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書評 しょひょう : 中村彰彦『智将は敵に学び、愚将は身内を妬む』(ワック)

2017-03-13 09:58:53 | 宮崎正弘

書評 しょひょう BOOKREVIEW 書評 しょひょう BOOKREVIEW 
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 秀吉はなぜあそこまで秀次を嫌ったのか
  感動的な山川浩と谷干城の熊本での再開場面

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中村彰彦『智将は敵に学び、愚将は身内を妬む』(ワック)
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 智将が敵に学ぶというのは、たとえば川中島で雌雄を決した上杉謙信vs武田信玄。

身内を妬む愚かな藩主の典型なら、島津久光と相場は決まっていて、評者(宮崎)は題名をみててっきりそうだろうと連想したのだが、本書は想定とは大いに異なった。

 久光は西郷への妬みが最後まで残って、西郷のやることなすこと全て反対した。

 昨年の大河ドラムは真田幸村だった。最近のテレビ脚本が史実を無視したり時代が錯綜していたり、時代考証はいったいどうなっているのか疑う読者も多いだろう。

 まして来年の大河が西郷隆盛となるのは明治維新150年記念としておおいに結構な企劃だろうが、原作が林真理子とは、これ如何に?

 中村彰彦氏には真田三代を叙述した長い小説があり、一昨年には文庫本になった。

 評者からみれば、真田幸村は父親コンプレックス。大阪城入りしたときは後藤又兵衛と並んだが、智恵が働くので、結局、淀君側近の大野治長に疎んじられた。真田丸は?川に内通した工作と嫉妬から邪推したのだ。

 大野治長は並外れた愚か者だった。

 池波正太郎など、幸村にどっぷり惚れ込んでいるから、「あのときは、こうやれば勝てたのに!」などと書いている。そういえば池波文学館は真田の本拠上田市にあるのだ。

 この書評、はじめから脇道に逸れているが、ついでなので、関ヶ原の合戦場を見に行ったことがある。

といっても三十年以上前のことで、首塚の跡がいまも地面に血がにじみ出すような不気味さを覚えたけれど、あの地勢を飲み込まないと、なぜ徳川家康が勝てたかは判らない。

勝機を掴む勢いと、家康の百戦錬磨の過去の戦歴の蓄積から生まれたのだろう、と思った。

本書では小早川秀秋の裏切りに焦点を充てている。

 さて本書は、秀吉はなぜあれほど秀次を憎んだかの論考からはじまり、名コンビだった上杉景勝と直江兼続や、日清戦争の伊東祐亨と島村速雄の絶妙なるコンビネーション、そして歴史の水面下の出来事などを精緻な筆致で綴る。

おまけはゴジラ映画の考察、なるほど恐竜博士の異名をとる中村氏だけに批判の視点が面白い。

 通読してまず「目から鱗」だったのは、秀吉はなぜあそこまで秀次を嫌ったのか、という背景である。

 小牧・長久手での秀次の惨敗、その無様な敗走はあまりにも無惨だった。巷間の通説は辻斬り大好き。

残酷な愚将で、あまりにも目に余ったからとされてきたが、近年発見された『武功夜話』を読んで著者は真相がわかったという。

 それは朝鮮出兵に多くの大名が苦労した挙げ句、出費がかさんで貧窮を極めたのだが、出兵しなかった秀次は、こうした大名達に秀吉に内緒で高利でカネを貸していた。それがばれて秀吉は激怒、切腹を命じたのだという。

このことが『武功夜話』に出てくる。

評者も中村氏と同じく『武功夜話』をながらく偽書と考えてきた。

伊勢湾台風で土蔵が崩れて、この古文書がでてきたというのは作り話臭いうえ、これを下に遠藤周作が書いた小説(『反逆』『決戦の時』『男の一生』の戦国三部作)があまりにもキリシタン・バテレンを評価しているところなど、過大評価過ぎると思ったからだ。

 ところが近年の研究で、『武功夜話』は、ほぼ99%本物であるとされてきた。


 ▼会津藩家老だった山川浩は、なぜ敵将の谷干城の誘いに応じ陸軍に入ったのか

 本論にはいらないうちに紙幅が尽きかけてきたが、最後にもう一つ、感動的な場面は、山川浩と谷干城の熊本での再開のシーンである。

山川浩といえば会津藩国家老の家系。若くしてロシア、エジプトなどを回り攘夷が不可能なことは早くから見抜いていた。

弟の山川健次郎はやがて東大総長、『白虎隊総長』と言われた。妹の捨末は米国留学後、薩摩の大山巌に見初められて結婚した。敵同士が一緒になったとして当時は大騒ぎになった。

 戊辰戦争にやぶれ山川は会津にもどったが、官軍に恨まれて、東北列藩同盟の雄として官軍を迎え撃った。

地元の伝統芸能の獅子舞行進に見せかけて笛を吹き、踊りながら官軍が呆気にとられているうちに籠城中の?ケ城へ入ったという武勇で知られる。

日光口の戦いでは官軍の谷干城を相手にたたかって行軍を足止めさせ、後続の桐野俊秋が来着して敗走したが、谷干城はこのときの山川のたぐいまれな統率力と戦さ上手を覚えていた。

会津降伏後、事実上の責任者として斗南藩の運営や藩士らの世話に当たった。

明治六年、谷の強い推挽によって山川は陸軍に入り、佐賀の乱で負傷した。

西南の役では谷干城が立て篭もって苦戦を続ける熊本鎮台の救援のため西郷征討軍団参謀として駆けつけ、孤立無援だった熊本城へ一番乗り入城し、谷と再開を果たすのである。
この場面、本書から引こう。

「日本陸軍がその包囲網を突破して鎮台に入城しない限り、谷干城以下は薩軍に殲滅される怖れがある。(中略) 兵力を三分して熊本城へ接近することにした別働隊第二旅団のうち、右翼は山川浩中佐を指揮官とする五中隊。

ところがこの山川浩とは、かつては土佐藩士谷干城の好敵手であったものが、干城の勧めで陸軍入りした旧会津藩の家老であった」

内田良平「黒龍会」編集の「西南記伝」にはこう書かれた。

「山川中佐、選抜隊の士官、森(有恒)、田辺(正壮)等の隊を率いて、北ぐるを追い、熊本城に突進し、馳せて長六橋に至れば、また敵影を見ず」

飢えと闘いながら、籠城していた官軍兵士らは喜んで歓声を上げ、そして負傷していた谷干城を山川は見舞った。
二人はしばし黙々と見つめ合った。ここから二人の友情が始まった。

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