おしゃべりなしっぽ

犬飼いのシアワセ、犬飼いの戸惑・・・
(えっ?お母さん、ボクは世界で一番かわいい犬でしょ)

ドッグパーク、再び⑤

2007-08-31 | 母のつぶやき
ボランティアとは何だろう?

ボランティアという言葉が歩き出したのは、神戸の地震以降のことではないだろうか?

(話は逸れるが、この本に、神戸の地震の時のボランティア活動について、私の知らなかったことが載っている。マスコミが言わないことにした話は、きっと神戸の人たちはご存知なのだろう。情報というのはそういうものなのだと改めて思う。活動は身近なほうがいいのかもしれないとも思う)

広島ドッグパークのボランティアをなさった方たちの意見交換を読み、
私が最も息苦しく感じたのは
意見を言う人が「自分は一回しかボランティアに行っていないので、意見を言うのは心苦しい」とか
「一回しかボランティアをしていない人に、言って欲しくない」という書き込みを目にすることだった。
ボランティアとはそ~いうものだろうか?
もしそうだとするならば、私には到底出来ない。。。とため息をついていた。



例えば、施設の訪問とか、小学生がお年寄りに手紙を書くとか、街の掃除をするとか、
自分の出来る範囲でするちょっとしたことを、ボランティアという言葉で括ることは、
昭和の犬飼いの子供時代にはなかったように思う。


ボランティアを助け合いと定義するなら、私の身近なところでまず最初に思い浮かぶのは、町内会活動だ。
現在、わが町の町内会入会率は、かなり高率なのだそうであるが
ゴミ置き場の掃除当番が回ってくること、年に二回町内清掃があること
当番で町内会の世話役が回ってくること、世話役の時は夏祭りの準備などの世話役もあること。。。
私の田舎では、お葬式の手伝いも町内会の仕事だったが、ここではなさそうだ。


犬のシアワセ具合からも分かるように
くまさん地区はどちらかといえば生活水準があまり違わない平和な団地のように思える。
町内会運営に当たって、お互いが同じ分量の手助けをのぞめるというのは重要なことだと
過去の数少ない町内会ウォッチングの経験からではあるけれど、私は推測している。



町内会活動というのは、かつての「結」という組織の延長線上にあり、
日本人のボランティア感もどうもその延長上にあるように思う。
「おんなじ!だけの助け合い」が大切なキーワードだとすれば
「私はこれだけやっている。あなたはやっていない」という事態が起こるのは納得がいく。

ネットでは情報は何処までも、誰にでも飛んでいくのだから
おんなじ!ということは、ありえない。
それなのに、段々、同じような気がしてきてしまうのがネットの不思議だ。

だから、「同じだけ」という感覚を取り除けない限り、
ネット上の繋がりで擬似的「結」と化した活動を
グローバルスタンダード的なボランティア活動にすることは困難になってくる。


もしも欧米流のボランティア活動というスタイルが目指すべき活動ならば
ボランティアには、キリスト教的価値観が入り込んでいることを念頭に置かなければならない。
キリスト教的背景が入ると、ボランティアの考え方は「結」とはかなり違ってくる。
キリスト教徒の場合、他人との比較はする必要がない。
心の中には、絶対的な存在であるキリストが居て、人は常に神との対話によって
自分のポジションを決めていく。
自分が関心を持った事に関して自分が何が出来るかが大切であり、
人との比較は必要がない。
王様も大統領も、一般の市民も、絶対的神の前では平等であり
自分が出来るだけのことをするという考え方が、その基本にある。



日本のボランティア活動が「ボランティア殺しのボランティア」に陥りやすいのは
この考え方の差を自覚せずに、ボランティア活動というシステムを持ち込もうとしたからなのだろう。

注*「ボランティア殺しのボランティア」とは、この本によると
自己満足、変な義務感、使命感を持つ自己陶酔型のボランティア
他人を責める、皆の気力をなくさせるボランティアのことをさすらしい。



ネット上の繋がりが、思いがけず私たちの根っこにある「結」の感覚を呼び起こしてしまった。
そんな風に考えると、ボランティア活動の中で起きる様々な葛藤の説明も少しはついて
私の中にあったあの居心地の悪さの原因が、ちょっとは分かったような気分になり
それはそれ・・と思えるかな?

