読書日和

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「海賊とよばれた男 (上)」百田尚樹

2018-02-05 00:21:53 | 小説


今回ご紹介するのは「海賊とよばれた男 (上)」(著:百田尚樹)です。

-----内容-----
1945年8月15日、男の戦いは0(ゼロ)からはじまった…
戦後忘却の堆積に埋もれていた驚愕の史実。
なにもかも失った経営者が命がけで守ったものは社員だった。
出光興産の創業者・出光佐三をモデルにしたドキュメント小説!
2013年第10回本屋大賞受賞作。

-----感想-----
普段読む小説なら「この物語はフィクションです。」とあるところに「この物語に登場する男たちは実在した。」とありました。
短い言葉から力強さが伝わってきて、実在した男達の大活躍が予感されました。

「序章」
国岡鐡造(てつぞう)が小学校の校庭でラジオの玉音放送を聞き、日本が戦争に負けたのを知るところから物語は始まります。
東京への空襲が激化したこの年の5月、栃木県の松田(現・足利市)に小さな家を借り、妻の多津子と娘4人を疎開させ、東京では都立一中(現・日比谷高校)に通う17歳の長男、昭一と二人で生活していました。
鐡造は60歳で国岡商店という石油販売会社の経営者で、東京の銀座に本社の「国岡館」があります。
空襲によって銀座もビルの大半が瓦礫と化しましたが国岡館は奇跡的に焼失を免れていました。
国岡商店は鐡造が一代で築き上げ、社員達からは「店主」と呼ばれ、国内の営業所が8店、海外の営業所が62店あり、社員数は1千人います。
そのうちの700名弱は海外支店と営業所にいて、200名弱は軍隊に応召中とありました。
「戦前戦中、活動の大部分を海外に置いていた。戦争に負けたということは、それらの資産がすべて失われるということを意味していた。」とあり、国岡商店は存亡の危機に立たされていました。
しかし本社での訓示で、鐡造は社員達が国岡商店の終わりを告げられるのを覚悟する中、毅然として次のように言いました。
「日本には三千年の歴史がある。戦争に負けたからといって、大国民の誇りを失ってはならない。すべてを失おうとも、日本人がいるかぎり、この国は必ずや再び立ち上がる日が来る」
ここから国岡商店の立て直しに向けた苦闘が始まります。


「第一章 朱夏 昭和二十年~昭和二十二年」
9月の終わりに国岡商店で重役会議が開かれ、重役達が「社員の首を切りましょう」と言います。
国岡商店は終戦後は石油を手に入れるルートを失い開店休業状態になっています。
海外の資産は全て消失し莫大な借金だけが残り、まずは社員の首を切らなければどうにもならないというのが重役達の主張です。
しかし鐡造は「ひとりの馘首(かくしゅ)もならん」と言います。
重役の一人がなおも「社歴が浅い若い者だけでも辞めてもらうというのはどうでしょう」と言うと、鐡造は激怒して次のように言っていました。
「店員は家族と同然である。社歴の浅い深いは関係ない。君たちは家が苦しくなったら、幼い家族を切り捨てるのか」
これは凄まじい覚悟のある言葉だと思います。
社員を使い捨てにするブラック企業の社長や幹部に聞いてほしい言葉です。

「国岡商店は何もかも失ったという者もいるが、それはとんでもない間違いだ。国岡商店のいちばんの財産はほとんど残っている
鐡造が全社員の名簿を見ながら常務の甲賀治作(じさく)に言ったこの言葉は良い言葉だと思います。
たしかに人がいなければ何もできないです。
会社の仕事が消失した状態での人を「邪魔な存在」ではなく「これから新しく始める仕事をしてくれる大事な人材」と捉えているのが鐡造の凄いところだと思います。
戦国時代きっての名将、甲斐の虎・武田信玄の「人は城、人は石垣、人は堀、情けは味方、仇は敵なり」の言葉が思い浮かびました。
情けを深く持って人に接すればその人は城のごとく殿を守ってくれる頼れる存在になりますが、薄情に接して仇に思われるようだと、いざという時に頼れるどころか裏切られるという意味です。
鐡造は外地から社員が引き上げてくるといったん忸怩(じくじ)たる思いで自宅待機を命じた後、自ら全国の社員達のもとを訪ね歩き、「必ず、仕事を作るから、今しばらく待っていてくれ」と言い当座の生活資金を与えていました。
鐡造の社員を守ろうとする姿を目の当たりにしたら社員達も国岡商店復活に向けて尽力してくれるのではと思いました。

