古事記と日本書紀の真相
2011年12月03日
カテゴリー: 新設・日本の歴史”
古事記と日本書紀の真相
横浜市 井上友幸
| 古代史のバイブルとも言える古事記と日本書紀は、どのようにしてできたのか。今回は、古事記と日本書紀の真相を推理してみようと思う。ただし、この内容は、当方の研究成果とも言うべきものであり、通常の古代史の学説とは違うものである。(2000年1月22日 53歳) |
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はじめに、古事記や日本書紀は、天武王朝期に作られているので、この王朝の天皇を紹介する。以下の9代8人である。 天武王朝の天皇達
日本書紀を作った最大の目的は、本篇"第1弾で、紹介したとおり、対中国や朝鮮に対する独立の意思表示であり、国体(天皇制)の確立である。 古事記も漢文で書かれた書物であるが、上巻、中巻、下巻で構成されている。活字の大きさが、5ミリ四方程度の大きさで厚さが1.5センチ程度の本に収まる程度のボリュームである。これに対して、日本書紀は、全31巻からなり、原本に翻訳がつくと厚さ5センチ程度の本で3冊ぐらいになる。 古事記は、天皇や関係者に見せるための本で、日本書紀は外国、特に中国を意識して作られた国史(正史)である。こうして見ると古事記は日本書紀を作るための雛型本であったと思われる。 古事記については、不可解な伝承がある。平安時代には、古事記は宮中深く保管されて、見てはならない本とされていたのである。だれが、何の目的で、閲覧禁止にしたかは判っていない。だが、おおよその見当はつく。 ところが、あの悪名高き桓武天皇が、命令を出し、31巻を焚書させたのである。理由は、「過去においては、臣が天皇になっているので正しくない。したがって、日本書紀の31巻を焼き捨てよ。」ということであった。しかも、日本書紀の何箇所かを変更・削除したと言うのである。変更・削除の個所は、主に日本と朝鮮の外交関係部分と言われている。 桓武天皇は、朝鮮嫌いで、親唐的な政治をしたことで知られている。もっとも桓武天皇の母は、身分の低い中国人であったらしい。父は、光仁天皇で、60歳過ぎてから11年間、アルコール中毒のまま、天皇を務めた人である。光仁天皇は、天智天皇の5世の孫で、道鏡とともに政治改革をしようとした女帝・称徳天皇の後を継いで天皇になった人である。 本来は、光仁天皇は、天皇になれるような人ではなかった。しかし、天武王朝の称徳天皇(聖武天皇の娘)が、自分の母親は藤原氏でありながら、当時実権持ちつつあった藤原氏を排除しよう果断な政治改革をした。ところが、藤原氏の反発に会い、道鏡の裏切りもあって、今の名古屋付近の藤原百川の家で毒を飲まされ、1ヵ月後に平城京で死んだ。 この後, 藤原百川は、天智系から天皇を出すことを考え、当時60歳過ぎの光仁天皇を選んだのである。その光仁天皇が名も無き中国系帰化人の女に生ませた子が、後の桓武天皇である。 桓武天皇が疑い深い性格であったことは、井之上内親王やその子の他戸親王(おさべ)を毒殺し、同母の弟、早良親王(さわら)を自殺させたことを見ても判る。本来は、桓武天皇は、光仁天皇の後を継ぐような身分ではなかったのである。藤原百川と結託して、後継者とおぼしき皇子を次々と殺して、自分が天皇になったのである。この点、唐の李世民に似ている。 話をもとに戻すと、このように見てくると古事記を閲覧禁止にしたのは、桓武天皇であると考えられる。彼が、日本書紀を変更し、古事記を閲覧禁止にしたのは、天皇と臣民との関係が正しくないという理由ばかりでなく、親唐政策を勧めようとする桓武天皇にとって、日本と朝鮮が関係深かったことは、不愉快であった。それが、このような行動を起こさせたものと思われる。要するに一種の「やきもち」である。 日本書紀をよく分析すると不自然な部分がいくつかある。まず、歴代の天皇の年齢は、一人を除いてすべて直接・間接に書かれている。書かれていない一人とは、天武天皇である。神代の天皇の歳が、まことしやかに書かれていて、直前のしかも日本書紀作成の言い出しっぺの年齢が書かれていないというのは、不自然である。そこには恣意的なものを感じる。 要するに、本当のことを言ったら、全体のストリーが壊れるので、天武天皇の年齢が書けなかったのである。その最大の壁は、天智天皇と縁もゆかりもない天武天皇を天智の弟と設定したところにある。 次に、不自然なのは、墓である。