思考の部屋

日々、思考の世界を追求して思うところを綴る小部屋

なぜ人間は左に徘徊するのか?

2015年04月20日 | 哲学

 中央公論社の月刊誌5月号の特集「さまよう宗教心」の最初を飾る対談に「福島を語る、土地の霊性と宗教の領域」と題した中沢新一さんと玄侑宗久さんの対談が掲載されていました。

 興味をひかれる話が多いのですが、その一つに対談の冒頭に話した玄侑さんの次の話に興味を持ちました。

【玄侑】 人間と土地や地形について語り合う上で一つのヒントになるかもしれないと思うのですが、中沢さん、認知症になって徘徊する人が、たとえば道に突き当たってしまったとします。その場合、右と左、どちらに行くかわかりますか。わたしはある施設の方に聞いたのですが、「決まっているんですよ」と。どんな人でも、たいてい「突き当ったら、左に行く」のだそうです。

 徘徊というのは、意識的な脳の作用というよりも、無意識の深みに入っていって引き起こされる行動ですよね。だからどこの国でも陸上競技場のトラックは左回り、左に行くのが人間にとって自然だというのです。(上記書p27-p28から)

 この人間の無意識が織りなす「左回り」という言葉が何か非常に印象深いのです。トラックの左回りは「心臓の位置と関係する」という話を聞いたことがありますが、確かに左回りのほうが安心します。反時計方向で何か考えると刻むよりも過去に回帰する感覚をフト感じます。

 その点対談の中にもありましたが、仏教はその点左回りで、私自身近くの松尾寺のお堂で般若心経を唱えたあと右回りで意識的にお堂の周りを真言を唱えながら廻りますが人間の意識的行動はどうも右回りで、無意識になると右回りなるようです。

 この話を別なことに当てはめると保守に対する改革心という右左翼の対称性を思ってしまいます。右大臣、左大臣・・・太陽を正面に拝し手の右と左・・・左右を徹底して考察された方もおられましたが、この左に徘徊するという自然的行為になにか哲学を感じました。


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