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王力雄:辛亥革命後のチベット独立ーーチベットと中国の歴史的関係(13)(2/2)

2009-12-31 13:59:00 | 中国異論派選訳
クーデターの後、哥老会が指揮の中心かつ人材の供給源となった。彼らは乗りかかった船とばかりに、聯豫を連れ去り、袍哥が軍隊を管理した。だが、彼らには政治路線はないので、最初は革命をまねて議会を作ったが、後に勤皇派を宣言し、内地に帰る旅費としてチベット政府に対し10万テールの銀と5千匹の牛馬の供出を迫った。チベット人は従わないわけにもいかないし、また漢軍が早くいなくなることを望んでいたので、金で疫病神を追い払おうと考えた。だが、漢軍は金を手にしても去らず、騒乱で金を儲けようと、略奪を始めた。「皆財物を略奪しつくそうとし、故郷に帰るためと言いながら、その意図は此方にあり彼方にはない」(15)、「白昼兵を率いてあちこち出没し、金持の家を探して、チベット兵が隠れているといいがかりを付け、家に侵入して財物を奪うこと、盗賊と同じであり、庶民を兵と強弁し、拉致してさらし首にしたり指を切り落としたりしている」(16)。当時ラサは混乱に陥り、銃声が絶えず、「日が落ちる前に道には人影無くなり、住民は一晩に何度も震え上がった」。漢人の内部抗争は、革命と勤皇の二つの顔が何度も入れ替わり、内紛が絶えなかった。ギャンツェ、シガツェ、ドモの中国の守備隊も、ラサ情勢の影響を受け、相次いでクーデターを起こし、派閥抗争を繰り広げた。

漢人統治に不満だったチベット人が各地で機に乗じて挙兵した。中原〔中国内地〕は混乱し、将来も不確かで、兵士がみな帰りたがる中で、駐チベット軍は闘志を失っていった。ツァン〔現在のチベット自治区西部、ギャンツェ以西〕が最も早く開戦し、ギャンツェから派遣された援軍が着いた時、包囲された漢軍はすでに銃をチベット軍に売り渡し、その代わり包囲を一部といてもらってインドに逃れていた。ギャンツェの援軍もそれに倣い、銃を売って旅費とし勝手にチベットを離れた。清国政府が派遣したギャンツェの役人も次々に職をなげうち、チベットから出て行った。

ラサの開戦は漢軍がラサの3大寺院の一つセラ寺を攻撃したことで始まった。当事者はある人はセラ寺が漢軍のウラ〔労役〕供出命令に応じなかったからだと言い(17)、またある人はセラ寺の僧兵が発砲して漢軍の兵士を負傷させたからだと言っている(18)。だが、いずれも本来開戦する必要はなかったので、セラ寺を攻撃したのは、セラ寺の中に金製品が多数所蔵されていたので、漢軍の中に略奪を狙っていた者がいたからだと言う。彼らは当初大砲を引っ張り出して並べたらチベット人は屈服すると思っていた。1日攻撃しても陥落しないとは考えも及ばず、参加した兵士は苦戦に耐えられず次々に逃げだし、大砲も放置して打ち捨てられた。その結果、チベット軍が逆に漢軍の陣地を包囲して攻撃を始めた。革命に呼応したと称する「議局」〔議会〕はこうなると誰も構う者はなく、物品も全て群衆に盗まれてしまった。聯豫と司令官の鐘穎が再び権力を握ると、反乱の煽動者を処刑した。その後聯豫はチベットを離れ、インド経由で中国に戻った。鐘穎が主に指揮をとり、漢人を指揮してチベット人の攻撃のもとで8か月間持ちこたえた。

インドに亡命したダライラマ13世はこの時にチベットに戻り、チベット人を統率して中国人を完全に駆逐する独立戦争を展開した。当時のチベットのガシャ政府はダライラマの名義で下記の通告を発表した。これは、今日の目で見るとれっきとした独立宣言だ。