妻もまた傑物でした。
会社の仕事が消失した中で社員の給料を払うために「財産を全部失ってもいいか」「お前が嫁に来るときに持ってきた着物も売り払うことになるかもしれん」と言う鐡造に笑って快諾していました。
これは以前読んだ河合隼雄さんの本に「夫婦の功績は半々」とあったのが思い浮かびました。
妻の多津子の支えがあってこそ、敗戦後の鐡造の活躍はあったのだと思います。

窮地に立たされている国岡商店にラジオ修理の仕事が舞い込みます。
元海軍大佐の藤本壮平という男が鐡造に面会を申し込み話を持ってきました。
日本を占領しているGHQ(連合国軍最高司令官司令部)が財閥解体や農地改革をはじめ様々な政策を打ち出し、それを日本各地に知らしめるために、放送施設の整備とラジオの普及を日本政府に命じました。
しかし空襲で通信機を作っていた工場は大半が焼けてしまい新規のラジオ製作が不可能なため、代わりに壊れているラジオの修理を急ぐように命じました。
逓信院は一旦壊れている2百万台のラジオの修理を民間に委託することにし、藤本はそれを国岡商店がやらないかと言ってきました。
鐡造の決断は凄く、ラジオ修理の事業をやるとその場で決めただけでなく、藤本をラジオ部の部長にして入社させました。

藤本は事業に必要な500万円(昭和20年ではかなりの高額)を銀行から融資してもらおうとしますが、応対した人から藤本の元海軍大佐の経歴をあげつらわれ、「だらしない海軍、そんなことだから戦争に負けたんだ」のようなひどいことを言われます。
ただし藤本は自ら元海軍大佐と名乗りどこかその経歴を誇る気持ちがあったことに気づき恥じ入ります。
「俺は今日から元海軍大佐という過去をいっさい忘れることにした。国岡商店の商人となって一から修行する」と決意を新たにしていました。
そして目の前でラジオの修理を実演して見せた熱意が通じ、ついに融資をしてもらえることになり、年が明けてラジオ修理の事業が始まります。

藤本が胸中を語っていて「死に場所」という言葉が二回続けて出たのは印象的でした。
一回目に死に場所と思ったのは戦場で二回目は国岡商店です。
戦争中、戦場を死に場所と覚悟した藤本ですが、戦争が終わった今は企業人として長く働いていこうとしています。
これは冒頭で鐡造が語っていた「昨日まで日本人は戦う国民であったが、今日からは平和を愛する国民になる」に重なると思います。

2月、南方からの初めての帰還船である旧海軍の駆逐艦「神風」に、復員兵士達に混じって国岡商店の社員17人が乗って第一便として帰還します。
続々と社員が帰還する中、鐡造は決意を新たにします。
日本は一刻も早く主権を取り戻し、独立を勝ち取らねばならない。それこそ鐡造の悲願であった。それには経済の復興が不可欠だった。国岡商店の使命もそこにあった。
単に国岡商店の存続だけを考えているのではなく、日本の主権回復、経済の復興を考え、そこに国岡商店も貢献したいと考えているのが鐡造の凄いところです。

