ただなんとなくなにごともなく

いろんなところへ行って来て いろんな夢を見ておいで
そして最後に きみのそばで会おう

MAMMA MIA!

2009-01-31 20:15:57 | Weblog
フィリダ・ロイド監督「マンマ・ミーア!」
観てきました。

出演:メリル・ストリープ、アマンダ・セイフライド、ピアーズ・ブロスナン、コリン・ファース、ステラン・スカルガルド、ジュリー・ウォルタース、クリスティーン・バランスキー、ドミニク・クーパー、ほか。

脚本:キャサリン・ジョンソン、音楽:ベニー・アンダーソン、ビョルン・ウルバース、スティグ・アンダーソン
原曲:ABBA
オリジナルミュージカル台本:キャサリン・ジョンソン



逞しく強くオンナ道を描くロングラン・ミュージカル「マンマ・ミーア!」の映像化作品。センチメンタルにロマンティック、チャーミングでヒッピーでハッピーなミュージカルシネマ。

ファンタジックコメディなフィクションでありながら、ストレートの実力派ばかりの豪華キャストと映像版ならではのダイナミクスで、リアルな雰囲気を作り上げています。
キャスト全員歌吹き替えなしで勝負してるし、まずこれがいいよね。
もうほんと、見て損なし、楽しめた2時間でした。

だいたい、いまさらピアーズ・ブロスナンがあんなにはっちゃけるだなんてスゲー(笑)
007だぜ?でも何やっててもカッコいいんだけどさ(笑)

失敗と成功、愛と哀しみ、郷愁と発見、ひたむき、でも前向き。
そんな多面的なファクターが、トシを取るのも悪くないって思わせてくれる映画です。これぞザッツ・エンタテイメント。


今四季のマンマは名古屋だっけ?観に行きたくなるな。
ヤバイ。

選ぶのって苦手

2009-01-29 18:38:35 | Weblog
すんげえことに気がついた。

私、たくさんのモノを持ってる。
でも、あんまり、自主的に手に入れたものじゃないかも。
もーあたし絶対これ!っての苦手で、いつも大丈夫かな?これでいいのかな?と思うの。思い切りよく開き直るの、すごい時間かかる。

だからダメなのかあ。あーあ。

keep strength

2009-01-24 14:39:54 | Weblog
人間の認知、というものが、どれだけ思い込みに支配されるかを、ここのところ私はよく感じている。人間は、信じたい方向、もしくは逆となる、恐れのある方向に引きつけられてしまう。

触る何かから貰うものに、実際のところ左右されずに、怖れと思いこみに乱されずに、「マイペース」という、わたしの調子を貫けること。
そういう試みがたくさん降りかかって来ている。そんな気がする。




本日のBGM:土岐麻子「smilin'」

待っているよ smilin'
もう少し そうもうすぐ
スローモーションみたいに
その笑顔は
わたし溶かしてきっと
恋をさせるの


あなたに似たひと

2009-01-23 14:05:51 | Weblog
以前聞いていたラジオの複数の番組では、リスナーとの電話トークの際、よく、パーソナリテイがこんなことを聞いていた。

「○○さんは芸能人で言うと誰に似てるの?」


世界には3人、自分と同じ顔の人間がいる、と言われている(…と思う)。誰がそれを最初に言い出したのか知らない。そしてそれが本当なのかも確かめようがない。
でも、いるのなら会ってみたい、と思う。どのくらい同じなのか、どのくらい違うのか、確かめてみたいのだ。もしかしたら、ある時点まではお互い同じ顔だったが、その後の成育歴でそれぞれ変わっていったとか、あるのかもしれない。


質問に答えるリスナーの方をラジオで聞いていて、いつも、「私は誰に似ているだろう?」と考えていた。過去に言われた芸能人や有名人は少しだがいるにはいるが、そのどなたもが意外だったり恐れ多かったりして、私としてはピン、とこない。
それでも面差しと言うものを、その方を見たどなたかが私を思い出してくれるのならば、それはとてもありがたいことと思う。

ただ、自分としては、やはり有効な質問の答えは思い浮かばない。
どんな時も、私は私オリジナルの顔なんだろう、としか、きっと申し上げられないと思う。





The Power Of Dreams

2009-01-21 11:55:40 | Weblog
麻生首相「みぞう」、どよめく委員会 漢字テスト12問(朝日新聞) - goo ニュース

テレビを見ていたら、麻生首相が難読漢字ばかり12問のパネルを持った議員に詰め寄られているところだった。首相が書いた原稿をゴーストライターが書いたのではないかと攻めている。理由が「使われている漢字が首相の漢字力に合わない」

……

誰が喜ぶためにその質問をしているの?
誰のための国会で何のために審議してるんでしょうかあーたがた?


