思考の部屋

日々、思考の世界を追求して思うところを綴る小部屋

我を持つということ

2016年05月01日 | 哲学

 「ギリシャの哲学者が見たものは、近代人の言う物質ではない。さりとて精神でもない。謂わば、精神といいながら精神ではなく物質といえどそれが決して物質に似ない。それでしかもロゴス的な、つまり直接明白であることを失わないものである。古代には我というものはどこにもない。どちらかというと、近代人の考えはじめたこの我ということは人間の思想を不用に複雑にしたかもしれない。古代人の経験ということを考えれば、それはそういう我のない経験であろう。これが私の求めたものに似ているという感を抱かせたのは言うに及ぶまい。私はここでプラトンのティマイオスやアリストテレスのデ・アニマから「場処」の考えを得た。私の遍歴もこれで目的地に近づいたような気がした。むろんこれから先どんな運命が私を待っているかもしれないけれども。私がギリシャ人とともに見たものを私は「歴史的実在」と考えたのだ。もし何か時間を超えた永遠なる不変なものとギリシャ哲学の実在を見るなら、私の考えはむしろその逆だといった方がいい。歴史的実在はそういう静ではなく却って動である。謂わば、ギリシャ哲学の形相ではなく質料の方に向かって私は実体を求めたのだ。旧く純粋経験などと言って長い間ねらってこういうことになった。」

 1936年『中央公論』(第十号)に掲載された、西田幾多郎先生の「ある日の氏の談話の要を撮む」の中で語られた言葉です。

 「古代には我というものはどこにもない。」という言葉が私の今あるのなかでは、縄文の人々の心持を照らしてしまいます。自然とともに生きる、共生(ともいき)の縄文人の思想を作り上げてしまいます。

 1万年という世界に類のない長い時代。採集狩猟民族でありながら定住し大きな集団で生きることが出来ていた時代が考古学的に検証され世界的に注目されています。

 「我というものはどこにもない」とは私という自覚がないわけではなく、自意識を持つ人々が採集、狩猟を行い分配の中で生きていたのは事実でしょう。

 近代の我とは「我思うゆえに我あり」で、自意識の強化こそ科学文明の獲得の機縁のように思います。自意識との教化とは、「疑いの心」と密接に関係し、自然に溶け込む中においては受忍とともに穏やかな時の流れを感じます。一方疑いの心、懐疑の心は現象の原因の探求であり、ネイチャーという現実世界の「ある」ことへの解釈がはじまるということです。

 なぜそうなるのかという、懐疑。

 なぜ鉄は同よりも固いのか。

 水はどうして水なのか。

このようなことを頭の片隅において、一片の風景を見ます。

 地上は気温が14.2度。

 標高750mで6度。

 3000mの山頂では、-6.7度。

となります。100m上がるごとに0.8度気温が下がるからです。

 このような科学的知識を持ち一片の風景を見る。 

 「息づかい」「息吹」

 春の植物の息づかいを、雨上がりの自然を照らす陽の光の中で見ます。



 



 





 

 緑の美しさに、光合成という科学知識を重ねると息吹が感じられる。春という季節の流れとともに、今の私は額田王(ぬかたのおおきみ)とは異なり「春山われは」と言いたい。


 真民さんの「十住毘波沙論」の中の

  疑えば、花開かず
  信心清浄なれば
  仏を見たてまつる

の詩を思い出します。

 文明開花もいいが、心の花が萎むようなことがあってはならないように思う。


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