思考の部屋

日々、思考の世界を追求して思うところを綴る小部屋

イエスマンとチョッカン

2014年03月28日 | 思考探究

 どちらも「チョッカン」とよむ直観と直感という漢字の言葉があります。意味の違いに言及することなく「チョッカンに基づいて行動する」という文章に書くとするとどちらの漢字を使うかは、それぞれの「カン」によると思います。あくまでも個人的な意見で物書きの専門家でない限りそうではないかと思います。(ここではカタカナ表記がわかりやすいのでそのようにしました。)

それでも違いを知りたいと思い二冊の一般的辞書な国語辞典をひも解きます。

<岩波国語辞典>
ちょっかん
1【直観】推理によらず、直接的・瞬間的に、物事の本質をとらえること。
     (例)真理を直観する。直感的。
2【直感】理性を働かせるというよりも、感覚的に直ちにとらえること。
     (例)直感を働かす。ダメだと直感する。

<大修館書店明鏡国語辞典>
ちょっかん
【直観】推理などの論理的判断によらず、直ちに対象の本質を見抜くこと。
    (例)真理を直観する。
ちょっかん
【直感】推理や考察によらず、感覚によって物事の状況などを瞬時に感じ取ること。
    (例)危険を直感する。

以上の解説で岩波書店版は一つの「ちょっかん」を二つの漢字表記に分けており、大修館書店版は、別々に解説しています。

こう書かれていてもその違いはなかなか難しいものです。それでもとウィキペディアを見ると、

直観(ちょっかん、Intuition)とは、知識の持ち主が熟知している知の領域で持つ、推論など論理操作を差し挾まない直接的かつ即時的な認識の形式である。

また直観は、合理的かつ分析的な思考の結果に概念化された知識の実体が論理的に介在する(すなわち思考や、概念という仲介物が知識の持ち主と対象の間に論理的に置かれる)ようなすべての知識の形式、とは異なっている。・・・・・・

西洋哲学(philosophy)において、直観(Intuition)は直感と区別された用語である。一方で直感は、感覚的に物事を瞬時に感じとることであり、「勘で答える」のような日常会話での用語を指す。他方で、直観は五感的感覚も科学的推理も用いず直接に対象やその本質を捉える認識能力を指し、認識論上の用語として用いられる。第六感という表現は、ほぼ後者を指す。その混同は注意されることが一般的だが、特に(排中律)論理志向の強い研究者のなかにはこだわらない者もいる。

と書かれていて、後者の解説に第六感があることから、個人的に霊的要素も含むものが「直感」で、それ以外は「直観」でよいのではないかと今は思います。

さて次の文章があります。

 西田(幾多郎)は、「直接的な経験」を「直観」と呼び、「思慮弁別」を「反省」と呼び、「直観」と「反省」とが連続して起こる意識のあり方を「自覚」と名づけた(『日本人は何を考えてきたのか昭和編』NHK取材班編著P159から)。

NHK好きですので、次にNHK番組続きでコロンビア大学教授のアイエンガー教授『選択の科学』白熱教室第5回・「幸福になるための技術」から、この講義でアイエンガー教授が明らかにした「幸せになるための選択」の5項目を紹介します。

1 数値化できることに惑わされないこと。
  それには直感が上げる声を聞き逃さないこと。特に障害を避けることに対して直感の信頼性は高い。

2 時として私たちは欲しいものが解らなくなってしまう。
  眼の前の物に直感は弱いからです。
  将来のことを考えられるのは理性だけ。
  直感と理性のバランスが重要。

3 幸せを求めると兎角物やお金に目標が向かいがち、その幸せの中身をもう一度考えてみること。
  物やお金は手段であっても、本当の目標ではありません。幸せをもたらす本当に価値があることにお金は関係がないことが多いのです。

4 直感はいつも誘惑に負けやすい。
  理性によって計算して振る舞っているかに見えていても、その時の直感にそそのかされ間違った選択に導かれてしまいます。
  直感が下そうとする選択には、明日のことは考慮されていないからです。

<以上>
参考
コロンビア白熱教室第5回・「幸福になるための技術」(1)[2011年12月26日]
http://blog.goo.ne.jp/sinanodaimon/e/3e845a740d4dea31bf1d89b810d9ab18

ここでは、選択は直感と理性のバランスが大切であることが語られました。

行為的直観は西田先生の語るところですが、行為的直感ではなく、行為的直観です。

そこには霊的な直感は含まれない次元の「ちょっかん」と解して。

「直接的な経験」を「直観」

が真に理解しやすくなります(あくまでも個人的な話し)。

こんなことを頭の片隅に置いていて、娘が就職のために帰宅し持参していた映画DVに2008年にアメリカで製作されたジム・キャリーのコメディ映画を発見、「もしも、すべてに“YES”と答えたら?」・・・・実に面白い。

 実存的虚無感からか、まったくやる気のない主人公、その主人公が友人の薦めで「なんでもYES教」とでも呼ぶ集団の教えを信じて、その教えのままにYESの実践をしていく話し。

 このストーリーには、選択も自覚もありません。ひたすらYESを実践していきます。

 非を対極に置かない、自由選択なしの「是」のみ、したがって「そのまま」よりもさらなる選択場面での肯定のみの選択で・・・「選択」というチョイスがなく・・・表現が難しいのですが・・・とにかく「YES]の実践です。

 この映画のYESを実践した人のブログがありました、一回でやめたようですが映画のようなポジティブな道は開けないようです。

 まぁそうでしょう。あくまでも作られた話なのですから。

 ハッピーエンドの物語を逆回し。その物語の筋道をさかのぼり、そこにYESの分岐点を置き、物語はそのように作られる。実際の物語作りはそうではなく、順を追って作られたかもしれませんが、物語はさかのぼりが可能です。

 今ある私は、是非無き「是」の連続であったことを教えてくれる。

 「あの時に違う選択をしていたら」

は、後の祭り。

 人生の道のりにおける「是」の判断が(無意識的なこともありましょうが)難しい。

 そこに人生哲学が語られます。可能性の選択の次元や生得的なものいよる傾向と解釈する次元など異なる次元の語りがあります。

 V・E・フランクルの次元的存在論を過去ブログに書きましたが、人をどのように映し出すか・・・人間存在を責任存在に向かって分析する実存分析もその一つ。

「チョッカン」からはじまった話。結論的なものがあるわけではありません。

 私はいったいその時何を思って進んできたのか。

 是非の判断が、是の肯定に回る(姿を変える)。

 その時とはその事。

 直ちに、瞬時に

そこに「直観・直感」がある。


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