鐡造はラジオ修理は素晴らしい事業だと思っていますが、頭の中にはやはり創業以来35年間一筋にやってきた石油のことがあります。
GHQは日本への石油の輸入を一切認めず、太平洋沿岸にある製油所も全て操業を中止させています。
日本政府は「現状のままでは日本人の生活が成り立たない」とGHQに石油輸入の要請をしますが、GHQは「旧海軍のタンクの底にたまっている油を浚(さら)え。これを使わない限り、新たに石油は配給しない」と言ってきます。
これは明らかな日本への嫌がらせで、タンクの底に残っている油は海軍の屈強な軍人でさえも汲み出せなかったとありました。

3月、商工省(現・経済産業省)から斎藤健治という役人が国岡商店を訪ねてきて、旧海軍のタンクの底にたまっている油を浚う仕事をしてほしいと言います。
当初商工省は石統(石油配給統制会社)に業務を発注しましたが、あまりに過酷な作業のため石統に加入している業者はどこも手を上げませんでした。
石統は戦中に軍部が石油の流通と販売を統制しようとして作った国策会社で、国内の石油は石統に加入している会社以外は扱えなくなっています。
役人との癒着が甚だしい会社でもあり、石統のやり方に反対している鐡造は石統から閉め出されています。
このため国岡商店は国内より海外の営業所のほうが大幅に多くなっていました。
鐡造は斎藤の頼みを聞き業務を引き受けます。
「タンク底を浚わないかぎり、新たに日本に石油を入れないというのであれば、やるしかないでしょうな」と言っていて、ここでも日本全体のことを考えていました。

国岡商店の社員達は梯子でタンクの底に降りて油を汲み出す作業を始めます。
泥が混じっていてポンプは使えないため人力で汲み出すしかないです。
過酷な作業にも関わらず社員達は嫌な顔一つせず活発に作業していて、鐡造は社員達の士気の高さに胸が熱くなります。

6月、鐡造に「公職追放令」が出されます。
公職追放令とはGHQが「戦争犯罪人」や「軍部に協力的だった」と見なした人を公職や会社役員から追放するというものです。
鐡造は貴族院議員でもあったためその辞職を勧告されます。
ただし公職追放の理由が事実無根の言いがかりだったため鐡造は激怒してGHQに乗り込みます。
この頃、GHQの恐ろしさは「泣く子も黙る」とまで言われ天下に知られていて、抗議しに行くのは異例のことでした。

鐡造はアメリカの石油資本などの国際石油資本に日本を蹂躙されるのを防ぐためなら、他の石油会社と合併して国岡商店がなくなっても構わないと考えていて、これは凄いと思いました。
自身が創業した会社がなくなってでも国際石油資本の支配から日本を守ろうとしていて、真に日本のことを考えています。

鐡造は東雲(しののめ)忠司という37歳の男を国岡商店の次代を担う男にしたいと考えています。
山口県の徳山でタンクの底から油を浚う作業の現場責任者をしている東雲を一旦呼び戻し、東雲を連れて商工省の鉱山局を訪ね、日本の石油市場を外国資本の石油会社の独占から守るためにすべきことを語ります。
ところが応対した鉱山局石油課長の北山利夫はあからさまに馬鹿にした対応をします。
さらにその場に石統社長の鳥川卓巳がやってきて、役人の北山と鳥川の蜜月ぶりを見ることになり、鐡造は石統と全面対決して解体する決意をします。

GHQ法務局は日本を経済的に立ち直らせるには石油業界の自立が必要と考えていて、この状況は役人や石統に敵視され逆境にある鐡造に味方すると思いました。
法務局のアレックス・ミラー少佐は石統を解体させ新たな石油配給機構を作ろうとしていて、「石油業界のしがらみには染まっていないが石油業界に人脈のある人物」を探していました。
まず終戦時に旧陸軍の軍務局に務めていて大佐だった武知甲太郎に声がかかります。
依頼を受けた武知は軍務局の局長で少将だった永井八津次(やつじ)に相談します。
この永井が鐡造と交友がありその人柄に惚れ込んでいて、武知に鐡造のことを紹介します。
GHQと会って会談をしてほしいと依頼された鐡造は快諾し、GHQが「お互いに相手の身分や名前を一切明かさないで会談したい」と条件をつけていて自身はGHQに広く顔を知られていることから、東雲を行かせることにします。

