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書評 しょひょう : 前田雅之『保田輿重郎  近代・古典・日本』(勉誠出版)

2017-08-13 15:24:44 | 書評

書評 しょひょう BOOKREVIEW 書評 BOOKREVIEW 
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 「伝説の文士」保田輿重郎の若き日々と作品を時系列に解題
   日本武尊、木曾義仲、そして後鳥羽院へと思想変遷の系譜

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前田雅之『保田輿重郎  近代・古典・日本』(勉誠出版)
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 『表現者』(富岡幸一郎編集長)に連載中、何回か読んだが、なにしろ連載は六年にも及んだので、いずれ一冊に纏まったらちゃんと読み直そうと考えていた。したがって読み飛ばしたチャプターがいくつかある。

 単行本となって、居ずまいを正し最初から読み直した。前田氏は独特の辛口で批評を展開する国文学者。

その切り口は独自的だが、氏独特の世界観、文学観に基づく。

本書は思索の書であり、哲学探求としての葛藤の軌跡である。

 つまり情緒的な保田礼讃ではなく、かと言って冷淡でもなく、保田との距離を保ちつつも、冷徹に客観的に保田の文章を通して、古典の視座を守りながら前田氏は「日本文化論」として書きつづっているのである。

 保田輿重郎は「日本浪漫派の巨人」というより、或る年代層にとっては「伝説の文士」。

左翼からは悪魔的文士という奇怪な評価もなされ、それでいて誰もが真実を知ろうとはしなかった。

 戦前、軍国主義を煽り、青年を戦地へ追いやる軍の宣伝の片棒を担いだなどと杉浦明平ら左翼が出鱈目を書いたが、事実は真逆で、保田は軍に睨まれ、四十過ぎてから召集され、旧満州で終戦、引き上げは佐世保だった。

皇国史観と保田は無縁だった。同様に誤解された作家は中河與一だった。然し保田も中河も弁明も駁論も書かず、沈黙した。

 爾来、保田は郷里桜井に埋くもった。戦後久しき不気味な沈黙と静謐。保田が正当に評価され始めたのは、没後四年してから講談社から刊行された全45巻という全集がでてからである。

それまでにも川村二郎、桶谷秀昭氏らが保田輿重郎論を書いていたが、世間的には評価されなかった。

 本論に入る前に個人的なことを記す。
 昭和四十五年十一月二十五日、三島由紀夫事件が起きた。

評者(宮崎)はただちに追悼会を企劃し、凜列な寒さの夜、池袋の豊島公会堂で開催した折、保田は同士とともに京都から駆けつけた。

和服で杖をつかれていた。楽屋には林房雄、中河與一らがいた。

会場に入りきれないおよそ一万人は公会堂前の公園で待機し、マイクで追悼の言葉を喋る林房雄、川内康範、藤島泰輔氏らの話を聞いた。遅れて黛敏郎氏も駆けつけてくれた。

楽屋で二度ほど追悼の挨拶を保田に頼んだが、固辞された。中河も壇上には上らず場内で最後まで追悼の挨拶をする人々の声に耳を傾けていた。

このときが評者にとって保田との初対面だった。

「嗚呼、この人が「伝説の文士」なのか」と思った。こまかな描写は省くが(詳細は拙著『三島由紀夫以後』(並木書房)、以後、大阪につづいて、翌年に奈良でも三島追悼会を行うこととなり、林房雄とともに奈良へ行った。

翌日、保田は林を飛鳥に案内し、その夜、ふたりに対談をお願いした。

京都太秦のご自宅を訪ねたときは道に迷った。

一時間遅れの評者の到着を保田はじっと待っていて、自慢の山菜料理でもてなしてくれたのだった。

この席での会話で思い出すのはひとつ。保田夫人が「三島さん、一回しか保田の勉強会に参加したことはないと書いてはるけど、毎週こられてましたよ」と言われたことだった。

事後、林の発案で日本浪漫派の再刊が決まり、同人に林、保田にくわえて中谷孝雄、浅野晃、檀一雄が名を連ねた。

季刊誌とばかり思っていたら『浪漫』は月刊となり、編集部に評者も途中から加わることとなった。が、編集会議に保田が上京することはなかった。

「わが家系は長生き」と言って、九十歳までは大丈夫と言っていたが、昭和五十六年に冥界へ旅立たれた。

密葬は大津の義仲寺、本格葬儀は桜井だった。名古屋で後輩と待ち合わせして桜井へ向かった。葬儀には浅野晃、中河與一らが東京から駆けつけた。

いま保田論を前にして、上記のことを先に思い出すのだった。


▲保田文学の三要素とは

さて本論である。

保田研究者の間に常識化している保田の基礎は『マルクス主義、国学、ドイツロマン派の三要因』(橋川文三)と言われているように保田は高校時代に左翼学生運動の加担していた。

著者の前田雅之教授はこう言う。

「左翼的雰囲気が支配的だった時代に旧制高校に入学し、そうした時代の空気を吸って過ごした」(中略)「保田も紛れもない時代の子だった」ゆえ、「昭和初期の全共闘世代」と譬喩する。

その和服を好むライフスタイルも、前田は紀州の変人、南方熊楠に似ているとし、ともすれば中上健次とも『熊野で結ばれていた』ゆえ、中上が「濃密な親密感溢れる文章」を書いて保田を評価したとする

 保田は若き日に同人誌『コギト』を主宰した。毎号、三本、四本と文章を書き、ヘルダーリンを論じ、ナポレオンという英雄の悲劇を論じ、ともかくドイツ哲学、文学に没頭した時期があった。

