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書評 しょひょう : 大島信三『宮尾登美子 遅咲きの人生』(扶桑書房出版)

2017-01-25 13:07:15 | 書評
書評 しょひょう BOOKREVIEW 書評 しょひょう BOOKREVIEW 
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 「川の流れが変転つねなくめぐりめぐるように」、人の運もうつろいやすい
大町桂月は「運は運なり、運転する也」と喝破していた

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大島信三『宮尾登美子 遅咲きの人生』(扶桑書房出版)
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 最初に表題と著者名を見るのは自然なことだが、これほど抱いてきたイメージがかけ離れていて、「えっ、大島さんが何故? 宮尾登美子に?」と声を挙げたほどだった。

 宮尾登美子と言えば骨太の女性像をえがく剛直な印象があった作家だが、評者(宮崎)は、彼女の作品を一作も読んだことはない。映画も見たことはない。それゆえに本書を論ずる資格がないことは百も承知であり、じつは三ヶ月ほどツンドク状態だった。

 ただ芥川・直木賞のパーティで何年か前に宮尾さんを遠くから見かけたことはあるくらいで、高価な和服をめされていた記憶がある。
とはいえ、小説家の知り合いも多いので、宮尾登美子の人生、人柄、趣味などゴシップは耳に入ってはいた。
いずれにせよ、別世界の作家であり、興味を抱いたことはなかった。


 ただ評者の周囲には土佐出身の田村秀男氏、門田隆将氏、そして土佐に毎月仕事ででかけるという渡邊哲也氏らがいて、よく土佐料理に行く。独特な大根煮込み、土佐天(薩摩揚げ)、鰹のタタキ等々。


 その宮尾登美子の初の伝記評伝に、なぜ『正論』編集長だった大島さんが挑んだのか、そのことが不思議だったのだ。
なぜなら日頃、大島さんと会っても、一度も彼女の名前がでてきたことがなかった。

 意外感という文脈では齋藤禎(『諸君』元編集長)が、やはり意外なことに『江藤淳の言い分』という本をかかれたときも、イメージしてきたことと距離感があった。しかし今回ほどの想定外の出来事ではなかった。


 さて本書である。
 宮尾登美子の文学は、強い情念で貫徹されているようである。
 作品を読まずして、こういう評価をなすことは避けるべきだろうが、この大島氏のなした評伝そのものの持つ魅力が、行間も溢れている。淡々として記述がかえって、強烈な人生の衝撃を読者に与えてくれる。


 宮尾登美子は『鬼龍院花子の生涯』『陽暉楼』『櫂』『寒椿』などが有名だが大河ドラマ『義経』の原作者でもあり、女流作家では山崎豊子と並ぶベストセラーを量産した。

 高知県で産まれ、育ち、最初の夫が満州開拓団へ応募したため、新京(いまの長春)へ渡った。ところが日本が大東亜戦争に敗れ、ソ連が侵攻し、引き上げまでの辛苦が、その流浪の人生が待ち受けていた。

 昭和二十一年、佐世保に引き上げ後、宮尾は高知県で保母を束ねる公務員生活。文学趣味が昂じて新人賞に応募してはいたが、生活は赤貧を洗うが如くであった。なにかの作品が入選する幸運に恵まれたときから、むしろ不幸が襲い、人生の暗転、七転び八起きの波乱が始まった。夫の暴力、地元の人々の嫉視、妬み、羨望。

高知新聞の編集者だった男性と再婚し、束の間の幸せを掴んだとおもいきや病魔に冒されていた。
やがて無一文で上京し、借財と戦いながら、何を書くべきか判らない。新人賞から苦節十年、ようやくにして彼女は書きたいものを見つけた。
 この間には社会党に入党し安保闘争の活動家として動き回った日々もあった。


 逆に言えば、運命の逆転があって苦節十年の忍耐の日々が、作家の肥やしとなり、タネとなり、そういう意味では林芙美子の人生に似ているかも知れない。宮尾は『放浪記』の舞台を見ることが好きで、また三島が情熱を傾けた戯曲『薔薇とか海賊』も見に行ったという。
彼女が三島文学ファンだったとは、知らなかった。


 「幼い頃は『おトミちゃん』と呼ばれていた登美子のDNAには、鉄火場をくぐり抜けてきた父親の気質がきっちりと組み込まれていた。大胆な行動に走ったり、年下の土佐出身の作家等を舎弟のように可愛がった」と大島氏は淡々とした文章で波乱の生き様を綴っていく。
 まだ無名の宮尾登美子を認めていた新人作家がいた。

 「吉村は『すでに自己の揺るぎない小説世界を持っていて、対象を鋭く見つめる小説家の目を感じた。新人と言うには程遠い、骨格の逞しい作家が突然現れたような驚きを覚え』る」と書いていた。のちに人気作家になる吉村昭である。

 その後、宮尾登美子の小説は売れはじめ、ブームとなり、映画化もされた。そのときの逸話がある。

 「鬼龍院花子の生涯」は夏目雅子が主演した。
 「なめたら、なめたらいかんぜよ」とタンかを切ったところは(宮尾が)お気に召さなかった。不満は「いかんぜよ」の「ぜよ」だった。土佐の下町言葉を愛していた登美子にすれば、土佐の女がいうセリフなら「なめたら、いかんぞね」でなければならなかった」(この点を土佐出身の友人に尋ねると「ぜよ」でも良いというのだが)。


 もうひとつのゴシップは「陽暉楼」の改名の由来である。
「得月楼」と店名を改めたのは明治十一年、西郷隆盛の熊本籠城戦を戦った谷干城が陽暉楼で宴会を開いたとき、求められて、宋の蘇麟の詩から着想し、得月楼としたという(本書34p)。

 最後に大島氏は、次のように宮尾の人生をまとめる。
 「川の流れが変転つねなくめぐりめぐるように、人の運もうつろいやすい、土佐が生んだ文人、大町桂月は『運は運なり、運転する也』と喝破した。運は人を見て、くっついたり離れたりしているというのだ。宮尾登美子の起伏の激しい人生がまさしくそうであった」

 そして付け加えている。
 「宮尾登美子の胸の奥に秘めた野望と負けじ魂はなかなかのものだった。大いなる欲をバネに彼女は不運を乗り越え、つぎつぎと幸運を手にしていった」

本書を三ヶ月もツンドクにしていたことを恥じた。
    
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ジャンル:
文化
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