「内地各省人民は、いますでに君主を打倒し、新しい国を建てた。これ以降は、これまで漢がチベットに出した公文・政令は、全て従ってはならない。藍色の服を着た者、すなわち新しい国が派遣してきた官吏を、汝等は供応してはならない。ただ、ウラ〔労役〕は以前どおり供給すべし。漢兵は我がチベット人を保護することもできないのに、その将兵はいかなる方法で自らの地位を強化できようか、チベット人が熟慮することを願う。チベットの各村の役人をすでに招集し、血を啜って同盟を結び、ともにことを進めている。漢人の官吏や軍隊がチベットに入ってくるのは、わが政権を全て掌握するためである。漢人は昔の約束に従いわがチベット人を守ることができないことで、その信用は大いに失われた。その上また放縦にも主権を強奪・蹂躙し、その結果我が臣民は上から下まで、流転し、四方に離散し、苛酷残虐の極みの苦しみを味わった! 彼らの意図を推し量るに、我がチベット人に永遠に日の目を見せないためであろう。なぜそうなったかといえば、全て漢人のチベット侵入の結果そうなったのだ。この指示の後は、我が村役人と親方は、必ず発奮して、その地に漢人が住んでいたら、当然それを全て追い出すべきである。たとえその地に漢人が住んでいなくても、厳しくそれを予防し、チベット全域から漢人を絶やすことが枢要である。」(19)

チベット人の武器はラサの漢軍より劣り、すぐには彼らを徹底的に排除できなかった。ラサの全ての漢人は――商人や一般庶民を含め――みな軍事基地に閉じこもった。チベット人は彼らを厳重に包囲し、補給を絶った。漢軍は戦わなければ生還の希望がないと悟って、初めて「死力を尽くして抵抗」を開始し、漢人の庶民も戦闘に加わった(20)。

生還者の記録には、全編にわたって包囲当時の惨状と救援を待ち望む心情があふれている。「日が経って食料が尽きてついに、子供を料理して喰うものが出てきた」、「犬や馬は喰い尽し、飛んでくる鳥もなく、終日遠くの山を仰ぎみて、援軍を待ち続けたが、結局来なかった」、「打って出る前は、ただ援軍を待ち望み、はるか遠くを望んでため息をつき、山のくぼみの雪が解けた黒い影を援軍と勘違いしたり、夜は流れ星を川軍の信号と思いこんだりして、お互い伝えあっていた。生存の機会はまさに絶えんとしていた」(21)。以前チベットで事が起きると、すべて内地からの援軍に頼っていた。それが北京のラサに対する根本的な抑止力だった。だが国内が分裂し、群雄が割拠し、それぞれの関心が権力争いに集中している時、はるか遠くのチベットに構う余力がどこにあろう。当時インドにいた駐チベット参事官の陸興祺は「繰り返し中央と雲南、四川に救援を求めたその文面は聞くに忍びないほど哀切だった」が、各方面は「いずれも大局が定まらないので、気を配ることはできなかった」(22)。

その後四川の反乱はカム〔主に四川省西部、他にチベット自治区東部の一部と雲南省北部を含む〕に拡大した。趙爾豊が殺されたので、辺境防衛はおろそかになり、カムに駐屯していた軍隊は、どこからも給料が出ないので互いに助け合わず、大部分の地域を失った。四川と雲南の軍閥は勢力範囲防衛の目的から、最終的に出兵した。雲南軍は雲南西部からチベットに進軍し、四川都督の尹昌衡は自ら軍隊を率いて西征した。両軍とも順調に勝ち続け、カムは間もなく危機を脱した。四川、雲南両省の軍閥はそれとともにチベット支配の野心を抱き、主権防衛、ラサ防衛軍救援の名目で、北京に資金を要求し、チベット進軍の準備を始めた。

後の人がまとめた『民元蔵事電稿』という本には、民国元年(1912年)4月から12月にかけての北京政府と地方の間のチベット問題に関する電報のやり取りが239通収録されているが、その内65通は四川と雲南のチベット経営権の争い、および北京政府が行った朝廷の内容で、全体の4分の1以上を占める(23)。この比率の中に、それら当事者がどういうことに関心があったかが十分見て取れる(24)。だが軍閥の本当の動機が何だったかはともかく、中国にとっては、内地の軍閥がチベットを支配することはいずれにせよチベットの自立より中国の対チベット主権にとって有利であった。当時の戦況は、国内が混乱していても、内地一省の兵力にさえ、チベットはあらがい難く、中国の国を挙げての力は要しないことを示している。だが、27歳の四川都督尹昌衡が率いる軍隊がカムを平定し、チャムドの包囲を解き、まさにラサに長距離遠征をしようとしていたとき、袁世凱の北洋政府の緊急電報によって制止された。