神武天皇から持統天皇まで、41代の天皇のうち、墓のことが記述されていない天皇が2人いる。一人は、天智天皇で、もう一人は持統天皇である。持統天皇は日本書紀が書かれていたころは生きていたのであるから、墓がないのは当然であるが、天智天皇は持統天皇の父であり、いくら壬申の乱があったとは言え、墓がわからないはずはないのである。 しかし、伝承としての天智天皇の墓は、山科に現存する(京都の地図に載っている)。この墓は、三井寺の(古くは三意寺と書く)伝承にもとづいたものである。伝承によれば、「天智天皇は、ある日、馬で狩に出かけたが、いつまで経っても帰らないので、探したところ、山科の山中に天皇の靴が落ちていた。そこで、そこを天智天皇の墓としたと言うものである。 これが事実だとすれば、天智天皇は、誘拐され、殺されたことになる。しかも、遺骸は出なかったのである。したがって、山科にある今の天智天皇の墓は、真の天智天皇の墓とは、言えないのである。だからこそ、日本書紀には、天智天皇の墓に関する記述がないのである。 日本書紀では、天智天皇は、病死したことになっている。しかも、天武天皇が、次の天皇になることできるように、枕もとに呼んで、次の天皇になるようにと薦めているのである。 日本書紀の墓のこと、三井寺の伝承のことを考えると、天智天皇が天武天皇に天皇位を譲ることを病床で言い出したと考えるよりは、誘拐、暗殺されたと考えた方が自然ではないだろうか。なぜ、誘拐し、暗殺したかは、本編第1弾で述べたとおりである。 「歴史書は、いつも勝者の作り話である。」ということを考えると日本書紀もその例外ではないが、しかし、中国、朝鮮、日本に関する歴史書としては、やはり第1級の歴史書である。特に日本と朝鮮の関係では事細かに書かれている。ある歴史家の調査では、日本書紀の記述のうち4/5は、朝鮮との関係を書いているという研究報告がある。
この歴史書は、統一新羅の時代に書かれたものであり、全体が新羅中心に書かれていて、内容に信憑性がない。 日本書紀は、天皇に関する記述や蘇我氏に関する記述は、信憑性はないが、対朝鮮外交記述、対中国外交記述に関しては、不備な点はあるもののおおよそ事実がかかれているものと思われる。
日本に大化の改新後の事後処理に来たのもと思われるが、書き方に問題はあるが、日本書紀は一応、金春秋の来訪を無視してはいないのである。また、日本書紀には、あちこちに「人質」とうい言葉でてくる。人質とは、今の意味と異なり「教えに来た人」という意味なのかもしれない。 日本書紀は、天武天皇の発案で、編纂されたものであるが、全体を通して、編纂に当ったのは、先に述べたように藤原不比等である。藤原鎌足の次男で、天武王朝の基礎を築きあげた張本人である。古事記・日本書紀の編纂、律令制度の導入、平城京の建設、神道の導入など奈良の大仏建設以前の天武王朝の仕事をすべて遂行した人である。 私は,「日本社会」の原型を作ったのは、藤原不比等だと思っている。すなわち、神道を基礎とした天皇制の確立(しかし、天皇家は、長屋王事件からまもなく、仏教徒に変わることになる)、中国と朝鮮との関係の確立などをやったのは藤原不比等である。 この時期、中国・朝鮮の関係は、戦国時代の信長・秀吉の関係である。すなわち、主人と家臣の関係であった。しかし、中国・日本の関係は信長・家康の関係で、形は同盟関係で、実態は、主人と家臣の関係だったのである。 ここに、一つの逸話がある。753年、大伴古麻呂が、唐に遣唐使として赴いたときのことであるが、朝鮮と日本の使節が、長安で同席したことがある。このとき、中国は、日本の使節より新羅の使節を上座に置いた。 これに対して大伴古麻呂は猛烈に抗議したのである。中国側は、「調査するので待て」といい、すぐに中国・日本・新羅の関係を調べた。その結果、日本が上座に移ることになった。新羅としては、煮え繰り返る思いであったろうが、この唐・日本・新羅の関係を作ったのが、天武王朝で中でも藤原不比等である。 天武天皇は、天智天皇とは、血縁関係にはないが、ただ、持統天皇は天智天皇の娘であり、天智系の血が保たれていることが判る。天武天皇には、皇后(持統天皇)以外にも妃がいたが、持統天皇は、自分の血筋を天皇家に残そうと多くの皇子達を粛清したのである。だから、おくり名が「血統を保持する」の意味で持統天皇なのである。 自分の子や孫が正当に皇位に付けるため、日本書紀においても天照大神という女神から日本の皇統が始まるとしたのである。天照大神に関しては、古事記も日本書紀もおなじ女神として扱っている。