壁の隙間、塀の隙間から外を見たとき外側を通るものは、アッという間に通りずぎて行きます。こういう事を古語の世界では「暇行く駒・隙行く駒(ひまゆくこま)」と言い、「月日がまたたく間に過ぎていくこと」事の例えとして使われます。
「ひま」という言葉、国語辞典では、
ひま【暇】[名]〔連続した動作の間にできる(余裕のある)時間の意〕
1ある物事ににふりむけることのできる時間。また、あることをするのに必要な時間。
2[形動]仕事などにしばられない時間。自由に使える時間。また、あることをするのに必要な時間。また、そのような時間をもつこと。
3〔やや古い言い方で〕休暇。休み。
4〔やや古い言い方で〕夫婦・主従などの関係を断つこと。
<大修館書店『明鏡』携帯版から>
この「ひま」を古語辞典で調べてみると、
ひま【隙・暇】《ヒは物の割れ目。マは間。空間的なせまい割れ目、すきまを指すのが原義。転じて、時間的・心理的な割れ目にもいう。類義語イトマよりも意味がひろい。》
1物と物との割れ目。孔。すきま。
2言と事とのすきま。物事の起らないあいだ。絶え間。
3人と人との心のすきま。通じあわない所。
4乗ずべきすき。機会。
5別の事にふりむけられるべき時間。
6休暇。免職。離縁などにいう。
7時間が空いていること。
<岩波書店『古語辞典』から>
現代語の「ひま」は「暇」のみが掲載されていたので「隙間」の「隙(すき)」は別に解説されています。
古くは「ひま」という発音には両意味が重なっていて、時代とともに個別化されたと素人見解ですが、そのように思います。
暇行く駒・隙行く駒の両方の書き方があって「月日がまたたく間に過ぎていくこと」という意味を表わす、ことに現代人の私は不思議な感覚を受けます。
時間経過が頭の中で逆転するということです。
一方では早く、もう一方ではゆっくりと、そんな感覚が同居しているわけです。
「ヒは物の割れ目。マは間。空間的なせまい割れ目、すきまを指すのが原義。転じて、時間的・心理的な割れ目にもいう。類義語イトマよりも意味がひろい。」
という解説に哲学をしたくなります。
「時間的・心理的な割れ目」とは何ぞや。
なんでこんな「ひま」を取り上げることになったかというと、「ヒマな動物=人間 」という題のブログが掲出されていて、興味から読んでみると、なるほどなのです。
道に見たことの生る動物が死んでいて、「悲しく思った。」と友達に話すと「それは人間がひまな動物だからで、それこそ人間の取り柄、心に余裕(ヒマ)がある生物」と応えた、という旨の話で、実におもしろい話です。
心に余裕のない忙しさの真中にいれば感傷に慕ってもいられない。
悲しむ、愁い、悲哀、哀感、哀愁、哀傷、傷心、憂愁、春愁、旅愁、郷愁・・・と悲嘆の言葉は数多くあります。
発音すれば単なる二語「ひま」ですが、聞く側、話す側それぞれに時々があります。そのとき何を思い、何を聞くのか。
こう考えて、ブックマークブログを読んでいると荘子の斉物論の「天籟(てんらい)」という言葉を観ました。
私たちは大陸から東、東へと来たことをことを感じました。
「地籟は地上の穴が和して発する音楽、人籟は人が楽器でかなでる音楽。ならば天籟はどういうものなのか」
「天籟の楽器は地上、天空を含め、鳴るものはさまざまだが、それぞれの力ではない。それぞれがそれぞれに鳴り響く。問題はそれを指揮して美しい音曲に纏めるのは誰かということだ」
実に深い問いです。