東雲とGHQ法務局の会談はとても実りのあるもので、応対したアレックス・ミラー少佐とソニー・レドモンド大尉は東雲の言葉に聞き入っていました。
三度目の会談ではお互い身分を明かすことになり、国岡商店の東雲忠司と名乗ります。
二人は国岡商店と鐡造を知っていて鐡造のことを凄く評価していました。

やがて鐡造の公職追放が解かれます。
鐡造の無実を知り、さらに人柄にも引かれていたGHQ法務局が公職追放の解除に尽力してくれていて、GHQの心をも動かす鐡造の人柄は凄いと思いました。

鐡造とGHQ石油課のアーヴィング・モア大佐の会談で、モアが戦争での日本人の恐ろしさを胸中で語る場面がありました。
四年近く戦った日本軍の恐ろしさは多くの者が知っている。ゼロ戦をはじめとする優秀な戦闘機、それに米太平洋艦隊をさんざん苦しめた空母艦隊。今は占領下にあり、羊のようにおとなしい国民だが、ひとたび牙を剥けば、あのカミカゼアタックのように、命を懸けて戦ってくる恐ろしい国民なのだ。そうならないように日本人の牙と爪をすべて抜いてしまうというのが、GHQの使命のひとつでもあった。
「GHQの使命」という言葉が印象的で、私はすぐに日教組(日本教職員組合)が思い浮かびました。
日本人の牙と爪を無くし二度と歯向かえないようにするためにGHQは日本の教育を破壊します。
反日左翼思想の教師(日教組の教師)を教育現場に大量に送り込み、国旗や国歌、そして日本を嫌いにするための反日左翼教育を行います。
これは次第に浸透し、国旗や国歌、そして日本を好きになる(愛国心を持つ)のは悪いことと刷り込まれた人達が大量に産み出されました。
日教組の教師は公務員でありながら式典での国旗掲揚や国歌斉唱まで拒否しています。
私はGHQの亡霊のような日教組の教職員は一人残らず教育現場から一掃するべきだと思います。

武知が国岡商店の社員にしてくれと言い鐡造は快諾します。
鐡造のもとにどんどん人が引きつけられていて、読んでいて勇気が湧いてきました

石統に代わる「石油配給公団」が設立されます。
公団には旧石統の幹部がそのまま居座っていて商工省の役人との癒着も酷いままです。
公団は石油販売業者の指定から国岡商店を外そうとします。
商工省に頼まれたから日本のためにタンク底の油を浚う過酷な作業をしているのに、国岡商店が指定業者から外されるのは酷すぎると思いました。
この情報を徳山のタンク底で作業をしている宇佐美幸吉(こうきち)という社員がいち早く知り、すぐに鐡造に知らせます。
やがて武知の活躍で公団の「販売指定業者要領案」を手に入れ宇佐美の情報の裏付けを得た鐡造は激怒します。
公団の旧石統の人達は商工省からタンクの底の油を浚う作業の発注を受けた時、その作業をしないとGHQが石油を日本に供給してくれないにも関わらず、作業をしようとはしませんでした。
過酷な作業は国岡商店に押し付け、その後の「石油供給再開」という旨味の部分だけ自分達で押さえるという最悪なことをしています。

ただしGHQは公団ではなく国岡商店に味方してくれます。
GHQが商工省の北山を呼び出して激怒したことで公団の石油販売業者の指定から国岡商店を外す計略は失敗に終わります。
鐡造が一人たりとも社員の首を切らないと決意した日から二年経ち、ついに再び国岡商店が石油を扱える日がきます。


「第二章 青春 明治18年~昭和20年」
鐡造の生まれは福岡県宗像郡赤間村(現・宗像市赤間)とありました。
少年時代の鐡造はとても勤勉なのと自身の将来をよく見据えているのが印象的でした。

