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書評 しょひょう : 中村彰彦『熊本城物語り』(自由社)

2017-07-18 11:28:15 | ドメイン

書評 しょひょう BOOKREVIEW 書評 BOOKREVIEW 
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 自由社から史伝シリーズが刊行
  第一弾は数奇の運命をたどった天下の名城「熊本城」

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中村彰彦『熊本城物語り』(自由社)
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 熊本城と言えば天下の名城。加藤清正が縄張りし、加藤家三代のあと細川十二代、そして明治九年の神風連の乱、明治十年の西南戦争の舞台となった。

 加藤家が入る前、肥後は南北に境界があり、堺商人の息子、小西行長や佐々成政が統治するも失敗した。天草ではキリシタン伴天連の反乱もあった。

 しかし時代の荒波に耐え、巨城は聳え立って、地震のあとも、再建が急がれている。

 ところで十年ほど前、評者(宮崎)は、この本の著者、中村彰彦氏と熊本城をのんびりと散策したことがある。

佐川官兵衛の顕彰碑が阿蘇に建立され、その記念式典の帰りだったか、晴れた日だった。

 ふと城公園を歩いていると、神風連の首謀者、大田黒伴雄と加屋零堅の記念碑にめぐりあって記念写真を撮ったことを思い出した。

この二人が三島由紀夫『奔馬』のなかに物語のなかの物語として登場する。初版カバーは加屋の遺墨である。

本書にももちろん、神風連の詳細な経緯が活写されている。

 亡くなった直木賞作家の光岡明氏(当時は熊本文学館館長)と十数年前に熊本キャッスルホテルでお目にかかったことがあるが、氏もまた神風連の乱を書かれていて、

「最後の宇気比の場面がどうしても書けない」と嘆いておられたことを思い出した(同小説は未刊行のままである)。

 加藤家は三代にして改易され、後を嗣いだ細川忠利はガラシャ姫の息子である。かれは水前寺公園を築園した。

 加藤の前の佐々成政は農民一揆を収められず秀吉から切腹を命じられたが、それ以前に富山をおさめ、柴田勝家と連盟して秀吉に刃向かい、

豪雪の立山を超えて浜松の家康を訪ねた(さらさら越え)。その末裔が佐々敦行氏(初代内閣安全室長)であることは広く知られる。

 熊本は夏目漱石も舞台として作品を書いた。
会津のインテリだった秋月悌次郎は、その後(戊辰戦争後)、高い学識を買われて熊本に赴任し、そのときの同僚教授がラフカデオ・ハーンだった。

 などと個人的感想をのべていると、本書を紹介する紙幅がなくなってきたが、最後に熊本城攻防の西南戦争、激戦は田原坂。
 正確に言えば高瀬会戦である。

 中村氏は、この戦闘を以下のように綴った。
 

「薩軍の四番大隊長桐野利秋、一番大隊長篠原国幹、六番・七番連合大隊長別府晋介、二番大隊長村田新八率いる兵力二千八百が右翼・中央・左翼に別れて高瀬を襲う三方合撃策がとられた」(中略)

「白河争奪戦に際し、やはり薩軍が採用して勝ちを制したこの作戦は、いわばこの時代の必勝戦略であった」

 だから局地戦では薩摩側が一時的勝利を収めたが、「兵力の差と軍須(軍需品)の欠乏に」起因する退却を迫られた。

ここで西郷隆盛は右腕だった篠原国幹を失った。

 「守勢にまわった薩軍と南進して熊本鎮台を救援したい官軍とが十七日間にわたり、熾烈な銃撃戦と抜刀斬り込みをおこなったのが有名な田原坂」であった。

 以後の西郷軍は人吉へ退却し、小林から宮崎、砂土原、高鍋で連敗し、延岡の和田峠の決戦に敗れ、西郷は可愛岳を越えて城山へ還った。
       ◎◎◎

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