物質文明に支配されるということはこういうことなのか、と言う程に染まりきっている。
紡ぐという言葉が今回聞かれたが、互いが共感し合い織りなす世界を紡ごうという意図での紡ぐなのだろが「らしさ」の発言に全ては解釈される。
メディアも物質機関を通され、語り部の解釈の正しさが強調され、聞く側の意味器官も意味機関になり、オリジナルな理解力は失われて行くように思える。
行間はあくまでも語り部の解釈なのだが、その他多数人の同調が既にそこにあるように行間を読み解く。
それは「らしさ」の言動に解説され、何を語ろうが払拭できない。
そのように語る者に造られる人造人間、これは語る物(ぶつ)でそのようなものになってしまう双方の物(ぶつ)的な思考に問題があるように思える。
安全だと言われれば徹底して安全だと思い疑いを持たず、侵略と言われれば侵略を徹底しないと気が済まない。
何から何までが機械的な生産物に、それこそ紡がれる。
時々のオリジナルにはなれない時代だともいえそうです。時々の変容は自然の織り成す世界です。夏らしさの暑さにも、熱さの変容があり同一などはありえないと思うのだが、自己同一性、夏同一性、戦争同一性・・・全てが同一性に彩られる。
矛盾の連鎖が時々を紡ぐのが、あるがままの実相ではないだろうか。
万葉学者の中西進先生は、
私はそもそも、近代ヨーロッパと日本を比較して、近代ヨーロッパは「もの」で分類するのに対して、日本は「働き」分類である、と思う。(『日本人とは何か』講談社・p233)
ということを上記書の
「アイデンティティの確立」は本当に必要か
という章の中で語っているが、この「もの」を私はいつも「物(ぶつ)」に置き換えて理解している。「働き」分類については「やまと言葉」についてブログに書いているのでこれ以上に言及しませんが、日本語で語る時は「もの」にしか聞こえない言葉ですが、品物の物であることもあればそういう物事の現れとしての「もの」であるときもある。
あくまでも上記の分類においては「物(ぶつ)」であるべきものと思っています。西田幾多郎先生は逆に「物となって考え、物となって行う」と漢字の「物」を使いますが、これは「もの」の平仮名かカタ仮名の方がその思想がよく理解できます。
物(ぶつ)的世界観が蔓延る物質文明においては「あいまいさ」は許されません。
これからの世の中は徹底した物質的な世界観で彩られ、人々の思考も物(ぶつ)的な世界観に彩られるのだと思う。それは分別の怖さであもあり、線引きの怖さでもあります。
国境はないことを強調する市井の人々ほど・・・いつの間にか「らしさ」の強調者になっている。
私たちの仲間に居ない限り”正義 ”は保たれない。
と、人々はそう叫ぶ・・・。
「愛」のない言葉は、人々の心に響かない。
と言われますが、日本語の「あい」は、悲しみをともなうものらしい。今回引用した中西進先生の著書からさらに引用します。
ところで、『万葉集』では愛は悲しいと詠んでいるのはほとんどが関東地方の農民で、都では大伴家持しかいない。もともと「かなし」が東国の言葉だったのを、大伴家持が歌にとり込んで好んで使ったのだろう。当時の都では、すでに、そういう感覚がすたれ、辺地にだけ残っていたのだ。
しかし、それが本来の愛である。
どうして、愛は悲しいというのが本来のものか。
恋をするとは、求めることである。しかし、いくら求めてもすべて求められたという実感はない。求められないから悲哀を感じる。
ところが現代人は、恋をするとすぐ簡単に一緒になる。・・・・・
(上記書p96)
即物的という言葉がありますが、何か通じるところがあります。出会いという「もの」をどうしても「赤い糸」という物(ぶつ)にしてしまいます。スピチュアル強調はこの赤い糸で彩られます。
阿部さんはやはり、阿部さんに彩られます。
反省の語りいは、「過去の私は今の私ではない。」という背景があってのものですが、反省を強いる者が最も「らしさ」を強調する。それがいかに反省の内にないことだというこに気づけないでいる。
”正義 ”は、時には悲しいものです。