思考の部屋

日々、思考の世界を追求して思うところを綴る小部屋

心の目と意思決定

2017年05月15日 | 哲学
 もう既に6年前の話になりますが、コロンビア大学のアイエンガー教授の『選択の科学』が話題になったことがありました。この著の英語名は「The Art of Choosing」と書き人間行動における意思決定による選択の重要性が語られていました。

 アイエンガー教授は「人間は物語る存在」とも語り、この「The Art of Choosing」という題名の「Art」という単語の意味と重ねると個人的に想像と創造の両意味も現われ、描かれるその先には人生というものが薄ぼんやりと現れてきます。

 ここで私は「現れてきます。」と書きましたが、そう思えるということであり、人生という概念が実感できるという事でもあります。実感できるということは意味がつかめるということで実感は現実感でもあります。

 現実感を私なりに表現してみると、そこに存在のリアリティーが「ある」という以上に自覚的な感覚にあやふやな遊離のない「ある」が意識の根底から立ち現れていると言ったところかもしれない。

 昨日の日曜日に日本の写実画の話が取り上げられていました。「日本人のリアル」というテロップが出たり、「モノに本質を描く」という言葉も流れていました。今回は平塚市美術館の展示物が扱われていましたが、千葉県のホキ美術館の写実画展示物は有名ですが、ホキ美術館の写実画を見た際に、リアルな現実感がそこに見て取れ、見て取れるとは、描かれている風景や静物、人物が「ある」という感が現実感と重なります。

 個人的に写実画が好きなところはその感覚上のスッキリ感が快なのです。

 何故に快なのか。快に感じない人もいるかもしれませんが、描く画家は快でなければ描かないわけで、写実画に惹かれる人は、不愉快な世界にあるわけではありません。

 このスッキリ感というものはいったい何なのか。思考好きな私はすぐに思考に遊んでしまいます。



 時々球体の自然石の話をしますが、河川でこの石を見つけた時、その「ある」ことがとても不思議な感覚の中で現れました。人が手を加えて作る球体ではなく、自然が作り出した造形、岩石自体が球体におのずからなったわけではなく、自然の関係性の中でそれは私の前に現れ、気に留(と)める。

 客体である球体の石は、なぜ私の気を止め、留(とど)めるのか。

 私の内に、留まるのはなぜなのか。

 好みとはこの留まりにみずからそれに気づくことなのですが、突然に私の心の奥底から立ち現れます。河川を歩くこともなく、石を見つめることもない人、球石に意味を加えない人には無駄話なのですが、そこで気づくことがあります。

 見る私と認める私がいるということです。

 精神病理学者で臨床哲学者の木村敏先生の言うところの主語の私と述語としての私がいる話にも通じるように思うが、述語の私はあくまでも認識作用の主催者ですが、認めるという痕跡によってその私は感覚することができます。といっても感覚的にあるわけでなくあくまでも後的にそう思うところのもので、このようなことの起こりによってこのように表現することになります。

 このような意識的活動や日常の生活における行動意思というものは、主語の私と述語の統合的な現われであって、物語る私とはそういうところに現われの内にある、といえると思う。

 最近よく「内心の自由」という言葉を耳にします。思うに、「内心の自由」というものは、主語の私の思(想)うところであって、その思(想)いの決定は述語の私の働きが作用するのであって、述語の私は、不自由を足枷にしない、自(おの)ずから由(よ)とする、無限の選択肢を発現させる決定権を持つ内心の源にあるように思う。

 私はどのような行動をし、どのような行為をするのか。

 「健全なる心」という言葉が使われる時、相対する非健全が前提にあることになります。

 「無限の選択肢を発現させる決定権を持つ内心の源にある」私というものはそのような相対を有するものではなく、どこまでも現れとして形なき主が作り出すもの。

 それは無意識の世界を語っているのではないかと思う人もいるかもしれませんが、健常体の精神活動においてはどこまでも自覚的で、現実感として主語の私が意思決定をし、健常体の意思決定はどこまでも「無限の選択肢を発現させる決定権を持つ内心の源」の述語の私と主語の私との織りなしにあるのではないでしょうか。

 我と汝の会話について過去ブログに書いたように善悪の世界観、次元での話ではありません。私は、生命への畏敬という根本を熟成させる生き方をマルティン・ブーバーは示唆しているのではないかと思い言葉を引用しましたが、目で聞くということの意味理解や、共感覚的な話も脳障害とは異なる話と理解できるならば、どこまでも人間の営みは「The Art of Choosing」であり、「無限の選択肢を発現させる決定権を持つ内心の源」を正常にとどめたいものです。

 正常というと異常を背後に持ってしまいますが、兎にも角にも心惹かれるものは注意深く心の目で見つめたいものです。
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