後の人はこの行動は袁世凱の売国行為であると決めつけている。当時民国はできたばかりで、中国は大小の軍閥の領地に分裂し、中央政府はどこをとっても非常に脆弱であり、甚だしくは有名無実であった。地方を統率する合法性の獲得による列強の承認の獲得が当面の急務だった。当時はイギリスが西側のリーダーであり、世界の最強国家だった。そしてイギリスは袁世凱政府を承認しないという脅しをかけて、中国のチベット進軍を阻もうとした。これは袁世凱政府にとっては確かに致命的な脅威であった。このような選択を前にして、いつも話している「民族の大義」を本当に第一に考える政客がいるだろうか?

四川、雲南軍閥がチベット進軍問題で北京の制約を受け、自分の思い通りにできないのは、名分が必要なことと、もっと重要なのは軍資金が必要だからである。チベット進軍は膨大な出費であり、地方財政では負担しきれない。北京の許可があれば、国のための仕事となるから、国は当然全ての費用を負担しなければならない。国の金を使って、自分達の軍隊を拡大し、新しい領土を広げると言うことは、軍閥にとっては名分と実利の両方を得られる取引である。北京が最初四川の西征に同意し、その後厳しく禁止したのは、すでに大量動員を始めた四川にとっては疑いもなく打撃だった。だが四川と北京の書面交渉においては、利益は見てとれず国家だけである。当時の四川護都の胡景伊が袁世凱にあてた電報には次のように書かれている。

「……四川辺境はすでに平定し、これから精鋭部隊が要衝を攻め落とし、国外に威力を示そうとしているのに、道半ばで阻まれたなら、戦士は嘆息するでありましょう。辺境の町は速く寒くなり、霜が降り雪が積もって、作戦には向かず、とりわけ士気をそぎます。尹都督の戦勝報告が次々と届いて、破竹の勢いであり、前方の敵のたくましい兵士を恐れず、勇気百倍にして、人皆山をゆする気概を備えております。内地の将兵は興奮鼓舞せざる者なく、馬に餌をやり武器を磨き、最後のひと踏ん張りをしたいと願っています。景伊は愚鈍ではありますが、自ら精鋭を率いて、その一助となり、ラサの川岸に馬を洗い、雪嶺に名を刻み、必ずやチベットを以前のように服属させます。領土を無欠にし、チベット人を平定し、五族を一家とすることは、四川の福であるだけでなく、民国の慶でもあります。いたずらに条約にけん制され、客をもって主人となすは……賈誼に痛哭させ、韓非の心を痛めるに足りましょう。よって大総統が辺境を重視しておられ、必ずや深慮遠望があることは知っておりますが、雌伏が長くなると災いがやまず、主権を皆失い、大きな辱めを受けることになりかねず……」(25)。

国務院の回答は改めてチベット進軍を禁止した。

「……ただ現在の時局は非常に緊迫しており、財政は困難で、あたかも病人のごとくであり、元気はすでに傷つき、満身創痍で、なお回復に努めならないのに、遠慮を忘れて軽率に紛争を起こすことができようか。以前何度も送った電報を遵守し、チベットに侵入して、漁夫の利をあさることなきよう望む……」(26)

ラサで孤立していた中国駐留軍はついに援軍を待つことができず、弾も食料もつきた。最後に決死隊を組織して、奇襲によってダライの家族を人質にして、初めて双方はネパールの調停のもとで講和した。漢人は一切の武器弾薬を没収され、チベットから駆逐され、インド経由で内地に戻った。武器を没収するときはナイフや爪楊枝〔金属製〕まで没収された。チベットを出る道中チベット当局は住民に漢人に対して食糧を売らないようにという尊者の指示を伝えた。英国の官吏が軍隊を率いてチベットを出る漢人を護送したのは「意外にも主人が客人を送るのに似ていた」(27)。帰国後、司令官鐘穎は北京で処刑されたが、その事情は複雑なので、ここでは書かない。