しかし、これとて、本来は、物部氏の伝承を盗んで天皇家の祖先の話としたのである。 物部氏の伝承では、天照大神は男であり弟がいた。名はスサノウという。天照大神は、ある日、スサノウの暴虐ぶりに腹を立て、岩屋に篭ってしまう。 天は光を失い暗闇となる。困り果ては神々は、岩屋の前で、女の裸踊り、つまりストリップ・ショーを開催した。これを見ようとした天照大神が、かすかに岩戸を開いたところをこじ開けて中にいる天照大神を引き出したという話である。 この話は、古事記や日本書紀では「天の岩戸」という話で出てくるが、これとて、天照大神が男であるなら、話になるのである。なぜなら、ストリップショーを見て喜ぶのは男であり、女ではない。ストリップショーを見るために岩戸を開けることが、期待されるのは男の場合である。 逆に、中にいる人が女であったら、ストリップショーをやるという発想は出ないはずである。 こうして生まれたのが文武天皇である。ところが、文武天皇は25歳で死んでしまった。またまた、後継者の問題がおこったのである。今度は、文武天皇の子、首皇子を天皇にするため、中継ぎ投手として、元明、元正天皇という女性の天皇を置いたのである。こうして誕生したのが聖武天皇である。 このような時代背景のもとに古事記や日本書紀が出来たのである。この時代には、藤原不比等という稀にみる国際感覚を身に付けた政治家が出現したこと、また、稀代の詩人である柿本人麻呂が出現したこと、これらが相まって、世界的にも優れた詩情あふれる歴史書・古事記が出来上がった。 しかし、初版の古事記は、必ずしも元明天皇の満足の行くものではなかった。そこで、不比等は、作家を柿本人麻呂から太安万侶に変えて、元明天皇の注文どおりの古事記を変更したのである。太安万侶は、上巻を元明天皇の希望とおりに変更した。これにより、専門家から見ると上巻は、中・下巻より見劣りのする作品となった。この古事記のストリーが概ね日本書紀のストリーとなったのである。 古事記は、碑田阿礼(意味は、貧しい田の太郎)という語り部が語った内容を記述したとされている。古事記には「碑田阿礼、御歳二十七歳」と書かれている。いつの時点が27歳かはわからないが、恐らく、古事記を書き始めたときが27歳であったものと思われる。ところが、碑田阿礼がどの程度の語り部だたかは、よく判っていない。 目を転じると、藤原不比等の当時の領地に「碑田村」と言うのがあった。また、古事記が書き出されたときの藤原不比等の年齢は27歳である。要するに、碑田阿礼とは、藤原不比等を指していると思えるのである。 古事記の内容は、藤原不比等により、いにしえの出来事、各氏族の伝承、中国の書物、さらには、ヨーロッパの伝説まで調査され編纂されたのである。決して、無教養な「語り部」の話す内容を記述したものではない。古事記の作家・柿本人麻呂や太安万侶は、このような事実を「碑田阿礼、御歳二十七歳」という短い文章で、古事記の編纂の真実を書き残したのである。 ここで、一つの例をあげる。聖徳太子は、馬小屋で生まれたので、「厩戸皇子」と呼ばれたとなっている。天皇の皇子が馬小屋で出産するわけがないということは誰でも判る。同時にこれは、キリストの伝説を取り入れたものであることも判る。また、聖徳太子の誕生日は1月1日である。可能性としてはあるが、これとて真実とは思えない。古代ローマの神々の誕生日はすべて1月1日であることを考えると、恐らく、古代ローマの神になぞらえて1月1日としたのである。 また、聖徳太子は、18歳のとき外出して、人間の無常を知ったとされている。これは、ゴーダマシッタルタ(釈迦)が四方の門から外出して人間の無常を知って出家したという話に似ている。ようするに聖徳太子は、キリスト、釈迦、ローマの神などの逸話をすべて、取り入れて虚飾されているのである。藤原不比等は、多くの文献から、このような伝説を選んで、古事記や日本書紀の中で聖徳太子像を書かせたのである。 私見ではあるが、恐らく日本書紀は、唐の皇帝に献上されたものと思われる。日本書紀には荒唐無稽な話も多々あるが、中国の歴史書・三国志と同程度に、現実味を帯びた歴史書で、一応の評価は、得たものと思われる。証拠はないが、これにより日本の王が「天皇」という称号を使うことを、唐は「黙認」したのではないだろうか。 これが、古事記・日本書紀が書かれた真相ではないだろうか 以上 |
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