明治40年、神戸高等商業学校(現・神戸大学)の三年生になった鐡造は夏休みに東北旅行をします。
その時にたまたま秋田市の八橋(やばせ)に油田が発見されこの年から開発が始められたことを知ります。
油田開発の現地を訪れた鐡造は石油に魅せられ、神戸に戻ってからは石油について猛然と調べます。
これがきっかけで鐡造は石油の仕事に就くことになります。

鐡造は学内でも特に目立たない学生でしたが、神戸高商の近くに住む日田重太郎(ひだじゅうたろう)という32歳の資産家の男は鐡造に注目していました。
日田は鐡造の人間性を見込み、中学受験をする息子の重一の勉強の指導を頼みます。
鐡造の指導はとても厳しいもので甘やかされて育った重一は何度も泣きますが、やがて見違えるほどしっかりした子になりました。
日田が妻の八重に「あいつは人を育てる才能があるのかもしれん」と言っていたのが印象的でした。

鐡造は従業員3人の酒井商会という小麦と機械油を扱う小さなお店の内定を貰います。
その数日後、先に受けて一度は落ちたと思われた鈴木商店からも内定を貰います。
鈴木商店は急成長を遂げていた新興の商社で、この数年後には年商日本一になったとありました。
しかし鐡造はいつか独立して自分で商社をやりたいという夢のために、小さな商店で何もかも自分でやってみる経験を積みたいと考え、酒井商会への入社を決断します。
同級生達は鐡造を露骨に馬鹿にしますが日田は鐡造の決意を聞くと納得していました。
そこには「鐡造らしいな」と思っている雰囲気があり、若いうちに日田という良き理解者を得たのは鐡造の幸運だと思います。

三年目の春、鐡造は酒井商会店主の酒井賀一郎から命じられ小麦を売り込むために台湾に行きます。
初めての大きな出張に鐡造はワクワクします。
これから自分は広く世界に打って出る。これはその最初の一歩だ。

台湾の大手製麺所は大商社の三井物産に押さえられていて、どうやって対抗するか考えた鐡造は台湾から神戸に様々な荷物を運んでくる貨物船の帰りが空船になることに注目します。
この空船で日本から小麦粉を運べば運賃を値切れるはずだと読みこれが当たり、運賃が安くなったことで小麦の値段も安くすることができ、台湾で百以上の得意先を開拓します。
これに腹を立てた三井物産の大橋と下柳という男が鐡造の泊まっている宿に押し掛けてきます。
下柳は高商時代の同級生で、小さな商店に就職した鐡造を馬鹿にしていましたが、小麦の戦いで鐡造に大暴れされたのが悔しくて上司に頼んで圧力を掛けにきていました。
大橋と下柳に鐡造は堂々と商売の信念を語ります。
「ぼくが安い価格で小麦を売りたいのは、商売を広げたいというのはもちろんですが、それよりも消費者に安い値段で提供したいからです。生産者と消費者がともに得をするのが正しい商いと信じています。どちらかだけが得をする商売は間違っています。ぼくはその橋渡しをしているのです」
鐡造の「生産者と消費者がともに得をする」という信念は素晴らしく、読んでいて胸を打ちました。

鐡造の生家では父の徳三郎が商売に失敗し夜逃同然で引っ越し、子供達もバラバラになっています。
そのことを知った鐡造は家族を一つにして皆で暮らすために独立の思いを強く持つようになります。

鐡造は日田に誘われ一緒に散歩をします。
話しているうちに日田は鐡造の中にある独立への思いを見抜きます。
何と日田は自身が京都に持っている別宅を売ってお金を作るから独立してみないかと言います。
しかも返済も不要で「あげる」と言っていました。
鐡造は日田は自分が思っていた以上に遥かに大きな器の持ち主かも知れないと思います。

