思考の部屋

日々、思考の世界を追求して思うところを綴る小部屋

わたしはそう思うということ

2017年05月06日 | 哲学
 心理学の話で「ルビンの壺」という図があります。図と地の話で白黒の図形が、白の部分が壺に見えたり、黒色の部分が相対する人の横顔に見えるものです。

 壺に見えているときには、相対する人の顔は認識されず、逆の場合も同じで、同時に壺や人の横顔は認識できません。

 私はいつもこの図と地のルビンの壺の話は驚きを感じます。これに似た図には老婆と夫人や、ウサギとアヒルのものがあり、人間の視覚作用というものは不思議そのものです。

ウィキペディアによると、

ルビンは『視覚的図形』の中で次のように論理を展開した。

 共通の境界線を持つ2つの領域があり、一方を図、他方を地として見るとする。その結果、直接的知覚的経験は両領域の共通の境界線から生じ、1つの領域のみか、一方が他方よりも強く作用する行動形成効果に特徴付けられる。

と説明され、

「要は一方が図になるとその形が知覚され、残りは地としてしか知覚されないという事を、図地反転図形の1つであるルビンの壺を例に採り説明したのである。」

と解説されています。

 ルビンの壺は白黒の反転ですが、老婆と夫人やウサギとアヒルはスケッチのような鉛筆画でルビンの壺のような白黒の単純な図形ではなく、写実画の個人的には別次元の反転をを感じます。

 写実画の風景の一変とも思え、そうすると風景が別風景になってしまう絵も存在するのではないか思ってしまう。考えてみればだまし絵もその類で様相の一変は身近に見ることができます。

 そのように見えますという世界は、脳内にも見えることの理解の理解のもとになる像が表象され実感をも伴うリアルなものです。老婆と思っていたものは突然に夫人の姿が浮かび上がる。夫人に見えます、という理解の実感が湧いてきます。

 ここまでの話は心理学的な図と地の話ですが、一か月ほど前のEテレの日曜美術館でパブロフ・ピカソが取り上げられていてゲストに北野武さんが出演されていました。

 天才ピカソというだけあって常に個性の描きの世界を展開した人で番組にも実物が登場し、これまでピカソ作品にはさほど興味がなかったのですが、武さんの思考視点もあるのか、ピカソの絵は図と地の話などとは異なり、描かれているそのものに、そういう事かという私側に理解の納得が浮かび上がります。

 抽象といえば抽象なのですが、草間彌生さんのようなリアルな赤や青や黒、目の集合体や顔の連続的な描きがあるわけではなく、目の前に主語的な絵があるならば、述語面において私側はそういう事なのかという理解する私が現れる。見る私から、理解という聞く側の私が現れてくるということです。

 以前ブログに夏目漱石の『草枕』の

「超すことのならぬ世が住みにくければ、住みにくい所をどれほどか寛容(くつろげ)て、束の間の命を、束の間でも住みよくせねばならぬ。こゝに詩人という転職が出来て、ここに画家といふ使命は降る。あらゆる芸術の士は人の世を長閑(のどか)にし、人の心を豊かにするが故に尊とい。」

という文章をアップしたことがあります。詩人と画家は人の心を豊かにするがゆえに尊いといっています。

 詩人は文字を書き個人の表現の世界を展開します。至人ではないのですが一般の方の次の文章に出会いました。

 「自分の主観で、幸せな状態を想像する。」

 このような文章に出合うと、そもそも幸せな状態というものはどのようなものかという疑問がわくよりも、具体的な幸せ例が示しだされるわけではありませんが、「幸せな状態」が意味を成して文章を理解できます。

 多様な人間の幸せ観、それぞれの幸せ観をもって大まかな意味をつかみます。

 「私はそのように幸せなるものを想像する。」このように主語なる私はリアルな自意識において語りの主になって幸せを語ります。

 この語り主が「#東北でよかった。」と語るならば、東北の自然の美もあれば人情的な美も語られます。

 またも元稲村復興相の「東北でよかった。」という語りを取り上げますが、このような語りをする思考の根源には大都会の災害規模比べれば小さかった、という価値判断があり、万人がこのような対比を考えるならば、この語り主の表現は誤りではありません。

 しかし災害が起こったのが「東北でよかった」という語りは何だろうか。自分の価値判断でそのように思っていることは確かで、「失言」などというものではない。場の雰囲気意を高めるための、喜び感を伴って語っているかのように見えてくる。

 同県人として恥ずかしいのですが、務台議員の「長靴」に関わる行動、言動には川を渡る際の動画や会の場での儲かり話には、何か上記の話の喜び感と同様の印象を持ってしまいます。

 図と地の話での一変です。

 「東北でよかった。」

 何が政治家の資質の欠如を物語るのか。

 「長靴業界が儲かった。」そんなことは嘘である。笑いの種の蒔く喜び感を伴った語りであって政治家失格です。

 わたしというものもなければ、幸せというものもない。すべて自分のとらえるところと簡単に言う人がいます。苦悩する人においてはそれも救いの言葉にもなりましょうが、私のように何事に驚きをもつ感動屋にはどうもピンと来ない。

 生命への、生への畏敬の念をもてているから感動がある。感動の喪失が病の始まりであることは精神医学が語るところ。わたしは(主語)、そういうものを見て、聞き、そういうことに感動するのです。そして感動する述語面にもわたしがあることに気づきます。
ジャンル:
ウェブログ
コメント   この記事についてブログを書く
この記事をはてなブックマークに追加
« 生命への畏敬 | トップ | 心の目と意思決定 »
最近の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

コメント利用規約に同意の上コメント投稿を行ってください。

数字4桁を入力し、投稿ボタンを押してください。

あわせて読む

トラックバック

この記事のトラックバック  Ping-URL