思考の部屋

日々、思考の世界を追求して思うところを綴る小部屋

霊的な目覚め/意味への信仰

2014年09月22日 | 思考探究

 Eテレ日曜日の早朝の定番「こころの時代」の4月から9つまでの間、「さとりへの道~華厳経に学ぶ~」が放送されています。

 「もし日本に何か世界宗教の思想上に貢献すべきものを持っているとすれば、それは華厳の教説に外ならないのです。」(鈴木大拙著全集第7巻「仏教の大意」p45)

と西田幾多郎先生の友人鈴木大拙先生は語っている。

 昨日の番組では宮沢賢治の『インドラの網』や井筒俊彦先生の思想が紹介され善財童子の「さとりへの道」が興味深く語られていた。「さとり」などと言う大層な命題があるわけでもなく、ひたすら知の求めの衝動に任せ番組を見るのですが時々に、それこそいつでも何かを問われているように思えます。

スピチュアルな世界を考えるときに私の場合は、肝心かなめの立脚点がどこにもないことを思ってしまう。

 サンマーク出版「セブン・マスターズ ジョン・セルビー著」に、スピリチュアルな進化という世界で意識の拡大における「霊的な目覚め」に不可欠の自己想起という瞑想法としてグルジェフの瞑想が紹介されている。そこでは次のように語られています。

 注意の一部を「いまこの瞬間」の外的体験に向けると同時に、注意の別の一部を内側に向け、知覚している自分自身を自覚するという修行である。
 永遠の「いまこの瞬間」に、認識される客体と認識する主体を同時に体験する意識なのだ。
 瞑想の究極的な目的はは、物質的時空に内在する両極性を超越して、永遠で、非定型で、生物学的に決定づけられた、認知的理性から独立した意識状態に到達することだ。

<以上>

 スピリチュアルな世界観における、とくに「霊的な目覚め」に違和感を感じ、存在としての立脚点が宙ぶらりんに思えてならない。

 番組で井筒先生の思想が語られ、番組でも使われていた『意識の本質』なかのサルトルの「嘔吐」を思い出しました。
 
<井筒俊彦著『意識の本質』岩波書店から>

 サルトル的「嘔吐」の場合、あの瞬間に意識の深層が垣間見られたことは事実である、もともと言語脱落とか本質脱落とか言うこと自体が、深層意識的事態なのであって、それだからこそ「存在」が無文節のままに顕現するのだ。しかしサルトルあるいは「嘔吐」の主人公は、深層意識の次元に身を据えてはいない。そこから、その立場から、存在世界の実相を視るということは彼にはできない。それだけの準備ができていないのである。だから絶対無分節の「存在」の前に突然立たされて、彼は狼狽する。仏教的表現を使っていうなら、世俗諦的意識の働きに慣れ、世俗諦的立場に身を置き、世俗諦的にしかものを見ることのできない人は、たまたま勝義諦的に触れることがあっても、そこにただ何か得体の知れない、ぶよぶよした、淫らな裸の塊しか見ないのである。

<以上上記書p11>

今のスピリチュアルな世界の渾沌たる状態、主張(至るところ霊的、神的、ガイア的世界)を知るにつき「自然の人間への無関心の事実」を単純な本来あるべき世界観の体得にしか語っていないように思えるのです。

 それが実存的虚無感の中に「嘔吐」としか現われてこない。ひたすらの「やわらかさ」を求めますが、現実のリアルの中ではどうしても立脚することはできない気がします。

 私も思うのですが、「自然の人間への無関心の事実」とは「自然は目的を持たない」というリアルな現実です。

「あるが儘からなるが儘」

『インドラの網』も縁起の網の微細の鏡の中に写しだされる関係性の中にある現実。

一刹那の「その儘」にひたすら観るしかない、そんな気がします。そして、

「なるが儘からあるが儘」

に気づく、それが意志の力になると思います。

 最後に記しますが、個人的にスピリチュアルな世界を全否定しているわけではありません。


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