NHKスペシャル「ヒューマン」の第1回についてはこれまでに、
NHKスペシャル ヒューマン なぜ人間になれたのか 1-(1)
http://blog.goo.ne.jp/sinanodaimon/e/054d68c416a72919413de4e8a12ab347
NHKスペシャル ヒューマン なぜ人間になれたのか 1-(2)
http://blog.goo.ne.jp/sinanodaimon/e/596969a784aad294954835ba119d0b1d
NHKスペシャル ヒューマン なぜ人間になれたのか 1-(3)
http://blog.goo.ne.jp/sinanodaimon/e/d96da17b0dc0dcd17c00a8ccdb458b87
で書いてきました。第1回目の最後として「コミュニケーションの欠如」と私的考察として「まなざし」について触れたいと思います。番組の最後の10分ほどのところで、
人間以外には全くできない・・・その貴さをぼくたちはどう守っていくのだろう?
(NHKスペシャル 「ヒューマン なぜ人間になれたのか 」から)
というプレゼンター藤原竜也さんナレーションでが語れました。そして次の内容が語られました。
「幼児の精神的な病気」戦後(第二次世界大戦)直ぐのアメリカで発表された報告。
(NHKスペシャル 「ヒューマン なぜ人間になれたのか 」から)
親のいない幼児を育てる施設である調査が行われた。91人の赤ちゃんを調べたところ
2歳になるまでに37%
実に3人に1人以上が命を落としていました。最も重要な栄養と衛生環境は満たされていた環境なのに、他に欠けているものがあるのではないかということです。調査すると結果見えてきたのは、「コミュニケーションの欠如」だった、とのこと。
プレゼンター藤原竜也さんナレーションは次のように語り続けます。
(NHKスペシャル 「ヒューマン なぜ人間になれたのか 」から)
【ナレーション】
幼児に対する話し掛けは、ほとんど行われず子どもは独りぼっちだったのだ。
こころを分かち合う交流がなければ人は生きていけないことなのだろうか?
ぼくたちが持って生まれる力は、ぼくたちを助けてくれる一方で、厄介なことも引き起こすのだ。
分かち合う心が断たれ病に陥るのは子どもたちだけではない。
<そして>
年間およそ8000件の相談があるという「東京都児童相談センター電話相談室」の電話相談の様子が放送されました。
【ナレーション】
独りぼっちにされると悩んでしまうのが人間。けれど電話の向こうの見ず知らずの人を助けてやれるのも人間だ!
<というナレーションの声の向こうに聞こえるのが、>
「お母さん電話をくださいましたよねえ~、独りでずっと悩んでいたのねえ」
<とやさしく話しかける担当者の声。
いったい電話の向こうにはどんな問題が発生しているのだろうか?
そこには間違いなく分かち合う心の現代的な問題点が見い出されるのではないでしょうか。>
【ナレーション】
一人一人がそれぞれに生きているかのように見えて、実はその奥底にいまも「分かち合いたい」というこころを携え日々の暮らしを生きています。
人間とは協力する生き物であり、そして新たな協力の形を模索する生き物なのだ。
こうして「ヒューマン」の第1回目は終了しました。
コミュニケーションを初めからとろうとしない親もあれば、子どもと取れないと悩む親御さんもいます。
個人的に思うところ、「まなざしを向ける心」に何かあるように思います。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「シカトする」という言葉がります。「シカト」は花札賭博を語源とすることばで、相手を無視することです。学校でもイジメのひとつにもなっています。上記の番組内の「コミュニケーションの欠如」には大変驚かされました。コミュニケーションには相手を思いやる眼差しがあり相手を無視しないことが大切です。
ユダヤ人心理学者フランクルの『夜と霧』『死と愛』の翻訳で有名な臨床心理学者の霜山徳爾先生の著書『人間と限界』(岩波新書)に次のようにイギリスのボイコットという言葉を解説した文章があります。
<引用『人間と限界』「第2章まなざしを向ける」から>
もっと一般的に、まなざしを拒まれた状況というものが、どんな心理的効果をもたらすか、をよく示すのは、ボイコットという憂き目である。それはいわゆる経済上、政治上のボイコットではなくて、かつてのイギリスのカレッジにおける学生同士の教育のひとつとしての意味である。
これはもっとも恐れられた措置であって、ある学生が、若い紳士としてふさわしくないふるまいをしたと認められた場合に行なわれた。皆が協定した結果、その学生には、そのような彼が存在すべきではなかったのだから、人為的に、彼に対するどんな形のまなざしも取り去られるのである。
それは人がボイコットされた人間に道を空けたり、あるいはわざと示威的に彼を避けたりすることではない。そのようなことをすれば、かえって彼の存在をあまりにも承認していることになる。人はただ彼を無視するのである。彼が話しかけた人は、眼を動かさないわけではないが、彼を見ずに、ただ全く無関心に、彼のかたわらにまなざしをむけるだけである。
また彼のまわりで、ことさら人は黙っているわけではない。反対に人々はいつものように話したり、笑ったり、冗談をいったりする。しかし彼とだけはしないのである。一言でいうならば、人は彼からまなざしの享受という喜びを徹底的に奪うのである。このような扱いを受けた体験者の語るところによれば、それはまさに窒息させるようであり、どの罰よりも苦痛と不安と屈辱感に充ちたものであったという。
<上記書p64~p65>
この霜山先生の『人間の限界』は詩句の引用が多く結論が見えないと批評する方もおられますは、わたしにとっては貴重な一冊になっています。「眼差し」の探求の中で発見したのですが、今朝のこの話の文頭に「シカト」というものが賭博に由来する言葉と書きました。日本語俗語辞典サイトではその理由を、
【シカト】
しかととはそっぽを向くことや無視することである。花札の絵柄で鹿がそっぽを向いているものがある。これが十月の札であることから、そういった態度を『鹿十(しかとう)』といった。
と解説されていました。
ボイコットという言葉は、商品など購買を集団で拒否することで、労働運動なので労働者が争議行為の中でもよく使う言葉です。
授業をボイコットする。そもそも生徒が授業を受けないのではなく、教員が教壇に立つことを拒否する言葉なのですが、「いわゆる経済上、政治上のボイコットではなく」とはいうものの、その言葉がなぜか「シカトする」に重なる不思議さに驚きました。
イギリスでは公然と行われた紳士教育とも言えそうです。どう見ても私には不作為による暴力行為としか思えません。
「それはまさに窒息させるようであり、どの罰よりも苦痛と不安と屈辱感に充ちたものであった」
される側を死に追いやるようなものです。「幼児の精神的な病気」という話しを目にし「シカト」を思い出しました。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
第1回放送の中では視覚野の損傷と扁桃体の脳内活動での微笑みの話がありました。視点を変えれば眼に関わる話です。第2回目の「グレートジャーニーの果てに」にも最後に視覚と言語に関わる脳活動の「島皮質(とうひしつ)」と「側坐核(そくざかく)」の関係の話が出てきます。見ること聞くことに関わる人間の特徴についての話です。
話しは番組からそれてしまいましたが、第2回目の「グレートジャーニーの果てに」も大変興味深い話がたくさんありました。