 保田のヘルダーリン論も、ゲーテも、保田独自の、おおよそ独断的解釈であり、その後、昭和九年に紆余曲折を経て保田は『日本浪漫派』を宣言するにいたる。

 小林秀雄がベルグソンを論じつつ、外国かぶれから日本に本格回帰したとき、全集からベルグソンを外した。保田も、以後、積極的にヘルダーリンを論ずることはなかった。

 替って保田が挑んだのはヤマトタケルである。

 「一年前の『セントヘレナ』において、弱い敵にあっけなく敗れていく『英雄の運命』を高らかに論じた保田であったが、同年の『日本浪漫派』の立ち上げも絡みながら英雄論を日本古典の場に移してはじめて論じたものが『戴冠詩人の御一人者』であったと言ってよい。

即ち、戦争・英雄・詩人・古典という、戦前期の保田輿重郎をめぐる本質的問題がここから始まる」(178p)

 戴冠詩人という命名から日本武尊を連想できにくいが、それが保田の保田たる所以かも知れない。これは森鴎外の『戴冠詩人』にヒントを得た。

 保田は「この薄命の貴人の生涯の美しさにむしろ感傷に似た憧れを感じてきた少年も眼を思った」として、「ヘルダーリン、シュレーゲル、グンドルフ、ハイネ、ナポレオンを経て、固まりつつあった『英雄と詩人』論の日本における典型を日本武尊に見出した」(180p)とするのだ。


 ▲木曾義仲と後鳥羽院の位置づけ

 ならば木曾義仲は、どういう位置づけになるのか。

 「保田は(『平家物語』の)作者一つの家を手づるにして、一つの世界の最後までを描こうとしたのである」と言いながら、他方で、「義経が世界をもたなかった如く木曽にも亦世界はなかった」と述べ、ために「懐かしく戯画化された原因」だろうと前田教授は読む。

さらに、その少し前では、「九郎判官と木曽冠者は、平家没落と鎌倉殿の建設を完成するために必然は橋であった」とも指摘して」いるのである。

 かくして『保田が独自に描く日本文藝の伝統』なるものは、「日本武尊―家持ー後鳥羽院―芭蕉というラインこそが日本文藝の伝統」となり、これは「荒唐無稽な妄説」であるとした向きが多いものの、前田教授は、次のように続ける。

 「これまで保田が扱ってきた対象がほぼもれなく収まり、ここにきて見事に秩序化あるいは体系化されている」(282p)

 保田自身、そうした体系が無理筋であることにも気がついていた。
 また後鳥羽院に関して、保田自身がこう書いている。

「後鳥羽院の意議は、古い上代から流れてきた主潮として万葉集のなかへ溶け込んだ歌と、万葉の末路の家持のサロンを中心に発生し、彼の周囲に集った十数人の奈良朝の美女によって育まれた相聞歌の調べが、

どんな形で堂上に入り、一方地下の方へのびていったかを考えるとき、さらにそれが王朝となってどんな変化をしつつ、数百年を流れたかを思うとき、その末路の画期者として亦総合者としての意味もわかる筈である」

 そして承久の乱を「偉大な敗北」をした保田は次の文章を残した。

「承久の乱の決意は、日本の国と民との理念の自信にみちた自覚的発動であった。そうして事は失敗に終わったけれど、その敗北は、人類が理想の名において光栄とすべき最も偉大な敗北の一つであった。

日本の文芸と芸能は、これを契機として、一つの絶大な信念、美と祈りの実態表現にまで知ったのである」

評者自身、この箇所に惹かれて、隠岐の島へ行ったことがある。

それもいまから三十年前のこと、大阪から釣り人の多い飛行機で隠岐の島につき、荒涼たる台地、草むす高台にこけむした遺跡があった。

それが後鳥羽院の陵と伝えられている陵墓らしきものだが、火葬塚とあるので、疑問符がつく。天皇陵が火葬される筈がないからである。


 ▲やはり三島由紀夫との比較になってしまうが。。。。。。。。

 さて最後に本書でところどころに配されている三島由紀夫と保田の比較だが、前田教授は、三島も保田も初期の作品からおわりまで、バリエーションはあるが、「人間観、世界観」が変化していないということは両者に共通と指摘している。

 評者は二年前の「三島を語る」番組において次の発言をしている。

 「(日本の歴史上に)『正気』が蘇る事件というのは、100年、200年単位で日本の歴史の中でしばしば起きるんですよ。

和気清麻呂、菅原道真、北条時宗、楠木正成、明智光秀、大塩平八郎、吉田松陰、西郷隆盛と来るんだけれど、松本徹先生が『天土(あまつち)を揺り動かすのは文学である』とよくおっしゃっているが、今挙げた人物たちはほとんど文学者なんですね。

和気清麻呂は1200年経って再発見されて神社ができた。西郷隆盛は早かった。

菅原道真公は、島津斉彬が霧島の温泉で配流されていたという場所を見つけて神社を建てた。

楠木正成だって水戸光圀公が発見した。

三島さんの偉業というのは本人も言うとおり、100年、200年経たないとわからないかもしれない。その時は三島由紀夫神社を日本人が作るだろうと思っています」
http://blog.livedoor.jp/japanlover/archives/54563237.html

 つまり言いたいことはこうである。

 保田は「偉大なる敗北」と譬喩しつつ「無理筋」(前田)の系統を建てているが、共通は日本武尊だけで、大塩も西郷もでてこない。
 

他方、アイバン・モリスは「高貴なる敗北」といって、前記の英雄等を描いた。小生もどちらかと言えば、保田の説いた英雄列伝より、後者「高貴なる敗北」のほうを重視するのである。
          ◇◇◇◇◇

ジャンル:
文化
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