明治44年6月20日、鐡造は25歳で九州の門司(もじ)に国岡商店を旗揚げします。
そしてバラバラになった家族を一つにしてまた一緒に暮らせるようにします。

鐡造は機械油を扱う商売を始めます。
独立して半年経ったある日、日田が門司に引っ越してきます。
日田は「神戸は飽きた」と飄々と言っていましたが実際には京都の別宅を売ってそのお金を鐡造に与えたことを親族達から責められ、関西に住みずらくなっていました。
しかしそんな様子はおくびにも出さないところに日田の器の大きさが表れていました。

門司での油の販売に苦戦する鐡造は機械油、シリンダー油、グリースなどの様々な油を混ぜて性能の優れたオリジナルの油を作ることを思いつきます。
鐡造の調合した機械油は明治紡績という福岡有数の大工場から絶賛され大量の発注を受けます。
国岡商店を創業して一年、初めての大きな商いになりました。

鐡造は伯父の安一に縁談の話を勧められ春日ユキと結婚します。
しかし商売は苦戦が続き独立して四年目の春、日田から貰った資金が底をつきます。

日田に国岡商店を廃業すると言うと、何と日田は神戸の家も売ってお金を作ってくれると言います。
何て凄い人なんだと思い、器の大きい鐡造を支えるこの人の器は計り知れないと思いました。

もう一度商売を徹底的に考え直そうと思った鐡造は灯油を燃料にする小型漁船を関門海峡で何艘も見かけていたことに気づきます。
鐡造が目を付けたのは燃料で、エンジンの燃料に灯油ではなく軽油を使用できれば燃料費を大幅に安くできるため、軽油でエンジンを動かす実験をして全く問題ないことを確かめます。
鐡造は門司の対岸の下関にある山神組(現・日本水産)にエンジンに軽油を使ってもらうための交渉に行きます。
そして応対した技術者が鐡造の実験を見て国岡商店の軽油を使うことを承諾してくれます。
ただし国岡商店は大手の日邦石油と特約店契約をしていて、契約で門司の店は下関では販売してはいけないことになっています。
鐡造は「船を使って海の上で売る」と言います。
海の上なら門司も下関も関係ないという考えで、この機転は凄いと思いました。
船の上での商売は大繁盛し、大暴れする国岡商店の船は「海賊」と呼ばれるようになります。

鐡造は国岡商店で働く社員の教育にも力を入れます。
どんどん支店を出し社員達を支店長にしたいと考えています。
その支店長には何をするにも本店に伺いを立てるのではなく、自分で正しい判断ができる一国一城の主になってほしいと考えています。
そして国岡商店はどんどん販路を広げ、長崎、大分、宮崎、さらには四国にも支店を作り西日本の海で暴れ回ります。

鐡造は一度満州で油を売ろうとして外国石油企業の壁に阻まれて失敗したのですが、大正13年12月、再び満州に行きます。
満鉄(南満州鉄道株式会社)に油を売りたいと考えています。
鐡造には日本政府の後ろ楯がある満鉄はいずれ巨大な企業になるという読みがあり、今、満鉄の車輛の油を押さえておきたいと考えています。
満鉄の車庫を渡り歩いて熱心に油を売る努力が実を結び、鐡造が調合した満州の寒さに耐えられる油を使って実際に列車を走らせてくれることになります。
この実験が成功し、満鉄から国岡商店に車軸油の一部を注文したいと連絡がきます。
鐡造の努力が報われて良かったと思いました。

この頃、欧州での戦争(第一次世界大戦)が激化し、日本に入ってくる石油の量が減ると考えた鐡造は石油のストックを増やします。
すると予想どおり石油の輸入量が激減し石油の値段が高騰します。
この機に石油を高く売ろうと言う社員がいたのですが鐡造は一喝します。
「国岡商店が軽油の備蓄を増やしたのは投機のためではない。消費者に安定供給するためではないか。今後、二度と卑しいことを言うな!」
値段の高騰に合わせて高く売れば大儲けになるところをそうはせず、どこまでも消費者への安定供給を考えている凄い信念だと思いました。

