紫苑の部屋      

観劇・絵画と音楽・源氏物語      
について語ります        

源氏能「野宮」に思うこと

2014-10-05 13:43:46 | 観劇
「高砂」後シテ

源氏を扱ったお能は、10曲あります。
半蔀・夕顔・葵上・野宮・須磨源氏・住吉詣・玉鬘・落葉・源氏供養・浮舟、です。
今回念願の野宮、を観ました。

番組は
能「高砂」・狂言・仕舞、に続いて
能「野宮」
でした。

野宮、観たくて出掛けたのですが、
面白かったのは、
高砂、でした。

有名なあの謡がどこで出てくるかなー、
という程度の興味でしたが、
前シテの老夫婦、から一転して若い神様の力強い舞、
変化に富んで、飽きさせない(=眠くならない)
歌詞が全部わかるわけではないですが、大筋の流れがわかるだけで、
十分楽しめた、のがいいと思いました。

お能は何と言っても
真之一声、とくに笛の一声、
あれを聞くと身体に芯が通ります。

登場は姥が先、橋がかりを進んで振り返ります、
翁はシテ、後から出て老夫婦は向かい合う、相生の松ね。
老夫婦の足の運び、つま先の上げ具合・歩幅、立ち上るときの勢い、
うまーく表現していて、面白い。
とくに姥、演じている人は若いのだと思います、
不思議なことに後ろ姿が美しい、
若いっていいですね、たたずまいに品格がでるような気がします。

ある能研究者が言っていたことですが、
老婆を主人公にした世界の演劇、皆無ではないか、ということです、
日本の芸能が唯一、
老婆を演じるノウハウを持っている、
歌舞伎でも老婆の大役、三婆といって重んじています。
世阿弥の残した花伝が大きいのでしょうね。
わび寂び、もこれに通じます。

それはともかく、お爺さんのほうもすてき!
熊手を掃く所作、舞いになっている。そして
↓この絵のように好々爺、ではないところがいい。今回翁の持っていたのは熊手でした。


すっくと立ち上がるとき、気合いを入れてえいやって、力任せなところなんか、
頑固なじいさんらしくて…
後半の住吉明神につながっています。
後シテは若い青年邯鄲の面で、お囃子とともに、
緩急織り交ぜ、8段(8場面転換)の神舞(かみまい)がすばらしい。
足拍子をあんなに目いっぱい打ち鳴らすのですね、
若さあふれていい!

ところで、「高砂や この浦舟に 帆をあげて」は間語りの後に地謡でうたわれます。

さて「野宮」です。
解説者の方も言われていましたが、
これは源氏物語の読み込みが大切な演目なのですね、
詞が詩的なのです、
そして六条御息所の執心を哀しくも情緒深くえがいているのです。

 物のさみしき 秋暮れて をりゆく袖の露
 身を砕くなる夕まぐれ
 心の色はおのづから 千草の花にうつろひて 衰ふる身のならひかな


「葵上」とよく比較されます、
実は能の葵上は、源氏物語の中の御息所のイメージを“般若”にした元凶、なんですね、
物語を筋だけしか追っていない、…
だけどねー、能としては「葵上」人気になるだけの面白さありますよね。
般若と化した御息所は成仏して終わる、
しかし野宮では御息所は救われず、妄執のまま消える、
(訪ねてきた源氏と一夜を過ごしたことがネックになった、と解釈するそうですが)
むしろ救われようとはしていない、という意志が働いたようにもみえます。
物語ではこのあとも源氏の前に現れますからね。
「野宮」が紫式部が描こうとした人物像に近いといわれる、所以ですね。

さて、野宮の詩的な詞を実演の謡で聞いても、
ほとんど動きのない後シテで、
六条御息所の心情を感じ取れるか、というと、むずかしい…
今回70代後半の演者の“静”は風雅、をあらわすというより、
老いの緩、を感じさせてしまいます、
とても卑近なことで恐縮ですが、
椅子を出さないと、立ち上りが覚束ない(と思われる)
それだけで、まだ30歳の御息所の哀切な別れの心情、
にとっては、やはり興ざめです。
しかし、あの極めつけの、鳥居に袖をかけ、外に足を一歩出そうとする…思いとどまる、
それだけは強烈で、よかったですが。

最新の画像もっと見る

コメントを投稿