ダライラマ13世は長年の挫折と絶望の後で、ついに完全に中国人と決別するという目標を実現した。彼は「チベットが救われた功績は、中国革命の爆発に帰すべきであり、別の原因ではない」と賢くも認識していた(28)。だが多くのチベット人は中国革命を応報と解釈していた――「中国軍がラサを1年半占領した後、中国に革命がおこり、清朝皇帝は打倒されたのはなぜか? それは宗教指導者のダライラマを虐待したからだ」(29)。

出典:http://www.observechina.net/info/artshow.asp?ID=49030

(注)は出典参照


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王力雄:辛亥革命後のチベット独立――チベットと中国の歴史的関係(13)(1/2)

2009-12-31 13:57:41 | Weblog
王力雄:辛亥革命後のチベット独立――チベットと中国の歴史的関係(13)


前に述べたように、張蔭棠は中国のチベット事務立て直しについて、最初に「チベットを立て直すには政治権力を没収しなければならず、政治権力を没収するには、兵力を用いなければならない」と強調している。この時中国がチベットに与えられる脅威は兵力しか残っていなかった。ダライラマの帰還が近付くにつれ、チベット人の中国統治に対する反抗は激烈になっていった。四方を敵に囲まれた駐チベット大臣聯豫は清国政府にチベットへの軍隊増派を要求し、自身の――同時に中国の――権力のチベットでの実効性を確保しようとした。1909年、清国政府は四川省に2,000人の川軍を派遣するよう命じ、鐘穎将軍の指揮でラサに向けて出発した。ダライラマは中国軍のチベット進攻を恐れ、チベット軍と民兵に武力で阻止するよう命じた。そのことがまた清朝廷に趙爾豊の軍隊を川軍支援に向かわせるよう促し、より多くの軍隊がチベットに向かうことになった。

これは相乗効果だ。それは軍事衝突に留まらず、双方の対抗心を強め、それがさらに政治情勢に影響を与えた。ダライラマ13世と聯豫の衝突をまとめると、この相互作用が一つの鎖になり、双方の最終的な決裂を導いたことが分かる。ダライラマ13世がラサに着いた時、川軍はまだ途上であり、双方まだ決定的に対立してはいなかった。聯豫が部下を率いて城外に迎えに出た時、ダライは川軍の進駐に憤慨していたので、聯豫を無視した。聯豫はそれで恥をかかされたと怒り、すぐに報復のために挑発した。まずダライがロシア製兵器を密輸したと強弁し、ポタラ宮に捜索に入った。さらに人を派遣してまだ途上にあったダライの荷物を停止させ、中身を捜索した。結果、武器は見つからなかったが、ダライの物品の多数が紛失した。ダライはこの怒りを抑えられると想像できるだろうか? 仕返しとしてチベット人に役務と食糧の提供を拒否するよう命じ、駐チベット大臣役所の一切の食糧・飼料と役夫・馬の供給が停止され、あわせて、チベット人と中国商人との交易が禁止された。聯豫はそれへの対応として北京にダライが「陰謀を企てている」と報告し、四川軍の他にさらにチベットに派兵するよう求めた。中国軍がチベット軍を撃破しながらラサに迫ってくると、ダライは聯豫との和議を試みたが、聯豫は怒りにまかせて妥協しなかった。それに加えて臨時に編制された四川軍はヤクザ者が多く、軍紀は非常に乱れており、途中でチベット人の妨害にあって憎しみを抱いてもいたので、ラサに侵攻すると住民を殺傷し、チベット役人を侮辱した。中国に対する信頼を完全に失い、また非常に危険な緊張状態の下で軍事的優位に立つ駐チベット大臣に対する恐怖から、ダライラマ13世は五年間放浪を続け、ラサに戻ってまだ数カ月しかたっていないにもかかわらず再び逃げ出した。