さて、過去からの根っこを引き摺る日本人にとって、
活動しやすいボランティア活動とは一体どんなものか?
ここから先のことは、またしても。。。。私にはまだよく分からない。

ドッグパーク、再び④

2007-08-31 | 母のつぶやき
第ニ章 
       ボランティア・・・


広島ドッグパークの犬たちのレスキューの過程では、
ボランティアのあり方についても考えさせられた。

ネット環境があるから、遠く離れたところに住んでいても
レスキュー活動中のドッグパークで何が起きているかを知ることが出来た。
けれど、情報が交錯して戸惑いを感じるような状態も続いた。
ボランティア間で混乱が起きた原因は、
ドッグパークで中心となって活動をした愛護団体側の情報の発信が
的確でなかったことが上げられると思う。
船頭役を果たすと手を上げて乗り込んだ愛護団体が、分かりやすい指示が出来なかったせいで
善意で集まった多くの人が、自分のやり方で動かざるを得なかった。
意思の統一が図れない混乱は、情報がネットを通して伝わることで大きくなり
ネットのこちら側で情報を受け取る人間を徐々に不安にさせていった。

団体の活動方向に最初に疑問を投げかけたのは、
広島の活動で、シガラミをあまり感じていない人たちだったように思う。
「この活動は何か、おかしい」と誰かが呟いた時に起きた
ネット上で起こったボランティア同士のやりとりの激しさに私はたじろいだ。
何人かの人が、自分のブログを閉じる事態に追い込まれた。

あれ以来、文章だけが行きかうネットは怖いものだと、私は感じている。



ボランティア活動は難しい。
子持ち主婦に真っ先に思い浮かぶのは、
春先のPTAの委員決めの時の息を殺したような時間。
PTAの委員会はボランティアだろうか?正確には違うかもしれない。。。
話が逸れそうなので、この話題は






永六輔氏と助世夫健氏が語る「あがぺ・ボランティア論」という本がある。

いろいろな場所で、ボランティア活動をしてきた方たちの本だけに
私が戸惑った事に対する謎解きを、上手にしてもらえたような気がしている。


例えば、本の中に、ボランティア活動は一生懸命になればなるほど
役割や作業の一点だけを見つめて、人間としての感情、常識を忘れかける
との指摘がある。
それが良いとか悪いとかという話ではなく、
一生懸命なあまりにそんな風になりがちだというただそれだけの指摘だ。


だから、ワンポイントのリリーフボランティアの存在は大切だ。
現場に常識を運ぶ仕事をしよう。
思っていることを伝えていこう・・・という提案がなされる。


もしもあの時、ごく一般的な認識として
「人は誰でもボランティア活動に熱心になると、高揚しすぎた精神状態になることがある」と分かっていれば
何か変な感じがする。。と思いを伝えようとした人たちの声を
もう少し柔らかく、余裕を持って考えられたのではないか?

あのネット上で起こった出来事をそんなふうに捉えることが出来たのは
この本を読んでの収穫だった。


この本では、永六輔氏は仏教の立場から、ジョセフ氏はキリスト教の立場から話を進める。
私自身は、キリスト教徒でもなく、仏教徒とも言えない立場にあり
おそらく私の宗教に対する距離感は、大多数の日本人と似ていると思うので
本の手助けを借りながら、自分の価値観でもう少し話を続けたいと思う。 
                    ⑤に続きます。

ドッグパーク、再び③

2007-08-30 | 母のつぶやき
言い換えると、私の中の安心と信頼の違いはこんな感じ。

昔はそこここにあったご近所の八百屋さんをイメージして欲しい。


八百屋のおじちゃんは、一人で店を切り盛りしている。
自分の店の商品は、自分のものだ。
きれいな可愛い、おじさんお気に入りの娘さんが買い物に来たら
おまけが増える。
ある家が心配事を抱えていると知れば、元気だしなよ、、とジュースを出してくれたりもする。
夕食の食材は、自分の店の商品を使う。
そのことに、別に何の問題もない。

子供が大きくなり、店を手伝いだす。
子供が結婚して、家族が増える。
お店が大きくなって、パートのおばちゃんが雇われる。
お客さんも隣近所の人だけでなく、不特定多数の顧客へと変わる。
おじちゃんの頭の中だけにあったおじちゃんだけのルールでは
だんだんに通用しなくなる。