満鉄の車軸油は大半をアメリカの石油会社が押さえていますが、鐡造は実験をしてその車軸油の寒さへの弱さを知り、このままでは満鉄の車輛に大きな事故が起きるのではと危機感を持ちます。
しかし満鉄にそのことを言っても相手にしてもらえません。
やがて鐡造の指摘どおり車輛の車軸が焼ける事故が起き、鐡造とアメリカの石油会社三社(スタンダード石油、ヴァキューム社、テキサス石油)の関係者を集めて車軸油の寒さへの耐性実験が行われます。
鐡造は見事三社に勝利し、満鉄の車軸油は全て国岡商店の新しい車軸油に切り替えられることになり、満州の地に国岡商店の名前が轟きます。

大正12年9月1日、関東大震災が起き日本経済は落ち込みます。
鐡造は突然大口の融資をしてもらっている第一銀行門司支店の副支店長の訪問を受け、これまでに融資した金を半年以内に返済するように要求されます。
商売は順調なのに倒産の危機になります。
鐡造はやむを得ず高利貸しから借りる決意をしますが日田に止められて目が覚めます。

鐡造はもう一つの大口融資銀行である二十三銀行門司支店の林清治支店長を訪ね、第一銀行から貸金の全額引き揚げを要求されたことを話します。
全額返済するには倒産して店を清算するしかなく、二十三銀行も第一銀行と同じように貸金を回収するならただちに店を畳むと言います。
倒産を覚悟し、二十三銀行に筋を通したのだと思います。
これを聞いた林は何とか鐡造を助けてあげようと、大分の本店に行き長野善五郎頭取を訪ねます。
林が「国岡鐡造という人物は立派な男です。国岡商店もまた立派な店です。できれば、われわれが支えてあげたいと思います」と言うとあっさり承諾してくれます。
林が鐡造を信じているように、長野は林を信じているのだと思いました。
第一銀行の融資分も二十三銀行が肩代わりすることを承諾してくれていて、この人もまた日田のように器の大きい人物だと思いました。

大正13年の暮れには国岡商店は社員の数が百名を超えます。
翌年春、日田が神戸に帰ります。
次男の重助が京都の美術大学を出て陶芸家になり、日田も一緒に焼き物をやると言っていました。

大正14年の暮れ、ユキが結婚して12年間子どもを生めなかったから責任を取って離縁したいと言います。
何とか思い止まらせようとしますが「鐡造は跡取りを作るべき」と言うユキの決心は固く、鐡造は離婚を承諾します。
読んでいてユキの決心は凄まじいと思いました。
仲が良いのに鐡造の跡取りのことを考えて自ら離縁したいと言い、鐡造の引き留めを拒むのは断腸の思いだと思います。
鐡造はこの時ユキが涙を流す姿を初めて見ました。

やがて大正が終わり鐡造は国、国岡商店、さらには自分自身にとって大正は激動の時代だったと思います。
そしてその次にあった一文が印象的でした。
しかし本当の激動の時代がこの後に押し寄せることになるのを、鐡造も国民の多くも知らなかった。
太平洋戦争(大東亜戦争)が迫ります。

昭和2年、鐡造は知人の紹介で山内多津子と再婚します。
この年に男の子が生まれ昭和の元号から一文字取り「昭一」と名づけます。
昭和の元号の由来は興味深かったです。
「昭」は明るく照らすことを意味する文字、「和」はもちろん「仲良く」という意味の文字だ。つまり「昭和」という元号は、明るい未来に向けて万人が仲良く平和に暮らすことを祈って付けられたものだった。
穏やかな昭和を望んでいたのだなと、しみじみとしました。

昭和6年9月、満州事変が起き中国との戦いが始まります。
やがて日本政府は日本でも満州でも石油を統制しようとし、鐡造はこの動きに危機感を持ちます。
鐡造は満州の石油が統制されると中国の上海への進出を決断し、部長の長谷川喜久雄という鐡造が若い時から目をかけていた男に現地での指揮を任せます。
昭和13年4月、戦争遂行のために国家にあらゆる権力が与えられるという主旨の「国家総動員法」が成立し、陸軍の暴走が止まらなくなります。

