、私は推測している。
町内会活動というのは、かつての「結」という組織の延長線上にあり、
日本人のボランティア感もどうもその延長上にあるように思う。
「おんなじ!だけの助け合い」が大切なキーワードだとすれば
「私はこれだけやっている。あなたはやっていない」という事態が起こるのは納得がいく。
ネットでは情報は何処までも、誰にでも飛んでいくのだから
おんなじ!ということは、ありえない。
それなのに、段々、同じような気がしてきてしまうのがネットの不思議だ。
だから、「同じだけ」という感覚を取り除けない限り、
ネット上の繋がりで擬似的「結」と化した活動を
グローバルスタンダード的なボランティア活動にすることは困難になってくる。
もしも欧米流のボランティア活動というスタイルが目指すべき活動ならば
ボランティアには、キリスト教的価値観が入り込んでいることを念頭に置かなければならない。
キリスト教的背景が入ると、ボランティアの考え方は「結」とはかなり違ってくる。
キリスト教徒の場合、他人との比較はする必要がない。
心の中には、絶対的な存在であるキリストが居て、人は常に神との対話によって
自分のポジションを決めていく。
自分が関心を持った事に関して自分が何が出来るかが大切であり、
人との比較は必要がない。
王様も大統領も、一般の市民も、絶対的神の前では平等であり
自分が出来るだけのことをするという考え方が、その基本にある。
日本のボランティア活動が「ボランティア殺しのボランティア」に陥りやすいのは
この考え方の差を自覚せずに、ボランティア活動というシステムを持ち込もうとしたからなのだろう。
注*「ボランティア殺しのボランティア」とは、この本によると
自己満足、変な義務感、使命感を持つ自己陶酔型のボランティア
他人を責める、皆の気力をなくさせるボランティアのことをさすらしい。
ネット上の繋がりが、思いがけず私たちの根っこにある「結」の感覚を呼び起こしてしまった。
そんな風に考えると、ボランティア活動の中で起きる様々な葛藤の説明も少しはついて
私の中にあったあの居心地の悪さの原因が、ちょっとは分かったような気分になり
それはそれ・・と思えるかな?
さて、過去からの根っこを引き摺る日本人にとって、
活動しやすいボランティア活動とは一体どんなものか?
ここから先のことは、またしても。。。。私にはまだよく分からない。