お気の毒な麻生首相が、まともに取り合わず苦笑いしていた姿がかえって支持率を上げるといいなと願ってみる今日この頃。
下らな過ぎ。




昨日の夕方、ポストに1通の手紙が届けられていた。差出人は、あるコンテストの事務局である。
夏休みの子供の宿題のひとつに学校から申し渡されていたのは、「なんでもいいのでコンテストに応募すること」だった。で、まあ親子で考えた末、そのアイデアコンテストにしようかということになり、子供は子供でそれなりに時間を費やして、作品を郵便局に持っていった。
結局入賞はおろか予選の通過すらしなかったが、同じクラスの、隣の席のお友達が一次審査合格となりホームページに掲載されたのを知ってか知らずか、本人のプライドは微妙に刺激され、来年はこんなのがいいと思ってる、なんてことも言っていた。

その後、ほとぼりが冷めたころ、保護者向けにコンテストの感想のアンケートが送付された。こういう企業の社会活動は、基本が「企業の社会的責任」といういわゆるノーブレス・オブリージ的なものであるから、その善意に乗って利益を享受するからにはこちらとしてもそれなりにお返しを果たさなくてはならない。もちろん丁寧に書いて返送した。
そして前後して、新聞に企業広告を打つ際に、応募者全員のお名前を掲載したいのだが、了承してくれるか、とハガキが来た。個人情報の問題もあるしこちらは多少迷ったが、おそらくそれを見ればうちの両親も夫の母も喜ぶだろう。
結局はOKの返事をして、そちらも送り返した。
で、すっかり忘れていたのだ。

手紙は、意外だった。
先の応募者の名前を公表する企業広告自体が中止になったこと、それが経営環境の変化によるものであること、コンテストは継続することになったので、了承してほしい、というようなことが述べられている。
ああ、さんざん観る目の前のテレビのニュースは、こんなところでもつながっている、と思った。この企業は、自動車会社である。
夢を大切にする企業風土の会社は、子供たちの夢も大切にしてくれる。だからこそのこのコンテストだと思っている。
わざわざOKを出した保護者あてに断わりを入れる手間よりもコストよりも、
そうした活動を行っているとアピールする広告ひとつ削る方が企業にとっては有意義なのだろうと思うと、事態は思うほど良くないのかもしれない、と感じる。

また来年、笑顔で応募用紙を手に出来るのを、今から私は期待している。





最近の若いモンは

2009-01-20 12:05:23 | Weblog
沢尻エリカ様の明治神宮での挙式の模様をテレビで見たけれども。
ああいうはっちゃけた角隠しとか、言われてる「和装なのにカラコン」とか。


若いっていいわね~としか思わないわ(笑)



自分の感受性、どんだけオバさんになってんだよ!と思うけど、
まあ、「最近の若いモンは!」と思わないだけ、まだいいかな。




自主勉強葛藤の理論

2009-01-19 15:26:10 | Weblog
葛藤の理論を恋愛で考えてみた。


・接近ー接近型の葛藤

「長年の女友達も楽しいけど、彼女も欲しいし」
「あっちの女の子、なかなかいい感じ。あいつみたいなめんどくさい女とはそろそろ別れるか」

このタイプの葛藤は比較的解決が容易だが、実際の目標選択においては断念した目標のほうが満足度が高かったように思えて、動揺と後悔をのちに起こすこともある。
この場合だと後者のケースで、
「やっぱあいつほどオレのこと思ってくれてた女はいなかったわ。別れて失敗した」
ということに。



・回避ー回避型の葛藤

「今仕事忙しいし恋愛とか面倒くさいんだけど、だからって女友達と一緒にいて周りに誤解されんのも面倒」

2つもしくはそれ以上の欲求の対象がともに負の誘発性を持ち、どれをも避けたいがそれが出来ないという場合。この葛藤は決断に長い時間を要し、他の葛藤に比べて神経症的になりやすい。
この場合だと、
「もーいいよクリスマスなんて。ケーキとかツリーとか見たくないし。大体オレ日本人だし無宗教だし」。




・接近ー回避型の葛藤

「あの子すげえ好きなんだけど彼氏いるし苦しいからもう電話とか飯食いに行くのやめとく」
「バイト行く道で途中に住んでる先輩に会えないかなと思ってちょっと遠回りとかしてみたらたまたま本当に向こうから歩いてきちゃってー、でもよく考えたらなんか化粧とかボロボロだし洋服とか恥ずかしかったからすぐ手前のコンビニとか入っちゃった!もうどうしようせっかくだったのに悲しくて泣きたーい!」

目標に近づくにつれて、正負の誘発性の強さがともに増大するだけでなく、出発点では正の目標が誘発性を持つが、目標に近づくにつれて負の誘発性がより急激に増大、感情は不安定になり時に適応障害になりうる。
この場合だと後者で、いわゆる「好き避け」。







…どうだろう?





