思考の部屋

日々、思考の世界を追求して思うところを綴る小部屋

赤心・黒心

2016年09月18日 | ことば

 腹黒い人間は好きになれない、とひと癖もふた癖もある人間は敬遠されます。このような表現の中で使われる「黒」ということば、道教の陰陽の白黒に重なるようにおもわれますが、古語の世界観においては邪心の無い清らかな心、「赤心」と表現され、対極の表現は日本書紀のスサノウが姉のアマテラスの前で行った誓約の言葉「誓約之間、生女為黒心。生男為赤心」に示されるように「黒心」と表現されていました。

 邪馬台国の卑弥呼は道教に精通していたという話もありますが、縄文の漆の朱の変化色を見ると赤黒の彩度変化に巧みなる実用品の中に二色があったように思われ、日常語の事態の表現として赤と黒が出現すると考えられます。

 このような思考過程を見ると実用という功利的な面と美的な評価面さらに質的な面が織りなしているように見えます。

 私のブログは「思考の部屋」と称していますが、思考の類語に「思惟」という言葉があります。

 サイト辞書では、

し・い【思惟】[名]
1 考えること。思考
2 哲学で、感覚・知覚と異なる知的精神作用。

などと解説される言葉です。西田幾多郎著『善の研究』をお読みになった方は第一編第二章「思惟」を思い出す人もあるかと思います。

 倫理学者の竹内整一先生も編者になっている「『善の研究』の用語索引本」(宝積比較宗教文化研究所)でこの言葉を引くと、思惟という言葉の単独使用とともに

思惟と純粋経験
思惟と想像
思惟、想像、意志
思惟と経験

等の言葉を含んだ使われ方を見るととんでもない数になります。個人的にある意味、この『善の研究』は思惟の哲学ではないかと思っています。

 『善の研究』の第一編第二章の思惟の文頭部分を紹介します。

 思惟というのは心理学から見れば、表象間の関係を定めこれを統一する作用です。そのもっとも単一なる形は判断であって、すなわち二つの表象の関係を定め、これを結合するもである。しかし我々は判断において二つの独立なる表象を結合するのではなく、かえって或る一つの全き表象を分析するのである。例えば「馬が走る」という判断は、「走る馬」という一表象を分析して生ずるのである。それで、判断の背後にはいつでも純粋経験の事実がある。(『善の研究』岩波文庫新版藤田正勝解説編・p28ー)

 このような哲学を経験知識の思考根底に刻むと「赤・黒」という判断が純粋経験という言葉とともに別な解釈世界を展開し始めます。

 「和・荒」「赤・黒」という言葉が現象・事態を全き表象の分析で判断され意が示されているとも言えます。善悪(ぜんあく)という独立の二極で現象・事態を分析しているのではないということです。

 かのサンデル教授をはじめとした現代倫理学に絶大な影響を与えた哲学者フィリッパ・フット『徳倫理学入門 人間にとって善とは何か』(筑摩書房2014.4.10)の第一章の「悪は欠陥なのか」の文頭部分に、

 私は道徳的な悪(moral evil)「ある種の自然的な欠陥」であると論じようと思う。

と、この著が道徳哲学の再出発であると宣言している。そして議論の中心は「生のあり方(life)」」という概念が中心ということで論が展開されています。

 
 道徳的な悪、そもそも自然には欠陥があるのだろうか。

 森羅万象は現象であって、完全、不完全は人間側の認識でしかない。多数がそれを善しとすれば対極に悪が現れる。幸福条件を列挙する思考体系が扶植されると、心に奴隷的拘束に不快を感じるような場が現れる。

 そもそも社会が個人の集合体という仮想存在が意識の統合体と確信するところに現代の幸福論は展開される。そこ現れた倫理・道徳はどのような意味を有するのか。

 奴隷的拘束からの解放は善的行動である。

 私はどういう場に在ってこのような考えに至り、行動しているのか。

 「毒された」という言葉があります。他のものに影響され、悪い方向に進むさまを表した言葉です。類語表現には、「感化された」「 悪い影響を受けた」「毒された」「悪に染まった」「道を誤った」があります。

 「悪に染まる」

 染まれば落ちない。

 外を見ると雨。善き者にも悪しき者にも降る雨。自然には差別がない。

ジャンル:
ウェブログ
コメント   この記事についてブログを書く
この記事をはてなブックマークに追加
« 風狂・耳根を壊らじ | トップ | やまと言葉の哲学 »
最近の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

コメント利用規約に同意の上コメント投稿を行ってください。

数字4桁を入力し、投稿ボタンを押してください。

あわせて読む

トラックバック

この記事のトラックバック  Ping-URL