ダライラマ13世の今回の出奔は非常に奇妙なものだった。彼が急いで身を寄せたのは彼の前回の亡命の原因を作った敵、イギリスだった。1910年2月21日、ダライは、イギリス支配下のシッキムに逃げ込んだ(その後インドに向かった)。当時彼はイギリス人の家に住み、イギリス兵の保護下に入ることを要求し、そうして初めて安全だと感じた(1)。「世の中は本当にころころ変わって予測もつかないとはいえ、これほどのことがあるだろうか?」(2)とヤングハズバンドは嘆慨した。ダライがこのような選択をしたのは、北から戻ったばかりの彼が北に戻っても望みがないことを知っていたのと、イギリス人は以前大砲でラサを開城させたとはいえ、満洲官僚の腐敗や横暴と比べたら、彼らの礼儀正しさや誠実さ、気前の良さが深くチベット人の印象に残ったからだった。もちろん、この選択はダライラマ13世の政治家としての大胆さと柔軟さを示してもいる。

ダライラマ13世のこのたびの逃亡を起点として、チベットの上層社会は歴史的に一貫して北京に服属してきた政治路線を転換させ、西側の支持をたよりとする近代「チベット独立」運動が始まり、それが今日まで続いている。

その当時ダライラマ13世と密接に接触したイギリス人チャールズ・ベルの記述によると、ダライラマ13世の当時の構想はブータンとイギリスが結んだ条約をモデルにイギリス・チベット両国関係を構築し、チベットの対外事務はイギリスのコントロール下に置いてイギリスが保護を提供し、チベットは内政上の自治を維持するというものだった(3)。ダライにとって残念なことに、イギリスは彼の提案を拒絶した。ベルはこう解釈している、「我々にとって、アジア高原の百万平方マイルの防衛義務を負うというのは極めて馬鹿げた行為だ」(4)。これについてヤングハズバンドは非常に不満だった。「むかしヘイスティングス、ボーゲル、ティニー、カズンズ、そして1904年に私が参加した使節団は、みなチベット人に普通の国際交流の慣例を遵守するよう説得できなかった。いまダライラマと政府の役人がみんな我が方に逃げ込み、我々に対して直接交流の権利を維持し、イギリスの官吏を軍隊を引き連れてラサに向かうよう懇願し、インド当局と同盟を結びたいと求めてきている。このような情勢の激変は、ほとんど人類史上見ることができない。150年来、我々が彼らに求めて得られなったものを、今彼らの方から我々に求めてきたのに、我が当局はなんと干渉を避けるという趣旨の返答をした。以前チベットに対する要求を貫徹するために、私はラサに出兵して武力で恫喝までした、今はチベット人が進んで帰順してきたのに、我が方はそれを完全に拒絶してしまった。」(5)

後ろの方で特に項を建ててチベット高原での防衛体制のコストを検討するが、ベルの説明がヤングハズバンドの感情的な反応よりは事実に近いだろう。たとえイギリスが当時そのような願望を持っていたとしても、そんな能力はなかった。失望したダライラマ13世は努力を続けた。彼は1911年にロシア皇帝ニコライ2世に手紙を送って、端的に当時の彼の態度と選択を表明した。

広い大地を統ぶる大皇帝閣下

拝啓
我がチベット国と満清国の間は施主と福田〔仏教語で人々が功徳を植える場所、福を生ずるもと。僧侶または三宝をさす。〕の関係であり、帰属関係はありません。我がチベット国を滅亡させるために、〔中国は〕チベット人を誘惑し、全ての権力を奪おうと図り、仏教を弾圧し、僧侶を殺害し、財物を強奪し、その虐待は言語に絶してきたし、このような蹂躙行為は今でも続いています。ゆえに、満清国とは親しい関係を保てません。チベットのことは全て露英両国と条約を結んだことで、初めて今日まで維持できているのです。今チベット国の君臣全員が一致して二つの大国に頼って独立を達成することを要望します。それゆえ、私ダライラマは大皇帝に両国が直ちに協議を開始し、併せて各国に宣伝し、援助を賜るよう願います。とりわけ満清側は悪だくみをめぐらし、チベットをその領土だと主張し、出兵して衝突を起こすかもしれません。両大国が協議して、独立実現のために断固たる支援と提携をされるよう……(6)
敬具