①にも書いたが
私の広島ドッグパークのレスキュー記事における一番大きな勘違いは
保護活動の主軸となった愛護団体を、経験豊富な大きな組織だと思い込んだ点だ。

前にニュースで取り上げられたから・・・
おそろいのユニフォームを着ていたから・・・
大阪という大都会を本拠地にして活動する団体だったから・・・
そんな理由からの判断ミスだった。
二次情報のみで物事を判断するのは、本当に危険なことであると痛感している。


その後のレスキューの経過を見ると、その団体は、私が思っていたような組織ではなかったようだ。
軋轢の原因となったのは、大きな保護活動を仕切っていくだけのリーダーシップの不足、
集まったドッグフードや商品や寄付金を自分たちだけのルールで使おうとしたこと。
募金を募った時の約束を、重要視しなかったこと。

八百屋のおじちゃんが、八百屋のおじちゃんのままのやり方で
スーパー経営を思いついたら、起こりそうな問題ばかりのように思える。
(八百屋のおじちゃんを悪く言うつもりはないの。立場によって仕事の仕方は違ってくると言いたいだけなの。。




保護活動を少人数で細々とやっている上では「思いやる心」があれば十分だと私は思う。
けれど、保護する頭数が増えて、規模が大きくなった時には、
リーダーには、温かな心と共に、冷静な頭脳が必要になってくる。
会社を経営する能力と、保護団体を運営する能力は、似た部分が必要なように思える。



そんな風に思っても、過去からやってきた私は、八百屋のおじちゃんの安心を恋しがる。

だが、欧米並みの保護活動、グローバルスタンダード!と語る時に
必要な物差しは、安心ではなくて信頼だ。


信頼の上に、あるいは信頼とともに、安心があるのならば素晴らしいことだが
信頼を得るために必要な能力が十分に備わっていないことを隠すために
出来もしない安心や、愛護の心をを持ち出して、
人の心を惑わせ、丸め込もうとすることは許されてはならない。



動物保護活動の規模をを大きくする時に、この点はまず心にとめるべきだと思う。


社会的な信頼を得たいのであれば、契約は守られなければならない。
たくさんの人が関わるのであればあるほど、分かりやすいルールが必要になる。

社会的立場で活動する団体に求められているものが
個人的立場で活動する際に求められるものとは違うことは当然だ、
と気付くことが出来ない団体では
グローバルスタンダードな動物保護活動は上手くいかないと私は思っている。

契約は守られなければならない。
安心がお互いの甘えになってはならない。


ここがきちりと整理できないと、
「なんだか素敵なグローバルスタンダード!」は
いつまでも混乱し続けるように思うのだ。




これからのことを考えるとするなら・・・・

一番新しい物は、古くなるし
古いと思われているものの中には、新しいものが潜んでいると私は思う。
安易にグローバルスタンダードという言葉を持ち出すことなく
今までのものに足りないものを足したり、
今の時代の流れには合わなくなってきているものを引いたりしていければ
新しい保護活動の道筋が見えてくるような気がしているのだけど。。。


今の私には、それから先の具体的イメージはまだ見えてきていません。

ドッグパーク、再び②

2007-08-30 | 母のつぶやき
第一章 
    動物愛護団体


日本における一部の動物愛護団体に対する自分の引っ掛かりを、
どんな風に書けば良いのか?
こんな言葉で始めてみる。

「安心と信頼は違う」

何ヶ月か前の夜、心に引っかかって来た言葉だ。
10時過ぎると深夜の私は、睡魔に勝てずにその放送を見られなかったのだが、、
言葉が私の中で独り歩きした。

(テレビ番組でその言葉をおっしゃったのは北海道大学の山岸俊男教授という方です。
後で調べたら、山岸教授の「信頼と安心」は、
私の頭で勝手にグルグル歩き出した「信頼と安心」とは、ちょっと違っているようなので、
そちらが気になる方は、教授の書かれた本をお読みになってくださいね。)




「安心と信頼は違う」
自分を物差しにすることしか、判断基準が持てない私は
この言葉を自分に当てはめてみた。
私は、安心はされているけど、信頼はされていないよ~な気がするよ。
安心の「安」の字が「家の中に女」だと気付き、苦笑いする。