いつか小箱を開ける日

2009-01-18 18:17:29 | Weblog
最近、会う人会う人私よりみんな年上のように思えて仕方ない。
頼もしくて、知識があって、全体のクオリティが高い。

で、実際に伺ってみたりする機会があると私よりも4才も年下だったりして、自分が恥ずかしくなる。
あまりにも子供だからだ。
「若い、って証拠ですよ」、と言われたが、ただ青いままで成長が止まってるんだろうと思う。

見た目はどんどん時間を過ごすのに、精神が追い付かない。


いつか私は浦島太郎になってしまうかもしれない。

じゃじゃ馬ジェンダー

2009-01-17 20:31:36 | Weblog
新国立劇場・中劇場で東京オペラプロデュース/オペラ「じゃじゃ馬ならし」を観てきた。

最近私は、歌う歌の関係でよくオペラを観るように心がけている。とは言え、初心者なのでさほどわかってはいない。
オペラと言うと「トスカ」みたいな、圧倒的な悲劇!!!ドラマチックなアリア!!!と思っていたのだが、なかなかこれがどうして、意外にもコミカルで面白かったり、風刺が効いていて笑えたりする。良く考えたら当たり前なのだが、固定観念に支配された人間には、それがびっくりだった。
後に派生となるミュージカルに比べれば、展開もさらに早く、歌詞はより詩的である。室内楽の調べにちょっと眠気に襲われていると大団円になっていたりして、あらまあ、という感じになる時もある。

「じゃじゃ馬ならし」は、ご存じシェイクスピアの戯曲を原作とし、ヘルマン・ゲッツの作曲である。強権的な夫に強情でワガママな女性が妻となりやがて夫に従う喜びを知る―――という、現代ならアリエナイ以前のストーリー設定だ。
後ろの列にお座りだったおばさまが、「今の女性は男のじゃじゃ馬をならすのよねえ」と笑っていて、女性の内なる逞しさを見せていた。

わたしという運命について

2009-01-13 09:31:50 | Weblog
愛されている、という確信を持つことだ。
何か、という具体的なものではなく、もっと曖昧とした、全体的なものに。

そう、例えば運命に。


私を救い上げ、私を痛め付ける、このふたつがあったとしても、それに愛されているという確信があれば、何もかもを受け入れられる。
その導きが、すべて何かを為すと。



そうでもないと、人生なんてやってらんない。

てのひらの中の運命

2009-01-06 04:24:48 | Weblog
新年早々の食事会は、ゆったりと大らかに、しかし流れるように時間が過ぎて、結局私たちは4時間も店に居座ってしまった。パーティメニューで注文を受けていれば時間で追い出しそうなものだが、店の方もだいぶ大らかである。

冬休み中の子供たちも一堂に会して、いそいそと食事を終わらせればキッズルームで遊びたい放題である。隣に位置する子供だけのテーブルはもぬけの殻で、時折集団から足抜けした子供が、それぞれの母のところにやって来ては何かしらちょっかいをかけてまた帰って行く。
今日は幼稚園のお子さんも何人もおり、その甘えた姿が可愛いらしい。

あるお子さんが、ママに抱きついた。腕が首に絡みつく隙に、小さな掌が見えた。
お、手相見ようかな、と言って、顔を近づけてみる。手相見などと言ったって、小さい子相手だから言える冗談のようなつもりであり、その証拠に最近ちらっと見た初心者向けの手相の本の内容ですら咄嗟には思い出せない。
誰かが、占い出来るんですか?、と私に言った。いやいや本当は見てもらうのが好きなんですよ、占いジプシーみたいに色々なところへ行ったりね、と答えた。
携帯に毎日占いの配信を来るようにしている、と言うと、驚く方ばかりだから、普通の人よりは感覚が違うのだろう。より占い好きなことは間違いない。

私は未来が知りたいのである。漠然と考えていることや、思いが、必然なのか偶然なのか知りたくもある。私は、知らないものがあることが怖い。
もちろん、当たるも八卦、当たらぬも八卦であるから、知ったところでそれは覚えているかいないか、程度である。寿命だって出来れば知りたい。
未来は変えられるのだから。

