目心口窓Ⅱ-心裸万象~あるスピラーの散文~

目(あい)心(しん)口(く)窓(そう)Ⅱ(とぅー)-しんらばんしょう-
耳は心のアンテナ、目は心の窓、口は心の扉…

【固定】私の記事を読んで「自分の意見は?」と思う方へ

2018年12月31日 | 心裸万象(雑記)
※よく人から質問されることなのでこの記事は上の方に固定しておきます。




私はよく人から、

「しおんさんはよく「誰の本に書いてあった」「誰がこう言った」って書いているけど「自分の意見は?」って思います。」

と言われます。

最近もこれと同じことを言われて

「その考えに頭で囚われてばかりいるのは何故ですか?」

と聞かれました。

なので私がなぜブログに

「誰の本にこう書いてあった」
「誰がこう言った」

と書いているのがなぜなのか理由を書いておきます。

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私が「誰の本にこう書いてあった」「誰がこう言った」とブログに書いているのは本の場合はそういう本があるんだということ、それを私が読んだことをブログ閲覧者さまに紹介・知らせるためです。

そして「誰がこう言った」というのも自分が誰かと何かの話題で話していた時に言われたことについて考えることになったのがどうしてなのか、そのきっかけになったのが何なのかをブログ閲覧者さまに知ってもらうためです。

そのほうがブログ閲覧者さんは私に何が起こってこの記事を書いたのかわかりやすいだろうと思ってそう書いています。

私の魂がすべてを知っていても、私は私の魂が知っていることを知る能力がありません。
聖霊とつながるワークをしても、スピリットとつながるワークをしても、メッセージを受け取ることがなぜかできません。

なので私は無知であり、知らないことがいっぱいあります。

私が知りたいと思っていることを神様と聖霊さんに聞くと、聖霊さんは多くはテレビを使って私に教えてくれます。
そして聖霊さんはそれ以外にも先達が残した書物、動画、他者が体験したことから得た知識からの発言、主観的価値観からの発言で私に知らせます。
また神と聖霊さんは私に体験させることで伝える場合もあります。

それゆえに私は先達が本にして教えてくれていること、誰かが言った言葉を真剣に考えるのです。

誰かが私を攻撃しよう、貶めようと思って書いてきたコメントやメッセージに頭で囚われてしまう(頭から離れない)こともありますが、その攻撃のコメントにさえも聖霊さんが私に気づかせようとしている何かがあるのではないかと思ったりします。

自分の主観的価値観だけが正しくて大事にするものなのであれば他者と会話する必要はないと思います。
他者は自分が気づくため、知るためにいると思います。

それからブログに記事を書くにあたって、ブログ読者さんにとって読み応えのある記事を書く場合、ただ自分の考えや体験したことだけを書くのは読者にとって面白くないと私は考えています。

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私は

「誰の本に書いてあった」
「誰がこう言った」

と書きたいから書いています。

有名な本に書いてあることや有名人の言葉を書くのは私がそれで知ったり学んだことを知らせるためとそれらの本や人の言葉を紹介するためです。

それをすることがいけないことだとは思いませんし、それをすることでそれがきっかけとなってそういう本があるんだということを知って自分も読んでみて学ぶ方もいるはずです。
私の記事が知るきっかけ、考えるきっかけとなることもあるはずです。

でなければなんのために他者のブログを読むのでしょうか?
でなければなんのために人はブログに書くのでしょうか?

知りたい、知らせたい(知ってもらいたい)からではないでしょうか?

私が記事のテーマにしていることについて何かの本やサイトに書かれているのなら出所をはっきりさせておくことは必要だと思います。
そうすることで確かにそういうものがあるんだと読者さんが自分で確認することができ読者さんが納得できるからです。

また、私は記憶したことを思い出すことが得意でないので記事に書いておいて記録しておくためにもそう書いて記事にしています。

ただ・・・私も人ですから、私の記事を読んだ人がそれについて神聖な愛をもって真剣に考えてくださったり、私の記事がお役に立っていたらいいなぁと思うし、そのことを知ることができた時はやはり嬉しくなるものです。

だから私は「この本に書いてあった」「誰がこう言った」と書いてそれについて私が考えたりしていることをブログ記事に書いています。

また、私はさほど『自分の意見』というものを持っていないようにも思います。

なにかについて考えた時に「私はこう思う」というのはある場合もあるのですが、どう思っていいのか、どう考えればいいのかわからないものもあります。

それに、他の人の意見を聞いた時、それがたいてい理由を聞くと納得できることが多くて、

「この人の言うこともそうだと思う」

と、いろんな人のいろんな意見が納得できてなるほどと思うことがとても多いのです。

それについてご年配のヘルパーさんに話してみたら、

「シオンちゃんは優秀なんだわ。
誰の言うことも理解できるってことだよ。」

と言われ、なるほどと思いました。

その人の言うことが理解できなければ納得はいかないはずだからです。

そして、私は自分が「こうだ」と思っていること、体験して学んで知った「こうだ」と思っていることを人に話すとたいてい否定されるので、自分が間違って理解したりしたのかなと思ったりするので、自分の意見を他者に押し通すことはできませんし、しません。