まず最初に思い出したのは、こんなエピソード。

ある時、学校の緊急連絡網が回った。
手違いで我が子のクラスの1ラインだけが連絡網から抜けてしまっていたと
後から分かるのだが、とにかく私はその連絡を知らずに子供を学校に送り出した。
登校した子供から
「先生には、きっとお母さんが昼寝して連絡網を受け損ねたのだろうと言っておいた」
という電話が来た。
確かによく昼寝をしてはいるが・・・
「愛はあるんだろうけど、あんまり信頼はされていないなぁ~」とその時思った。

家族とは得てしてそんなものだ。
それぞれがそれぞれのウンニャンニャンな部分には半分目を瞑りながら
でもまぁ全体とすればこんなもんだ!的なところで手を打って暮らしている。
それが、安心ということなのだろうと私は思う。

私にとっての安心は、丸く温かく、境界線がなく、適当。
言葉では約束はされていない無限大の愛。
上手くいかないこともあることは分かっていても
何処かで帳尻は合うということを疑わず
安穏と任せて、自分は思考停止をしていられるような・・・
ぬるくポヤポヤ~としていて
些細な不都合や不始末はあったにしても
大きく見て悪いようにはしないだろう、
なんとなく阿吽の呼吸で上手くいくだろう。
「悪いようにはしないだろう」というのは、
片方の利己的で依存的な勝手な思い込みだから
とんでもないところで「そ~いう人だと思わなかった」などと言われたりもするけれど
社会的にはあまり責任がなくてうやむやで許されてしまう。
究極の安心を目指すなら、やってもやっても追いつかない感じだけれど
基本的には何処まで行ってもアマチュアであることが許されるというのが、私にとっての安心という語感。


対比しての、信頼は能力だと思う。
信頼は、この分野に関しては、ココまでは、確かに請け負いますというように
スックリと立つ語感が私にはある。
安心がどこかに甘えを含むのに対して、信頼は言葉で表された契約に近い感覚。
ここが損なわれた時は、社会的責任が存在する。
悪いようにはしないという漠然とした思い込みではなくて
ここまでの結果は期待していますという、
限定された部分においては、安心よりも高度な要求を満たすもの。


辞書を引くと
安心・・心配がなくなって、気持ちが落ち着く様子。
信頼・・相手方を信用して疑う気持ちなく任せきりにすること。

心配・・・先行き不結果が起こりはしないかと心を悩ますこと。
信用・・・確かだと思ってそれに従うこと、間違いないと見込むこと。

ん~、なんだか余計に分かりにくい。。。。。。
 
                      では、③に続きます。


ドッグパーク、再び①

2007-08-30 | 母のつぶやき
6月に、私のブログを読んでくださっている方からメールを頂いた。
「結さんの中で、広島ドッグパークはすでに終わったことですか?」

去年、私は、広島ドッグパークのことを、何回かこのブログで取り上げていた。


犬ブログの住人たちの多くは、
広島ドッグパークにおけるレスキューの経緯は知っているだろう。

ネットから発信され、ニュースからワイドショーへと広がった
悲惨な犬たちの映像に、多くの人たちは心を痛めた。
注目の中で始まったレスキュー活動には大きな関心が寄せられた。

犬を救いたいという気持ちで、多くの救援物資や寄付金が集まり
全国各地から、ボランティアがレスキュー活動に参加した。

ペットブログの住人の多くがこの問題を取り上げた。

ところが、レスキュー活動が始まって一ヶ月も経たないうちに
救援に入った愛護団体の募金の使い方や救援物資の取扱方、
犬の扱い方などの問題点などが目立つようになってきた。

悩み、戸惑い、怒り、悲しみがネット上で語られ出した。

やがてこの話は、個人のブログでは取り上げるには重すぎる話になり始めた。
事の経緯に、誠実なブログ運営をして多数の読者を集めるブロガーは
「募金を」と呼びかけたことや、この問題を世の中に広く知らしめたことにに対しての
お詫びの文面を載せ始めた。

広島ドッグパークの犬の多くは、善意の人たちの家族の一員に迎え入れられたが
この問題に大なり小なり関わった人たちの心には、
小さな(大きな)引っ掛かりを残す結果になった。


お詫びの文面が、方々のブログに掲載された頃、
私は何回か自分が書いた文章を読み直した。
ニュースで知った時点で、何を問題と思い、何を考えたかについては
それ以上の加筆や訂正するところは、見当たらなかった。

