思考の部屋

日々、思考の世界を追求して思うところを綴る小部屋

夢物語から自由意志・<わたし>はどこにあるのか

2014年11月08日 | 思考探究

 立花隆さんのNHKスペシャル『臨死体験~死ぬとき心はどうなるのか』という番組の中で、ウィスコンシン大学精神医学者ジュリオ・トノーニ教授の意識の最前線理論「統合情報理論」が紹介されていました。

 意識とは何ぞやという哲学的にも心理学的に問われる問題で個人的にも興味を持っていることです。

 人間の意識は、クモの巣のように複雑に絡み合った脳細胞が作りだすもので、ある定点があるわけではなく、脳細胞の活動がその伝達で過程で作りだす統合的もののようです。

 番組中の解説によると

 意識は、脳内のさまざまな部位の神経反応として生じている感覚、感情、記憶などの情報がクモの巣のような複雑なネットワークを作りながら全体として一つのまとまりを形成しているものであり、意識は脳の局所に存在するのではなく、膨大な神経細胞が複雑につながって一つに統合された時に生まれる。

のだそうです。

 覚醒時は脳全体が活動し、睡眠中の夢世界では、そのネットワークは、縮小された範囲の脳の活動になり、夢の中の意識は、覚醒時の意識と異なり、視覚聴覚等の身体の感覚器官と現実的な直結のうちに感得される物とは異なり、あくまでも空想的な絵空事における意識であるようです。

 考えてみれば夢の中では意識は覚醒時に経験される身体感覚とは異なり、覚めればまさに夢物語であるわけで、芥川龍之介が『杜子春』で語るように「ぼんやりと佇んでいる」か、寝間の天井をぼんやりと見つめる、その時の意識に代わる。

 同じ意識と言っても、身体と密接にかかわる(夢遊病者もありますが)ところが境目の要で、実行動ができる、自由意志による行動ができるが覚醒時の本来的な意識のように思えます。

 脳科学に関して先週のEテレ「サイエンスZERO」で理化学研究所脳科学総合研究センターの神経適応理論研究チームリーダーの豊泉太郎さんの神経細胞についての話がありました。

 脳の一つ一つの神経細胞は感じたり考えたことを電気信号として受け取り、そして一度にたくさんの信号を受けとると、自らも信号を発し他の細胞へ伝えている。この一つ一つの神経細胞の働きについて、実はその性質を説明する数式があるそうです。その数式は今から60年前にイギリスの科学者がこの仕組みを実験で観測しある法則を発見し、それを公式化したものです。

 画面に映し出された公式は、素人の私には全く理解できない複雑な公式ですが、この式によって脳神経細胞がいつどのぐらい信号を発するのかが分かったわけで、私たちの脳の中には1000億個の神経細胞が詰まっていて、神経細胞は電気信号を伝える回路でつながれ、複雑な電気回路を作り上げている、それが人間の脳です。

 一つ一つの神経細胞は段々とその機能が解明されつつありますが、脳全体のことはまだわかっていないとのこと。豊泉さんの研究は、脳を作り上げる究極の法則が発見できれば脳全体のことも分るであろうという予測のもとに、「一つ一つの脳神経回路が出来上がるメカニズムの解明」が目下のテーマなのだそうです。

 豊泉さんお次の話は脳回路で、私たちが新しいことを学習したときには、脳の中では回路が組み換わるということがわかっていて、豊泉さんは自分が作った公式を紹介し「学習とは神経細胞が大切な情報を確実に伝えられるように回路を組み換える現象」であると説明していました。

 さらに、学習の法則に従って、個人個人の経験に応じて、脳回路に特別な細胞集団ができ、強く経験したことがその人の脳の回路の特徴となりそれぞれの得意なものや個性が出来上がるとのこと。しかしこの活動には臨界期があっていつでも組み換え等が可能かというとそうでは無く、絶対音感は子どものころの獲得、その他運動能力、言語能力が活発に行なわれる時期があり、そして環境の変化や薬物により臨界期のタイミングがどのように変化するかが分りつつあるそうです。

 最近は書店へ行っても多くの脳科学に関する書籍を見かけます。個人的にも興味を持っている分野ですので、このような話も私に対する問いであろうという勝手な思い込みのもと、ブログにまで書くのですが、実に脳科学はより詳細な解明作業に突き進んでいるようです。

 自由意志とは何ぞや。

 このように脳科学が進み、意識や脳細胞間の情報伝達の仕組みが公式化されるのを見ていると、科学の法則は、必然性の話になるわけで、同じ法則に従ってくり返されることがいわゆる必然という概念を私たちに与えるのですが、こうなると自由意志とは一体何なのかと考えたくなります。

 まだ購入してない本ですが、「自由意志は説明可能か」というテーマで書かれた、カリフォルニア大学サンタバーバラ校教授で認知神経科学の父とも言われる世界的権威のマイケル・S・ガニガが書いた『<わたし>はどこにあるのか』(紀伊国屋書店)という本の批評が先週の日曜日の読売新聞の「よみうり堂 本」に掲載されていました。東京大学宇宙物理学者須藤靖教授の書評で、あまりにも書評が素人にも分る文章で、なぜかこの本が言わんとしていることが分ったような気がしてしまいました。

 「意識が決定論的物理法則に支配されているとするならば、自由意志が入り込りこむ余地はなさそうだ。しかしその世界観にどっぷり肩まで浸かっている私ですら、自由意志の存在の放棄は認めがたい気がする。痛いと感じる前にすでに手を引っ込めるにもかかわらず、痛みを感じたから行動したと[後づけ解釈]をしてしまう我々の本性が、自由意志という幻想を生みだしているにすぎないのだろうか。さて困った。」

 という批評の中の言葉に、さて困った。購入しようかどうしようか。

 ビックバーンから私の短き一生は法則の中で、必然性として現われているにすぎないのか。全てが公式で顕現する、表現されるものならばそう考えざるを得ません。

 最後のこの須藤さんの書評文がまたいい。

「私は本書を書評で取り上げるべきかどうかぎりぎりまで迷っていた。そして今回の最終判断は私の自由意志によるものだと確信している。宇宙が誕生した瞬間に本書を私が取り上げることがすでに決定していたなど、どうしてみとめることができようか。」

 さて困った。『<わたし>はどこにあるのか』を買うべきか否か・・・地元の平安堂に入ったのですが、ありませんでした。無いということは、そのような運命にあるのか。

 いや今の時代ネットで注文すれば、2日後には安曇野の山麓にも届きます。

 これは自由意志による選択ではないのか。さてさて困った。まだ結論は出ていません。


最新の画像もっと見る

1 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
私は買わない (あかさ)
2014-11-08 23:53:32
始めまして。最新科学にして、どうして占い話に聞こえる。コピーすればエラーが出てくる可能性があるように、ザガニガがザニガになります。座蚊似伽。誰が?昔、亀が地球を動かしたように現代脳味噌があるのはズワイガニです。本が無かったことはラッキーでした。英語版のカバーはヒンズー教のイメージそっくり、ぱくり。少し調べて、その博士の昔の左脳、右脳の研究は面白かったです。

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。