思考の部屋

日々、思考の世界を追求して思うところを綴る小部屋

拝まない者も、おがまれている。

2009年05月31日 | 仏教

 小雨の天気、早朝庭先から畑と歩いて行くと漂う香りに気がつく。
 どくだみという薬草に山椒の香りです。

 山椒も薬草のですから薬草の香りが匂い立っている今朝ということになります。
 どくだみの小さな新芽。採って口に含み噛んでみます。独特な味と口で感じる香りです。

 メタボにも効能があるということですので、特に問題はありません。山椒はかんだ瞬間冷やっこを思い出しました。

 植物という私以外のものから味と香りを貰います。植物の持つ成分が人間の器官でこのように感じているわけですが、植物の味と香りを自分が持つ瞬間といものは、離れてあるものが、内にある、刹那に即一の世界だと思います。

 これは質感というクオリアでは説明のつかない超えたものクオリア+ワンではないだろうか。

 今朝のNHK教育「こころの時代」は、鶴見和子さんでした。病に倒れてから徐々に回復する中で、変化していく世界観の広がりをお話になっていました。

 番組の中では、健康な病人、健康な死のお話、窓辺に訪れる小鳥、身近に息づく植物の姿に、今の自分が重なり一体感の内にあることを体感したこと。

 「内発的発展論」という鶴見さんの論理も編成されて行く。鶴見さんは魂という言葉を使われていたので魂という言葉を使いますが、病の中で鶴見さんの魂がある姿に移行する。 

 発展という言葉は、私は善的な流れにのせているような感覚を受け、善・悪の分別、分節の思考で的(まと)を得ていないように思いますので、移行した魂による編成(松岡正剛さんならば編集となるだろうか)と、勝手に言い換えて「内発的編成論」を熱く語られていました。とても深みのあるすばらしい番組でした。

 さて、この番組も含めて私自身の最近の思考の推移の中で、同じような体験をしたので話したいと思います。

 5月6日にブックマークしているブログに「絶対者は自己を無化する」という題名がありました。

 すぐに立ち寄り読んでみますと、哲学者の竹村牧男先生、滝沢克己先生そして西田幾多郎先生のことが書かれていました。

 竹村先生の書籍の唯識と滝沢先生の「不可逆」とを含む内容で現前(自分の内外のあらわれとして)の観世音菩薩のことが、端的にまとめられていて感動しました。
 
 その時私の中にあらわれたのは、東井先生の次の言葉でした。

 拝まない者も、おがまれている。
 拝まないときも、おがまれている。

という東井義雄先生の言葉を思い出しました。

 阿弥陀様、観世音菩薩に手をあわせ拝む時、逆に私たちは拝まれている。

 もう何年も前になりますが、NHKこころの時代で亡東井義雄先生が出演され、この言葉を聞き感動したことがありました。
 
 
 このような言葉は、原始仏教典には出てきません。お釈迦様の思想というものは初期の経典の中には教説を中心として残されているけれども、大乗仏教のような抽象化による理解を深める哲学的要素が欠けていたようです。

 「おがまれているわたし」と言われても体感しないとなかなか理解できないものです。 なぜそうなのか、人は尽きるところそういうものなのです。人は仏になる要素、可能性をもっているのです。仏教ですから「神が似せて造られた」ということではありませんし、絶対者がそう言っているという預言者がいるわけでもなく、憑依した者、神憑りの指導者が言っているわけでもありません。

 ただただそういうもので、死に至るものが、生を受けるという自然界の理と同じです。

 科学は生命の神秘の探求をはかり、思想・哲学は「人はなぜこの世にあるのか」「人はどうあるべきか」などを探求し、考えのあるものは主張するに至りますます。

 お釈迦様は、生と死の狭間で思想と哲学をもたれた方だと思いますが、なかなか理解することは難しく容易ではありません。

 ということでいろいろな仏教解説書を読んでみることになるわけです。上記のブログから最近竹村牧男さんの「入門 哲学としての仏教 講談社現代新書」を購入しました。その本の「絶対者の自己否定ということ」の中で竹村先生は、