私の仕出かした一番大きな間違いは
レスキューの核になった団体が、大きな規模の団体だと思っていた点にあり
それは、私が二次情報しか入手していないための勘違いだった。

レスキューの経緯で考えさせられたことはたくさんあったのだが
「どっぐぱーく」だけの問題として語るには、私の頭は放散系に陥っていた。
犬を助けるという活動だったのに、
その経過に自分が居心地の悪さを感じているのは何故なのか
善意溢れた活動だったはずなのに
戸惑いややるせなさを感じているのか何故なのか
そこに 違和感はあるけれど、順序だてて語れるだけの情報も知識もなかった。

ひろしまドッグパークの犬たちは、映像を通して私の目の前にいたのだが
現実に私の目の前に居たわけではなかった。
私が得られる情報はテレビやネットを通しての二次情報だったし
だからと言って、広島まで出かけることなど私には考えられなかった。
起こっていることは、混沌として、私が感想を述べるのは難しかった。

それで、そのままになってしまった。



メールを受け取ったことを機会に、
私は自分が何を考えてきたか語れるだろうか?と振り返った。
語るには、まだ知識の量も考えの深まりも足りないと思う。
が、今の時点で感じていることを、書ける分だけ書かなければ
たぶんこれから先もこのことについて触れることはないだろう。
折角の機会だから、書いてみよう。
と思いながら、難しくて遅くなってしまったけれど・・・

話はあちこち飛ぶだろうし、急上昇と急降下を繰り返すだろう。
きっと彼女は、こんなことを尋ねたかったわけではないだろ~なぁ。。とも思う。
私の脳みそは賞味期限が迫り、息絶え絶えだから、こんな風にしか語れない。

混乱します。
長くなります。
勝手ながら「また迷い込んでいる!グフフ!」と思ってくださる方だけ
お付き合いください。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

ドッグパークレスキューの経過の中で、考えさせられたことは多かったのだが
なぜこのような事態が起きるのかという、最初の最初の部分については
ブログで、直接、広島のことに触れていないところでも、
何回か書いていることと重複してしまうので
今回は、レスキューの経過の中で、
引っ掛かりを感じた下記の三つのことについてのみ書いてみたいと思う。

第一に、愛護団体のこと
第二に、ボランティアのこと
第三に、保護施設のこと

今回のテーマは、一言で言うと
「自称・動物愛護家が語る、欧米流、グローバルスタンダードな動物愛護」という主張に
素朴に混乱する昭和の犬飼いの私。。。




大丈夫だろうか?
目標地点まで無事に辿り着けますように。。。


自生トマトの不思議

2007-08-27 | 花や木や野菜たち
今年、苗を買って来て植えたトマトは、普通の大きさの普通のトマト。

お天気が良いと、毎日一個ずつくらい赤くなり、油断していると野菜がたまる。
毎夕、採り忘れた野菜を取るのに庭に出ては、蚊に刺されている。

 
ゴーヤが大きくなりきるまで待てず、きゅうりが大きくなるまで気づかず。。の写真。


私が、植えたトマトは一本なのだが、庭にはあと4本、トマトがある。
このときに間引きが出来ないって書いた、自生トマト。
このあと、二本を、やさいばたけの方に移し、二本ほど間引きし
残りをそのまま庭の隅に残した。

やさいばたけに植えた二本の内、一本は根付かず
庭の隅に残した数本は、勢いのあるのだけ生き残り
間引きして引っこ抜いた雑草と一緒に土に返したはずのなかの一本は、
自力で根を張り生育中。
トマトって。。。雑草だった?って思っちゃうくらい強い。


その自生トマトに面白い現象が起きている。
去年、私がプランターに植えたのはこんなふうなトマトだった。
(愛子ちゃんというフルーツトマト。。。)
畑に移したトマトは、確かに愛子ちゃんの子供だと思う。


けれど。。。庭の隅で大きくなっているのは 何処の子?

何処から見ても、中型トマト。

土に返るはずだったのにたくましく育っている、腐葉土の中のトマトクンはまだ実がなっていないのだけど
一番がっちりしていて、愛子ちゃん似ではなさそうな予感。

愛子ちゃんがF1品種だったかどうかは覚えていないけど・・・
もともと愛子ちゃんは雑種で、その種はいろんなトマトになっちゃうってことなのだろうか?