自分の意見を他者に押し通そうとしてものすごい反論を受けたりすることがあるので、その人の心の境涯によって私の意見への受け止め方、理解の仕方が違うので、相手の言うことを理解できるだけの要素をあまり持っていない否定する人と話しても拉致があかないし、エネルギーや命の無駄遣いになるので疲れるし面倒なことになるので記事にコメントも受け付けなくなりました。

『自分の意見』にこだわる人はエゴ(自我)が強い人だったり、世界が狭いとか他者の言っていることを理解できる要素が少ない方なのではと思います。

私はセルフヒーリングで自我を薄めていっているので、『自分の意見』にこだわって他者に通用させようとはあまりしないようにしています。

ブログはどうしても自分のことを書いたりしますし、記事にするために『偏った視点』からの『自分の意見』を言うことにはなりますが、あくまで私の主観的価値観、世界観、私の色に過ぎないので、あなたはあなたの主観的価値観、世界観、あなたの色があるのだから「それ」について好きなように思っていればいいので、いちいち私にこうだああだと私を変えようとして反論しなくていいんです。

他者をコントロールして他者を変えることはできません。

あなたが変わらなければあなたの世界は変わりません。

相手のしていること、考えていることは自分が気に入らないからと他者を変えようとするのではなく、あなた自身がセルフヒーリングに取り組んで愛の心の境涯を上げていくことで、あなたが見るもの触れるものへのあなたの受け止め方が変わり、あなたの世界が変わります。

その人が自分独自の意見を持っているか持っていないかなんて別に気にする必要はないということです。

なぜなら、自分独自の意見を持っていたって、それが他者に通用しなければ適用はされないので、みんなと共に生きてみんなでこのセカイを作っていく要素・材料になる意見にはならないですから、自分個人の世界観(思想)に過ぎないからです。

『自分の意見』が自分の周囲にいる他者の世界で通用する意見であって、この世界をみんなで作っていくのに役立つ意見なら自分の意見を持っていてそれを発表すればいいわけですが、自分の意見が周囲の他者に通用しない意見なら、怒りを持たれて否定・反論・攻撃を受けることになることが多いので嫌な体験、心地よくない体験をする羽目になります。

個人主義で生きるなら独自の意見は必要なのでしょうが、『和を以って尊しと成す』なら個人の意見は邪魔になります。

日本は個人主義と部族主義の中間で生きている国なので、その人の立場によって独自の意見をあまり持たないで、みんなの意見に合わせられるほうが生きやすい場合もあるのですから、いちいちその人に個人の意見があるかどうかを見なくてもいいということです。


哲学者&心理学者の加藤諦三さんは
「『自分が無い人』は自分の為に生きてください」
とおっしゃっています。

でもどうやら、地球に産まれてくる人というのは
いろんな世界からやってきた魂という話があり、
たとえば、地球の霊界の階層世界の
どのレベル(次元)の世界で過ごしていた魂かとか、

最近のスピリチュアルでは『宇宙種族』というのが
当たり前の定説になっているのですが、
いろんな他の星に居たそれぞれの魂だったりとかして、

その魂たちが産まれて来る前に過ごした世界で
どういう心の持ち主になって地球に産まれて来たか、
そして地球でどういう心の人たちに
なにを与えられて生きて来たかによって、
その人の「心にあるもの」がそれぞれ違うんですね。

たとえば、天界のあるレベルの世界に居て、
その世界にいる人たちを指導したりしている
神さまや高級霊の指示にすべて従って、
霊界での奉仕や活動や救済活動をしている
魂の人たちだとしたら、
その人たちがその天界で必要だった心が
「自分の個の意見」ではなく、

「神の教え」「神の理」
「従順さ」「素直さ」「純真さ」「心の綺麗さ」
「自分のことではなく人に与え続ける利他の心」
「神の道具として従い続けること」

などだった場合がもしあるのだとしたら、
その天界の世界で
「自分の個の主観・価値観・他に求める要求」は
まったく心に持たなくなる心の境涯になり、
そして地球に産まれてくるのかもしれないわけです。

そうすると肉体に産まれても自我が薄く
自分と他人の境界線がなく、
いくらべったりされ続けても苦にならず
いろんな人の主観・価値観の世界に大抵納得できる、
自分の意見という主観・価値観がさほどなく、
相手に与えるのが当たり前

・・・みたいな心の持ち主の人間で、
相手に与え続ける立場で生きるため
相手の価値観に合わせ続けられるよう
「自分の意見があまりない」
という心の持ち主だったりする可能性も
あるのかもしれないな、

と自分という存在を見つめてみると
そう思ったりします。


【追記】

聖者レベルの方であったろう奇跡のヒーラーのブルーノ・グルーニングさんはこう言っています。

「私は唯一自分の意見を持たない人間です。そうではなく、確信しているのです。」

「あなたの考えは私はいりません。」

「あなたたち自分で思考していると思っているでしょうが、私たちは善の思考と悪の思考のどちらかを常にキャッチしているのです」


私にも確信していることがあるのかもしれませんが、なにかについて意見を持ったところで、その意見を一生貫ける場合と、なにかを体験したことで得たことで、自分が過去に持っていた自分の意見を変えることになる場合もありますね。


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