興味を持った方の何人か、データを聞き携帯からモードサイトを使って見てみた。聞きたくないことは聞きたくない、と、「未来を知ることは怖い」と仰る方もある。
そういう風に拒否出来る強さがあれば、私にもあればいいのに、と思う。





年の始めのためしとて

2009-01-04 12:20:57 | Weblog
私は、お節料理が好きである。艶めいた黒豆の色気、伊達巻きの妖艶な黄色、きんとんのほっとする甘み。シャキシャキの数の子と健康そうな昆布巻きのアピールに、歯固めの田作りと生酢の華やかさ。蒲鉾は噛みしめると味が広がり、パンチの利いた酢蛸にノックアウト。少々奮発された煮〆は普段通りの味である。めでたさが同居する中に、どれもこれもが年に1度しか会えないこの切なさと寂しさを孕んでいる。日本的な刹那の愛しさよ。
だが、どういうわけか「おせちは苦手」という声もよく聞く。身近ではうちの夫がそうだ。「食べるものがない」そうで、だからうちではせいぜい元旦か2日ぐらいまでしかおせちは出さない。その代り、キッチンで私がひとり占めである。


子供が小学校に入ってから、季節行事もさほど熱心にはやらなくなってきた。ひと通りのことはするが、忘れることもある。幼稚園の時は自分なりに熱心だった。たとえば、おせちは出来る限り手作りしていた。昨年はどうしたのかよく覚えていない。たぶん、いい加減でもある程度は作っていたのだろう。
今年は適当さ極まれりで、早々におせちを頼むことにした。何を食べても自分が作ったものよりはひとさまのお手のものを頂く方がおいしい。ということで正月は散財、と決めていくつかのデパートのカタログを一緒に見ていたら、子供がエビがどーんと乗ってるのがいいだの伊達巻がふたつなきゃイヤだのと色々と条件を付けてきたので、それじゃもういっそのこと、と子供に選ばせることにした。ハナから関心のなさそうな夫はメンバーから除外しているところがまあなんともではあるが、数々の百貨店のカタログの中から子供が選んだのは夫の最も好みそうな「京都のおばあちゃんのおせち」(西武百貨店)だったから特に問題はあるまい。

開けてみると「京都のおばあちゃんのおせち」は美味ではあったが、さすがに「京都の」と銘打っているだけあって、棒鱈や魚卵の煮付けなど、私の知りうる限りの内容とは違うものもいくつも入っていたし、味付けも違っていた。すべてにおいて「関西風」なのである。
同じデパートのカタログには、地域ごとに違う内容の「おばあちゃんのおせち」があり、当然その差違もわかってはいたのだが、実際目の前にするとこんなにも違うものかと驚く。
私は物心ついてからずっと東京だから、知りうるのは「東京のおせち」なのだろうが、かと言ってその原型を形作っているのは亡くなった新潟出身の祖母なのだろうし、そういう意味では確実にフュージョンで、オリジナルなのだろう。
もちろん、「京都のおばあちゃん」のそれも、元旦に家族で囲んだ後の大半は、私がひとり占めをした。

何しろ1年に1度の逢瀬であるから、がっついてしまう。夜中に思い出したようにお重の中身を摘んだり、ちょこちょこと食べているうちに、3日にはほとんどなくなってしまった。おせちは本来正月3が日の料理ではあるので、それは正解なのだろうが、私としては今年は自分の思うそれとは違うものを食べているのもあり、なんだか足りない気がした。やっとやって来た年に1度のこのチャンス、このまま終わるのは惜しい。惜しい気がすればさらに惜しくなって、やっと大掃除も終わったことだしと、今年は箱根駅伝も観に行かなかった重い腰を上げて、スーパーに出掛けた。このところのスーパーは年中無休な上に終夜営業なので、年末年始と1週間以上休む隣のカフェとは季節感が大違いである。
我が家の食事はときどきの雑煮と焼き餅以外、さほど豪華さもなく普通に戻っている。いつも通りの買い物をこなして、やっと伊達巻きや昆布巻きを買おうと棚を探すが、ない。さては来る時間が遅かったか、売り切れたか、とも思ったが、スーパーの中を何巡もして、そもそも正月用品の棚すらないということに気づいた。
商品の補充はこの時間でもされているので、要はそういうことなのだろう。
正月は、終わったのである。

私は普段通りの棚の中からやっとのことで伊達巻きのパックを見つけた。昆布巻きはおそらく誰かが元の場所に戻さなかったものを偶然見つけて買った。
レジ横のワゴンでは、手作り松前漬けセットや手作り田作りセット、クチナシの実などが割引で売られている。
このカゴの中のものを愛おしんだら、その後は、また来年、だ。