 華厳思想において興味深いことは、・・・・無限の関係性について明瞭に指摘するとともに、その成立の基盤に、「真如随縁、不守自性」(真如は縁に随って現象し、自性を守らない)ということがあることを指摘していることである。
 法蔵の「探玄記」のある一節(「十地品」第六現前地に十重唯識説を説くなかの、転真成事唯識の説明。107頁参照)には、「如来蔵は、自性を守らず、縁に随い、八識の王(心王)・数(心所)の相(相分)・見(見分)の種(種子)・現(現行)を顕現す」(如来蔵不守自性、随縁顕現、八識王数相見種現。大正新脩大蔵経35巻、347頁上)とある。如来蔵自性清浄心は、真如と異なるものではない。真如・法性は自己を主張せず、むしろ自らを否定することにおいて、縁起の諸法を成立せしめているというのである。空性は、絶えず自らを空化しているというのである。ここに、理事無礙法界から事事無礙法界への道がある。普遍的な本性は、空性であるがゆえに、自らを否定し尽くして、ただ無尽の関係性の現象世界だけが残る。そこでは、無数の個が関係しつつおのおのの個が主でありえ、かつ他に伴となって世界を構成している。その総体が、絶対者といえば絶対者であろう。
 この世界観は、あの西田幾多郎の説くところときわめて近いと思う。「真如不守自性、随縁作種種法」というこの考え方は、西田が、「絶対者は自ら自己を否定して、相対に翻る」(「場所的論理と宗教的世界観」)と説いていることに通じている。たとえば西田は、「かゝる絶対者の自己否定に於て、我々の自己の世界、人間の世界が成立するのである。かゝる絶対否定即肯定と云うことが、神の創造と云ふことである。故に私は仏教的に仏あって衆生あり、衆生あって仏あると云ふ。絶対に対する相対と云ふことは、上にも云った如く、単に不完全といふことではなくして、否定の意義を有ってゐなければならない。神と人間との関係は、人間の方から云へば、億劫相別、而須臾不離、尽日相対、而刹那不対、此理人々有之といふ大燈国師の語が両者の矛盾的自己同一的関係を云ひ表して居ると思ふ。否定即肯定の絶対矛盾的自己同一の世界は、どこまでも逆限定の世界、逆対応の世界でなければならない。神と人間との対立は、何処までも逆対応的であるのである」(場所的論理と宗教的世界観)「西田幾多郎全集」第10巻、324~325頁)などと説いている。さらに西田は、自己の根本がこのような仕方で無底であるが故に、絶対自由の個が成立するのだと説いている。その成立は、むしろ絶対者の自己を否定してまで人を人たらしめる愛にもとづくとも説くのである。

 ほとんどすべての引用ですが、このように書かれていました。

 このような文章はなかなか理解はできません。そこで、他の先生の解説本を参考に理解を深めることにします。そこで利用したのが小坂国継先生の「西田幾多郎の思想 講談社学術文庫」です。

 小坂先生は、この中で西田哲学の「逆対応」について、

 西田は、大燈国師の「億劫相別、而須臾不離、尽日相対、而刹那不対」『億劫(おつこう)相別れて而(し)かも須臾(しゆゆ)も離れず、尽日相対(じんじつそうたい)して而かも刹那も対せず。億劫年も離れていながら、しばしの間も離れず、また朝から晩まで一日中接していながら、刹那も接していない』という言葉がもっとも逆対応の理論を説明していると語っているが、それは、いわば絶対に神から離れているとき、逆に絶対に神に接しており、反対に絶対に神に接しているとき、逆に絶対に神から離れているという意味だと理解することができるだろう(P291)

と解説しています。さらに「逆対応」の三つの要素として

第一は、有限な自己(個体)の「こちら側から」の働きに対して、絶対的一者(絶対者)の「あちら側から」の働きが対応しているということである。・・・・

第二は、有限な自己の高揚や拡大や強化の働きと絶対側の働きとが対応(正対応)して居るのではなく、逆に有限な自己の側の死と否定と放棄の働きと絶対の側の働きとが対応(逆対応)しているということである。・・・・

第三は、有限な自己の自己否定の働きと、絶対的一者の働きが一体不二であるということである。こちら側の働きとあちら側の働きは同一であるということである。・・・・

と説明されているので、同じような言葉の言い回しで理解不可能状態なっているときの解決の助けになります。

 拝まない者も、おがまれている。
 拝まないときも、おがまれている。

西田哲学晩年の「逆対応」他に「平常底(びょうどうてい)」という思想もあります。平常心という佛教語に通じる宗教的立場を表示する概念だそうです。

       


 つい最近私の手元に「持経観音」様がこられました。購入したわけでもなく、ある建物に飾られていたもので、この建物が閉鎖されることになったところに私が訪れたという縁で手元に来たものです。

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2 コメント

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失礼いたします。 (tenjin95)
2009-06-01 05:11:36
> 管理人様

力作ですね。
力作でしたので、拝読したという一言を申し上げたくコメントいたしました。合掌
ありがとうございます。 (管理人)
2009-06-01 19:30:51
 以前にも同じようなことを学んだのですが、改めて今の自分の考えで書いてみました。本来はこの後の仏教とキリスト教に関して書きたいのですが文才がなくどうもいけません。しかし努力して表わしたいと思います。
 今後もよろしくお願いします。

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