中型のトマトのお味は?
まさか、食べちゃダメ!な品種ってことはないんだよね。



理由を知りたい

2007-08-25 | 花や木や野菜たち
ず~っと気になっていたことがある。
春先くらいからニュースなどで度々取り上げられている、ミツバチの失踪の謎。


眼科に行った帰りに入った喫茶店においてあった雑誌に
ミツバチの失踪は、電磁波の影響らしいという記事があった。
電磁波・・・ふ~ん。

世の中には、よく分からないものは安全と思う人間と
よく分からないものはなんとなく不安と思う人間が居て、私はもちろん後者。
電磁波に囲まれて生活しているのは知っているし
もうど~しようもないことなのに、なんとなく怖い。
怖い怖い病。。。


ミツバチ失踪は電磁波のせいなの?と検索したら、
電磁波の影響については否定的見方という記事がたくさん出てきた。
電磁波の影響であってもおかしくない気もするんだけど。。。
電磁波の影響だったら・・・困るよね。

どうやら、理由はまだ分からないらしい。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

初夏の一時期、我が家には蜂がたくさんやってくる。
エゴノキ、ヒメシャラ・・・それから。。。ブルーべりー

 先週あたりからようやく収穫期になった。



ブルーベリーは、一本だけでは受粉しにくいと言われているが
我が家のお隣の庭にもブルーベリーの木があって
お陰で、たった一本の木でかなりの量が取れる。
クーは、ブルーベリー摘みをする私の横に張り付いて
籠からブルーベリーを一気に失敬しようという作戦
去年までは、クーは自力で食べていたのに・・まったく!



ヨーグルトの上にそのままトッピングして、夕食後に食べた。
もちろん、クーも。。。
ブルーベリーは数百円出せば買えるのだけど、
一年育てて(って、年一回ピートモスを敷き込む以外何もしてないけど)
摘んで食べるという、この贅沢感までは売っていない。


来年もまたその次の年も、蜂さんには花の蜜を上げるから
どうぞ、たくさん受粉をしに来てください
生態系が崩れたら困ることはたくさんある。
だから、庭のかえるさんも・・・
我が家と、仲良くしていてくださいね。。


出口?

2007-08-23 | 仲良く暮らそう
変形していたサークルを、長方形にしたのはいつだったっけ?

サークルの形が変形だったのは、図形が得意な私が
増設パーツを間違って買って来て、
面倒なのと、もったいないのとで、全部このまま使っちゃえ~
だったせいなのだけど、
ある事情で長方形にしてみた。

動いているうちにビミョ~に開いてくるのだが
クーはそこから出られると思っていなかった、、、
夏休み前までは・・・

反対側の正規の出入り口には、ある事情で鍵が付いている。
鍵を開けて犬を出すことを面倒くさがる人が、家にいた。
「こっちから」「こっち!」
頭の良い毛深い息子に余分なことを教えたのは誰っ!!

昨日は、クーをサークルにいれ、家を留守にした。
クーはサークルで寝ていた。
夕方、家の不具合を見に業者さんがやってきた。
クーはサークルの中にいた。


同じ夕方、家族が帰ってくるのが遅く、小腹が減った私は
バナナの皮を剥いて気配に気づいた。

出てる・・・
「ぼくもお腹すきました」


だからぁ~
クーは賢い!・・・・ふ~っ!


行く夏。。。

2007-08-19 | 母のつぶやき
数日前までは暑くてビールを飲む気にもなれなかったが、
金曜日を境にして、すっかり涼しくなった。
昨日など、半袖でいるのが寒く、七分袖のTシャツを着ていた。

夜の散歩を拒否していたクーも、昨夜は元気に散歩に出かけて行った。

冬になれば異論も出るだろうが、天気予報図をみながら
やはり東北は過ごしやすいと、西の地方の暑さを思う。

暑い地方の皆様、暑いときは休みましょう!
どうぞ無理せず、この暑さを乗り切ってください

夏休み最後の週末は、町内の夏祭りで、
地域の小学校、中学校、地区のサークル活動をしている人たちと町内会が協力してお祭りをする。
会場となる公園の草むしりはPTAのオヤジの会で
祭りの設営、撤去は町内会、翌日は中学生が公園の掃除をする。

