最近のクローズアップ現代で脳の再生医療の最先端の話がありました。薬による脳の再生、実際に脳機能の損傷で腕を上げることができなかった人が上げることができる様子が放送されていました。
日本を拠点にその再生を促す新薬開発が行われ数年後には実現するのは明らかなようです。脳障害による不自由な身体からの解放、認知症からの解放・・・近い将来すべてが実現しそうに思われます。
遺伝子組み換えによる優秀な人づくり、優秀とは各遺伝的病(やまい)の是正から粗暴的な行動に走らせる遺伝子の組み換え、至っては殺人を敢行する遺伝子の発見されこの世から人殺しは消滅するかもしれません。
予想もできない未来、実際大昔の人々から現代人を見れば神様に見えるかもしれません。
完全なる人間とはどのような者なのか?
完全なるもの
無機物的な物(ぶつ)なのか、有機的なものなのか?
在るものが無欠の完全なるものとは何なのか?
それは作られるものなのか?
そのような思索の世界に遊ぶと人間はその者が何者なのか知悉してきたことに気がつきます。
そのものの名は“神”
疑いなき神の存在を高らかに称賛し畏敬の念をもつがよい。
国会を含め、南の島の米軍基地問題も含め、半島情勢を含め、世界の荒れようを見て叫ぶがよい。
ニーチェが高らかに人々に言い聞かせた主(ぬし)の失いの言葉は、科学力によって人間を創造の主に転換させている事実、脳の再生新薬開発を知りあらためて、世の中とは混沌の連続のように感じます。
混沌の中に何が現れているのか?
自意識における「今(いま)」という時間と空間の一点を永遠の今として人間形成の力と位置付けることを語る人がいます。
しかし聞く耳を持てない人、もたない人、その場を知らない人にとっては何の意味も持たない話。
悪貨は良貨を駆逐するというが、そのような概念で世の中を見て、世の中を駆逐する人々を是正したいと思うのだが、良きものとは何者なのかと問いが私の脳裏を駆け巡る。
「わからん」ことを「わかろうとする」こと、迎合することなく自分の意見を持てる人、実存哲学という言葉が好きなのですが、思索できるということは最も幸なのかもしれません。
思考できるということは存在におけるもっとも力強い働きのように思えるのですが、思考という言葉にはどうしても「苦悩に苦悩する考え」と、意味転換されてしまい残念です。
私の部屋は「思考の部屋」としていますが思索することに意味を持たすならばやはり思考という日本語が適切であるように思うのです。考えることができなくなってしまったら人間はお終いなのです。
それは誰もが、知っていることなのですが。