6月のこの季節に決まって出かける場所があります。安曇野市の西部に位置する室山地区にある池で、睡蓮(スイレン)がその可憐な姿を見せています。
睡蓮は仏像の台座にも使われ美しさとともに何か神聖さを感じさせる感覚を引き出してくれます。過去の記憶をたどってもこの睡蓮の花が美しいものだと教えられたわけではなく、最初に見たときから美しいものだと感じていたように思える。
よほどの変わり者で無いかぎり、この花は美しいと感じるに違いありません。善悪で二分するならば徹底して善に入る出来事です。
この善は昔に生きた人も、いまを生きる人にとっても変わらない善に違いなく、善(ぜん)の心、善(よし)の心は、殺戮の凶悪な世界とは別物です。
なぜ人間はこの善の心を持続できないのか。
悪があるから善が引き立つ、生があればあれば死があるという縁起の解釈で事を進めようとしても、人間だからといったところで世の悪を見ると無意味さだけが残ります。
あまりにも無駄なことがある。
有用性だけがこの世を占めることはないと知っていても、無意味さの現れるその意味が解りません。
時間と空間
清貧に見えた舛添さんも無意味な世界に堕ち、悪者のイメージが覆いつくします。
この舛添さんもこの睡蓮は見たときには、美しいと思うに違いなく、何があなたをそうさせたのでしょう。公金の私的流用の根底にあるもの、そうすることを欲した意識。
欲心がその美しさを阻害し、堕落した。人間は生き人間は堕ちる。
欲とはかくも悪世界に人間を導くものです。
仏像の台座の話をはじめに書きましたが、「建立(こんりゅう)」という言葉を目にすると仏像の建立を思い出します。何かを作り上げるときに使う言葉です。
この言葉をわたし自身を視点にして他者を「あなた方」と言わしめる「私」を意識する時にそこにある私が作り出されたという意味で建立という言葉を使うとどうなるか。
・・・・普通に私と称しているのは客観的に世の中の実在しているものではなくして、ただ意識の連続して行くものに便宜上私という名を与えたのであります。何が故に平地に風波を起こして、余計な私というものを建立(こんりゅう)するのが便宜かと申すと、「私」と一たび建立するとその裏には、「あなた方」と、私以外のものも建立するわけになりますから、物我の区別がこれでつきます。・・・・
私があるということは建立されたものである私がそこにいるということで、建立という言葉が使われていると何か違った感覚を受けます。
上記の文章は夏目漱石先生の『文藝の哲学的基礎』という芸大の学生に対する講義に出てくる話で、この時代の人々は「建立」という言葉をこのように使うことがあったわけです。
しかし現代では会話の中で、「私がある」ことに関係して「建立」などと言う言葉を使うことはなく、誤った言葉の使い方のように思ってしまいます。漱石先生の生きていた時代には、自分を建て興すことについて、私が成ることに対する強い意志が感じられます。
まじめな人の生き方から逸脱していた自分を軌道修正する時、やり直し、作り直し、建て直し。
建物を作るように、石碑を建てるようん、仏像を作るように・・・確たる造形に美、形の形成がそこに見られます。
「建立」がこのような意味に共有できた時代。人間の表現の推移という視点よりも、失われていった何ものかがあるように思えます。
舛添さんのあまりにもみじめな姿
形になりそこなった堕落
私を打ち建てるとは、世間に生きているということであり、そこには、
美しさのイメージ、美しさの表象、美しさの現れ・・・善の現れがなければならない。
止まらない意識の連続の中で、いかに善しを持ち続けるか。
睡蓮は枯れるまでその美を持ちつづけます。「美」も「よし」と訓読できるわけで、睡蓮の形あることに、日本語の「よし」を考えさせられます。