鐡造が「富国強兵」について胸中で語っていたのが印象的でした。
鐡造が生まれた明治18年から日本はずっと富国強兵で突き進んできた。欧米の列強がアジア諸国を植民地化していく中で、日本が生き残る道はそれしかなかった。もしも日清戦争や日露戦争で負けていれば、日本は他のアジア諸国同様、ロシアや英米に植民地化されていたに違いない。
これはそのとおりで、当時世界は「白人至上主義」が支配し、白人以外はゴミ同然と考えていました。
ゴミ同然の国なら植民地化して奴隷にしても問題ないという考えのもと、オランダやイギリス、フランスなどの列強はインド、インドネシア、ビルマ(ミャンマー)、フィリピン、シンガポール、マレーシアなどのアジア諸国を植民地にし非道の限りを尽くしていました。
こちらがどんなに「平和に暮らしたいです」と言っても相手が問答無用で武力で侵略してくればあっという間にやられて植民地にされてしまいます。
これを防ぐには国が強くなり簡単には植民地にされない力を身に付けるしかないです。
この時代、日本はアジアで唯一列強の支配に対抗できる力のある国でした。
「昭和」の元号の由来に「明るい未来に向けて万人が仲良く平和に暮らすことを祈って付けられた」とありますが、それを実現するには大前提として国に簡単には侵略されない力がなければ成り立たないことを、今の時代を生きる日本人は忘れてはならないと思います。
ただし「国家総動員法」に見られるようにまずい部分もありました。
まずい部分は反省し、同じ失敗をしないように後世に生かすのが最善だと思います。

鐡造は直接アメリカやイギリスの石油会社から原油を中国での販売用に輸入しようと考え、タンカーを建造し完成したタンカーに「日章丸」と名づけます。
しかし世界は再び欧州戦争以来の大戦争に突入しようとしていて、日本のタンカーが自由に海外へ石油を求めて動ける情勢ではなくなっていました。

昭和15年、日本の経済は厳しさを増し、米穀(べいこく)が配給制になります。
この年の9月「日独伊三国同盟」が結ばれ、日本は米英と完全に敵対関係になります。
アメリカは日本へ石油の一部を輸出禁止にする対日経済制裁を行います。

日本では石油共販株式会社(後の石統)ができ、そこから閉め出されている国岡商店はもはや国内の営業所では商売ができなくなります。
鐡造は国内の営業所を縮小し満州と中国に主力を移すことを決断します。

昭和16年7月、ついにアメリカが日本への石油の輸出を全て禁止します。
12月、日本とアメリカの全面対決が始まります。

鐡造は陸軍省燃料課の中村儀十郎大佐に頼まれ、南方のスマトラ島の油田に国岡商店の社員200人を送ることを決断します。
昭和19年7月、昭南島(シンガポール)から現地の実情を報告するために長谷川喜久雄が一度日本に戻ってきます。
49歳になった長谷川は戦場で軍を相手にして民需石油の配給を一手に引き受け全身に風格と凄みが滲み出ていました。
この時鐡造は戦争が終わったら長谷川に国岡商店を任せようと考えていました。
しかし終戦後の二年間が描かれた第一章に長谷川の姿はなく、そうか、この人は死んでしまうのかと思い悲しくなりました。


第一章はとにかく「社員の首は絶対に切らない」という鐡造の経営者としての揺るがない信念が印象的でした。
第二章は第一章が始まるまでに鐡造がどんな人生を歩んでいたかを知る物語で、その人生は本当に波乱に満ちていました。
若い頃から第一章で見た圧倒的な器の大きさの片鱗を見せていて、その鐡造を支えた日田重太郎やユキ、困った時に国岡商店を助けてくれた銀行の人の器の大きさもまた印象的でした。
鐡造は自然とそういう人を引き寄せる天性の魅力と吸引力を持っているのではと思いました。
再び第一章の続きに戻る下巻で鐡造のどんな活躍が見られるのか楽しみにしています


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