思考の部屋

日々、思考の世界を追求して思うところを綴る小部屋

「とじこもり」と不在の哲学

2016年11月26日 | ことば
 「とじこもり」という言葉が「とじこもる」が変化した言葉であることは異論のない話だと思うが、動詞の連用形で日本人は「閉じこもる状態にある子供たち」を表象するに違いない。

 動詞の連用形で「○○り」とすることで日本人は「職業」を表す。魚売り、薬売り、花売りなどがその例で「おまわりさん」となると警察官に「お」を付けているものの警察官という言葉よりは格が下がる表現である。

 戦乱の世、城にとじこもり死守する、となれば武士の職業として「とじこもり」が重なるかというとそうではなく、存亡に懸ける生きざまが見える。

 城というものがなければ、守るという行為がなければ、武士の存在は宙に浮いてしまう。「自分の部屋にとじこもり」だけだと膝を抱えながらただジッと壁によりかかる子供を想像してしまうかもしれなが「勉強している」となると事態は一変する。目的をもって何かをしている、金魚入りの桶を担いでならば、薬箱をもってならば、花かごをもってならばその目的から「り」付きの職業に変わる。

 「お巡りさん」は街を巡回する意味から親しみを込めて呼称するが、これが「おまわり」となると「御」を付けても心に荷物を持ち、背中にも荷物を背負う粗暴の輩をイメージする。

 「とじこもり」が現象の概念を表象できる言葉で留めおかれるならば、さほど違和感がないのですが、それが職業的な概念の表象までに拡大されると、この世になくてはならない、名詞化された言葉になってしまう。

 「あいつはとじこもりだから」

 戸をノックすれど「不在」を物語る存在の無。

 哲学者の中島義道先生が『不在の哲学』を語っているがこの「不在」という言葉の発想が個性的で大いに学びを受ける。

 一般に、不在という概念は「現在(presence,Anwesenheit)」という概念の対立概念として使用されているが、本書では「実在(reality,Realitat)」という概念と対立的に使用することにする。
と中島先生の「不在の哲学」は始まる(『不在の哲学』ちくま学芸文庫・p011)。

 実在の根底をなす禅的な無を思うが、不在は対立概念とすることから「無」で無いことがわかる。しかしこの不在という言葉は、誰がどのような思考視点を展開させ表現するかで意味深いものがある。

 「とじこもり」「居場所がない」

 私というものが何処にもない。

言葉というものは話し言葉から書き言葉に歴史的な歩みをしてきた。時代ごとに言葉は変化し、また新しく作られる。言葉で社会は作られるともいえ、年末恒例の今年一番流行った言葉が話題に上る時期になったが、まさに作られるのである。

 共認社会という言葉に、ともに認め合う、相手の痛みを共有できる社会を想う。

 「不在」という言葉が大いにかかわる話に思える。
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