思考の部屋

日々、思考の世界を追求して思うところを綴る小部屋

野生の思考と忌み嫌いの思想

2016年12月10日 | 思考探究
 何事かを忌み嫌うという行動思考が、人間存在の本質的な部分にあるのではないか、それは差別相という言葉で表現することができ、知るという最も基本的なものではないだろうかと思考をめぐらす。

 Eテレの100分de名著でレヴィ=ストロース『野生の思考』が中村新一先生の解説で始まったが、この野生と言うと語弊があるがある意味近代を離れた過去に置き忘れた思考のパターンでもあり、逆説的には今に残る差別社会の源基として連綿と息づいているように思う。

 レヴィ=ストロースは「構造」という言葉で現代社会に野生の思考を持ち込むことで社会のあるべき姿を構築しようと模索するが、変わり得ないものを意識により思考の転回を図ることで、意識の進化という考え方にも通じるところがあるように思う。

 論理的に物事を解釈しことを進める。AならばA、BならばB、非AならばB、非BならばAと明白な峻別が今を象る。しかし、世の中を見つめているとこのような論理的な推移で事は進まず個人的な理解を超えて納得するしか術がない場合もある。不可解極まりないことではあるがそのように落ちづかざるを得ない。

 過去ブログでも言及したところだが魏志倭人伝という歴史書には興味深い話が書かれている。職業といってよいのかそういう役目の人間が存在したという事実である。それは「持衰(じさい)」と呼ばれ人物で、この持衰という人物の役目は、倭人が魏という国に朝貢に行く際の船に同乗していく特殊な役目をする人物のことだ。

 岩波文庫の「魏志倭人伝」には次のように書かれています。

 「その行来、渡海、中国に詣でるには、恒に一人をして梳(くしけず)らず、?蝨(きしつ)を去らず、衣服垢汚、肉を食わず、婦人を近づけず、喪人の如くせしむ。これを名づけて持衰と為す。もしも行く者吉善なれば、共にその生口、財物を顧し、もし疾病あり、暴害に遭えば、便(すなわち)これを殺さんと欲す。その持衰謹ますといえばなり。」
 
 持衰という者のその様相すごさがわかるとともに古代人の思考の不思議さを思う。語弊と先に言ったが野生の姿も見える。
 頭髪はボサボサで体中シラミだらけ、当然衣服は垢で汚れたままであるというのである。
そしてその持衰は、肉は食べてはならず、女性との接触はご法度。こういう男性を船に乗せて行き、無事に目的(往復渡海)が達成できれば、この男性は最大級の恩給を受けられ、そうでないと殺された、というのである。
 
 この持衰の衣服の汚れ髪の乱れにシラミなどがある状態は、神に対する冒とくで天罰が下る行為だと直ぐに考えてしまいますが、この倭人の時代はそうではないようです。
 
 女性を避けたり、肉を食わないなどの不作為は、後の時代の神に接する人々の姿似ていますが、修験者の修行による汚れとは違い、そのままの汚(きたな)き汚(よご)れの状態で乗船し、それが神の災いを受けず安全に船旅をするための一つの条件になっていることは不思議なことです。
 持衰は長命で、百歳や九十、八十歳の者もいたようです。

 尊さと穢(けが)れ、一方では和(わぎ)という穏やかさを想像し、一方では穢れという荒(あれ)をもたせながら、顕現の今ある現象というものは常にこの天秤のうちにあるということだ。

 一艘の渡航船に和と荒れというものの同居がある。まっとうな船の運航はそれにより叶えられる。今流に言えば船の安全性というが、現代人の思考では不合理なあり方によってその安全性は保たれる、と古代人は考えたのである。

 忌み嫌いたくなるような容貌の持衰だが、「女性を避けたり、肉を食わない」などの不作為には、何か聖なるものを同居させ、その持衰の意味を深める。俗世間の汚らわしさと聖域とがその一人にあるように見える。

 修験の道に邁進する者のようにある姿にも通じているのだろうか。

 まっとうに生きようとするには汚らわしさ、忌み嫌いの思想が不可欠であると考えたくなる。古代のならわしの中に、現代の人の動静の中にその思想は薫習している。

 都議会の知事と自民党議員との質疑を見ていると忌み嫌い思想の姿見である。

 黒い太ったネズミは汚らわしさを意味し、その意味するところが解るから、具体的を知悉したくてつい質問する。抽象的な表現で述べるところにその意味があるのであって、語る方も語る方だが、質問する方も質問する方で、最も卑しき差別相が現れている。

 レヴィ=ストロースの野生の思考を構造に持ち込もうとするが、ある意味において野生の思考とは消失してはいない。マイノリティという言葉がクローズアップされるのは忌み嫌いの思想が消え去らないことを意味している。

 古代においては、逆説的な事柄がある理想的な事柄の成熟につながっていたように思える。まことに論理的には解せない不合理な話である。

 「聖と俗」という民族的な視点からのアプローチでもあるが、単純なる思考における意識の転回でもあり認識の転回と自覚でもあるようにも思える。

 私は何を認識し何を模(かたど)ろうとしているのか。

 忌み嫌いの思想という呼称もある意味、何事かへ成熟しようという思想にも見えてくる。

 「いじめ」という問題を社会構造の問題として見るのもよかろうが、単純なる思考認識にも思える。論理的な話に排中律を常態化の中で認識できるかという話でもあり、合理的な思考の中では無理があるという話でもある。

 信仰者は問うであろう。「聖なるものとは?」
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