思考の部屋

日々、思考の世界を追求して思うところを綴る小部屋

私にとってのドゥルーズの「これ性」とは?

2015年05月25日 | 哲学

 5月21日「哲子の部屋」の第三回目「どうしたら“恋”できるの?」が放送されました。河出書房新社からNHK出版から『徹子の部屋』が三冊出ているので、三巻目が第三回目の番組内容になるのか単純に思っていたところ、三回目、四回目は新作だということで、私個人の早とちりの傾向は相変わらずです。

 サイトの番組紹介には、

 今週・来週の『哲子の部屋』は新作をオンエア!テーマは「情報過多社会をどう生きるか?」。モノや情報にあふれ、流行(はや)り廃りの激しい現代社会を豊かに生きるための哲学をお届けする。今回のテーマは「どうすれば“恋”できるの?」。“現代哲学の巨人”ドゥルーズが唱えた「これ性」という謎の概念を通して、何かに恋できなくなった現代人がもう一度“恋”するための「出会いの哲学」を、気鋭の哲学者・千葉雅也が語る。

と書いてあり、新作二本と書いてあるわけで、情報を求めなかったところに上記の誤り認識が生じた訳です。

 出版されている第三冊目は題名は、『Ⅲ“本当の自分”って何?』で、「どうしたら“恋”できるの?」ではないわけですが、立命館大学大学院 准教授千葉雅也,清水富美加,マキタスポーツの三名によって語られるフランスの哲学者ジル・ドゥルーズ(1930-1985)の哲学であるところは共通していました。

 今回は、「情報過多社会をどう生きるか?」というテーマの一つの切り口として「恋」について考える。という話で「恋ある人生」とは縁遠くなっている初老にはと思っていたのですが、なかなか得るところは多いわけでありがたい学びの場になりました。

 確かに一線の場で多くの若い人と接していると独身者も多く、どうみても彼女が居ない人が多いような気がします。

 その背後にネット社会も含めた「情報過多社会」があるという話、便利で豊かな社会は、“恋”をしなくなる現象を産み出しているようです。

 言い回しを変えれば、“恋”するための「出会い」が失われているのが情報過多社会の今日だという事です。

 そこに登場するのがドゥルーズの「これ性」という概念、巨大なピラミットも出来事だ、今に存在する物

もの(物)=出来事

唯一無二の「これこそ、これだ!」という出来事の特異性

それがドゥルーズの説く「これ性」で、唯一無二の存在は「比較できない」ということで、「おふくろの味」に象徴されるように、人それぞれの異なる味覚の思い出があるわけです。

 情報過多とは、あらゆる情報は比較を醸成させる。

 恋は、偶然性の出会いの中で、相手に対して好みの君のあわいの情感が育むとき生じてくるように思います。

 しかし情報過多の社会では、もっと、もっとの過剰な好みの君との出会いを、思ってしまう。しかし、出会いとは、

 時間軸に乗せた時のある時代に出現していたこと=出来事

 「これ性」における意味として「唯一無二の存在」の大切さを語るもので、時代に生きた人間も出来事、ある時期に発生して、ある時期に終わって行くであろうどき事(こと)、でもあるわけで、番組ではこのようには語っていませんでしたが、恋とは別な個人的な哲学の世界に入らせてくれます。

 「可能性」

 今ここで出会わなくても別の可能性があると情報過多社会は語り、今ここで結論を出す必要はなく、又あるだろうとの先延ばしがこころが生じる。もっと素敵な人がいるかもしれない、私ならばもっと別な職場があると考えてしまう。

 恋の話も私にはそう言う読み替えとして聞こえる。

 今現在を考えれば、今現在と対峙しなければいけないのに可能性にあまりにも期待しすぎている。

 性格異常者なのか否かと、そう決めてしまうのも情報過多なのかもしれません。相手は当たり前に我を出しているわけで相手が好みの相手に変身するわけでもない。

 私にとってのドゥルーズの「これ性」は、代わることのできない出来事として「ある」わけでニ三時間後には私の前に現れるわけです。


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