ロシア皇帝は返書を送ってチベットに対する愛護の気持ちを表明したが、口先だけにとどまった。これほど荒涼として巨大なチベットに責任を負うことは荷が重すぎ、しかもそれほど見返りがあるとも思えないので、中国に宗主権を続けさせ旧来の枠組みを維持する方が良かったのだ。イギリス人に対して内密にチベット人と取引する意図がないことを示すために、ロシア皇帝はダライの手紙をイギリスに渡したので、ダライは彼の亡命を受け入れてくれたイギリス人の前で非常に気まずい思いをした。(7)

清国政府は逃亡したダライラマ13世を厳しく処罰した――彼のダライ称号をはく奪し、別に霊童を選んでダライとしたのだ。これは宗教信者から見れば想像もできないことだ。世俗政権が何で神を選ぶ資格があるんだ! だが中国の統治者はこの種の論理矛盾に気をとめることはない。皇帝権力は中国では最高権力とみなされる。皇帝が仏を拝まないことの理論的解釈は「現生の仏」は「未来の仏」を拝まない。皇帝自身が仏だというのだ。ダライラマは菩薩の化身に過ぎない。世俗の官僚制意識からすれば、仏は菩薩より地位が高いのだから、彼を廃位して何が悪い!ということになる。このような国家の宗教に対する統制は中国ではずっと引き継がれ、それが中共時代になって頂点に達したが、それは後の話である。

当時は、これを機会にダライ制度を廃止すべきだという意見まであった。例えば温宗堯はその上奏文の中で、「ダライを辞めさせるのに、ホトクト〔モンゴルにおける活仏の名跡〕にチベット事務を担当させ、転生の愚かな迷信を利用して、永久にダライ制度を廃止すれば、チベット役人はそれぞれ分立し、英露はとり入る余地がなくなる。」(8) この種の徹底的にダライ制度を廃止すべしという意見を、一部の中国人はずっと持っていた。中共内部では今でも、中共のチベット支配の最大の誤りは「反乱平定」ないし「文化大革命」の機に乗じてダライを廃除しなかったことであり、それが後の一連のチベットの難題の根源になっているとみなす人々がいる。

だが、一つだけ確かなことは、川軍がチベットに進軍し、ダライが逃げ出してから、駐チベット大臣のチベットにおける立場が大幅に強化されたということだ。聯豫が行った新政と改革もその大部分がそれ以降になって実行された。いわゆる「軍隊を出すと改まり、ダライを辞めさせれば息をひそめる」である(9)。中国は国が最も衰えた時に、チベットに対してはむしろ有史以来最も強力な支配を実現した。ヤングハズバンドは次のように評している。「中国政府が鋭意チベットを経営し、その結果、チベット政府は有名無実化した」(10)。だが、この変化は一時的な威嚇の結果に過ぎない。中国はやはりチベットにおいて自らの政権システムを構築できず、頼ったのはチベットの地元役人の行政能力だった。すなわち両者は相変わらず「インターフェース」関係であり、この時の「インターフェース」が以前よりも従順だったにすぎない。

「インターフェース」関係である限り、たとえ最も理想的な状態――チベット側が何もかも言いなりになったとしても、本質的にはやはり危機を内包している。なぜなら、この種の権力が頼るのは権力自身が変数――チベット「インターフェース」の忠誠――を掌握しているのではないからだ。チベットの「インターフェース」が言いなりになるのをやめたり北京との接続を切り離したりしたら、中国のチベットに対する主権はたちまち見かけ倒しになってしまう。

もちろん、チベットの「インターフェース」があえて中国から離脱できるかどうかは、彼らの願望だけでなく、より重要なのは北京の威嚇への考慮だ。末期清王朝は西側列強の前では軟弱無能でも、チベットに対しては「腐っても鯛」で、軍事力は圧倒的に優位だった。この威嚇はまるで「縄」のように、チベットを中国に硬直的に「縛りつけ」ている。これはずっとチベット独立の最大の障害であり、またチベット分離主義者が直面せざるを得ない主な問題であり続けている。双方の力の差がこれほど大きいので、チベットは「天恵」を待つ以外に、ほとんど自力で中国から抜け出せる希望はない。