そんな小さなお祭りに、小さな男の子がいる友人を誘った。

十年以上前、友人たちが大学生の頃、子供たちは群れながら彼らに遊んでもらっていた。
その時の若者たちは家庭を持ち、子供たちは大学生、高校生になった。

時はすぎながら、繰り返すのだと
かつての小さい男の子と、現在の小さい男の子が
ダダダッといっしょに家の階段を駆け上がる姿を見ていた。


問題は。。。小さいおにいちゃんたちに遊んでもらっていない毛深い息子である。
人見知りで目立ちがりで、繊細で好奇心おう盛な毛深い息子は、子供が大の苦手である。
バス時間に合わせ、犬息子を連れて散歩に出て、一緒に来る道すがらで
小さい子供は怖くないことを認識させようとした。
犬は極めて礼儀正しく、お客を無視した。
なかなか、、、と思ったのは大間違いであると知らされたのは、
お客さんを家に招き入れてからのこと。
小さい男の子に「吠える犬を無視してください」は無理で、
吠えれば怖いし、伏せれば触りたい。。と小さな目が曇ったりキラキラしたり。。
犬は反応してくれるお客様が気になって仕方ない。

何回か犬を庭にだしたり(うるさいもんで)家に入れたりを繰り返すと
警戒吠えは、「おいらも混ぜろ」吠えに変わり
犬なんだか人間なんだか、人間なんだか犬なんだか。。。
たぶん、犬は自分を犬だと思っていないけれど
それは犬を息子として育てた母の育児上の失敗であるのだが
クーが面白すぎたから。。。

そんなにぎやかな一日を過ごして、夏が終わりに近づいている。
人が行ったり来たりして、賑やかに集ってこその夏。
年ごとの思い出に、また思い出を重ねて。。。
昨日が暑い日でなくて、良かった。

さてと。。。これから小さいお客さんを我が家にお招きするにあたって
犬である犬は。。。クレートに入っていてもらうか
それとも、犬であると認識していただくか。。。なんとかせねば
課題満載の飼い主一号と犬息子です。



。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。
ただいま、私のパソコンはメモリが小さすぎて役に立たないという理由で
私の横でひっそりと過ごしております。
容量の大きいパソコンは、早いのね~。
立ち上がりも早く、絵文字もすいすい出てきます。
でも、ちっちゃいし、違う機種だから、おばさんには少々違和感。
数年前のパソコンを買ったままで使っているのは信じられないことだそうで
私のも、メモリを増やして貰いました
秋からは、すこし快適に過ごせるでしょう。
これで駄目なら、、、という技も伝授されましたが
自力でそんなことが出来るだろうか?
駄目だったら、また直してください




そ~なのかぁ~

2007-08-12 | 花や木や野菜たち
わが国の06年度の食料自給率は39%だった。

今朝の新聞にカロリーベース計算の都道府県別食料自給率(05年度)が載っていた。

食品自給率の高いほうから・・・
北海道 201%
秋田  164%
山形  127%
青森  115%
岩手  103%
佐賀  96%・・・・と、続く。。。。

北海道・東北6県・新潟は、すべてベスト10までに入っている。

低いほうからだと・・・
東京   1%
大阪   2%
神奈川  3%・・・である。



もう一つの資料を思い出した。
今回の参院選挙の際に配られた、公務労協のちらしである。

2004年の平均所得ランキング(出典:毎日新聞)
上位自治体、一位・・・東京都港区、947万円
下位自治体、一位・・・北海道砂川町、211万円

我が家の冬の隠れ家がある、秋田県東成瀬村が222万円で、下位の4位に記されている。


日本は、こうして回っている。。。

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さて、我が家の自給率の話。。。

クーの実家から電話があった。
「今年は庭で何を作ってるの?」
「きゅうりと、ゴーヤと、トマトと・・・・さつまいも。。。」
実家の母さんがクスクスッと笑った。
「さつまいもに、肥料やってないでしょうね
「えっ?夫が耕して作ったから・・・でも・・・」
「肥料入れると、葉っぱだけ成長するよ~。し~らない

「・・・そうなんだって、げんちゃん 肥料入れた?」
「入れた。。。
「今年は葉っぱを観賞してください

 「これが、サツマイモの葉っぱですかぁ?

確かに、葉っぱは凄い勢いで成長しています