ダライラマ13世にとって、この「天恵」は不意にやってきた。現地が最も絶望的な状態に置かれていたとき、中国内地の都市武昌の軍事蜂起が、歴史上辛亥革命と呼ばれる全中国の連鎖反応を引き起こした。14の省が相次いで独立を宣言し、数千年続いた中国の皇帝支配が数カ月の内に内部崩壊し、混乱状態に陥った。革命党と勤皇派の争いは止まず、軍閥は割拠した。この混乱は間もなく中国の駐チベット官僚と軍隊にも波及した。

後世の人のこの時代の歴史記述は往々にして他人の受け売りの決まり文句だ。たとえば、「駐留漢族兵士は立ち上がって共和派を支持した」(11)、とか「駐チベット川軍は辛亥革命に呼応して蜂起した」(12)といったたぐいである。この種の言葉が本には堂々と書かれているが、実際は決してこのように壮大でも純粋でもなく、非常に矮小なことだった。似たようなことが将来再び起こらないとも限らないので、この件について少し詳しく述べておきたい。

当時チベットに入った川軍の兵士はみな社会の下層からの募集で、ルンペンプロレタリアートがほとんどだった。その頃四川の巷間では非常に底辺の広い秘密結社があり、哥老会とか袍哥と呼ばれていた。川軍の中で哥老会の組織は非常に大きく、大部分の兵士がメンバーだった(13)。一方士官はその多くが学生で、軍隊の指揮に慣れておらず、時流を軽視していたので、状況を掌握することができず、局面が大きく変わると権力を失うのは必定だった。辛亥革命のニュースがチベットに伝わると、まず兵士が動揺した。当時チベットでこの全過程に立ちあった人の記述によると、クーデターを促した直接の原因は川軍の砲兵隊のある袍哥のかしらが聯豫の駕籠かきが経営する飯屋の中で口論になり、それが集団の殴り合いに発展した。聯豫はじぶんの駕籠かきの一方的な言葉を信じ、砲兵隊に反乱の意図があると考え、砲兵隊の銃を没収させた。砲兵隊の兵士が疑念と恐れに浸っていたとき、聯豫の駕籠が陣営に来るのが見えた。実際はからの駕籠で、聯豫は乗っていなかったが、砲兵隊の兵士は聯豫が彼らを殺しに来たと思って、クーデターを起こした(14)。



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清朝の対チベット経営--チベットと中国の歴史的関係(4)
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主権かそれとも宗主権か――チベットと中国の歴史的関係(5)
http://blog.goo.ne.jp/sinpenzakki/e/62ece96b90b264d17ffce53ec61af385

駐チベット大臣(アンバン)――チベットと中国の歴史的関係(6)
http://blog.goo.ne.jp/sinpenzakki/e/2be5e0d9fb8549af0b0f9479389a059f

骨抜き――チベットと中国の歴史的関係(7)
http://blog.goo.ne.jp/sinpenzakki/e/458be72eb12dfb3e581aa933e0f078e4

東洋的関係――チベットと中国の歴史的関係(8)
http://blog.goo.ne.jp/sinpenzakki/e/76486b971b4ff0e7be4e57a292606332

主権確立の相互作用――チベットと中国の歴史的関係(9)
http://blog.goo.ne.jp/sinpenzakki/e/a477aa095a4b290168e4d29dfe07a155

清末の対チベット新政――チベットと中国の歴史的関係(10)
http://blog.goo.ne.jp/sinpenzakki/e/f1df05c99436cc7652faa33494dc9695

趙爾豊の直轄統治――チベットと中国の歴史的関係(11)
http://blog.goo.ne.jp/sinpenzakki/e/a599d7ca72593668ab8604632adce601

チベットの選択――チベットと中国の歴史的関係(12)
http://blog.goo.ne.jp/sinpenzakki/e/be216fd526c90f6b8e15494c3fa35779