思考の部屋

日々、思考の世界を追求して思うところを綴る小部屋

肉は存在のエレメント

2014年12月16日 | 哲学

 衆議院議員総選挙が議席数の構図が見えてきて、世間から聞こえてくるのは実存的虚無感(ニヒリズム)からのうめき声のように思える。

 結果の現れは誰が望んだのであろうか。

 結果が現われた「ある」に対して、主体とは「ある」からの分離としか生じ得ないものであると思わざるを得ない。

 「ある」ことに対し、大いなる危険性を語り、悪への道が開かれ、可能性を語ることによって虚無の扉は開かれる。

フランスの哲学者、メルロ=ポンティの言葉を思い出す。

<『見えるものと見えないもの』から>

 肉は物質ではないし、精神でもなく、実体でもない。それを名づけるためには、水・空気・土・火について語るために使用されていた意味での、言いかえれば空間・時間的個体と観念との中間にある一般的な物、つまりは存在が一かけらでもある所にはどこにでも存在の或るスタイルを導入する一種の受肉した原理という意味での「エレメント」という古い用語が必要になろう。

 肉は、その意味では、(存在)の「エレメント」なのだ。肉は、事実ないし事実の総和ではないが、それでも場所と今とに結びついている。そればかりか、肉は、どこといつの開始、事実の可能性と要請であり、要するに事実性であって、そのことが事実をして事実たらしめているのである。
<以上『見えるものと見えないもの』(滝浦静雄、木田元訳 みすず書房)p194>

「意識の地平とは、身体の地平にほかならない」というメルロ=ポンティの思想を如実に語っている言葉です。

 「物質的生命」なくしてどんな実存者も存在しえない。

 まさに実存するということは、革袋でおおわれた人間そのものなのである。

 「結果」は常に悪にしか見えない。

 メルロ=ポンティを引用しながら同じフランスの哲学者レヴィナスの『実存から実存者へ』(西谷修訳・ちくま学芸文庫)の「実存者」という言葉を使ったのですが、メルロ=ポンティもレヴィナスも現象学で人を見つめる目は、個人的に、西田幾多郎先生や西谷啓治先生の哲学するめによく似ているように思う。

 上記の訳者の西谷修先生のレヴィナスの『実存から実存者へ』の訳者あとがきに、

 「存在する」といういう意識は、「実存がある」つまりは「生命がある(生きている)」という事実と別ものではない(上記書p249)。

と書いていますが、実にそう思います。

 実存的虚無感は、不純さの嘆きのようです。他者の顔が鬼面のように見え、悉く行いは可能性の危険に満ち満ちてくる。

 「不純さ」は、ラジカルナな唯物論に避けがたく付きまとう不純さなのである。それは、概念の整理の不足ではなく、生存の経験のもっとも基本的な次元から、欺瞞なく思考しようとするときに避けがたく生ずるものである。生きた意識が純粋でありえないように(意識は既に意識ではない無意識や身体と不可分に関係している)、「現在」から出発するほかはない(言いかえれば絶対の出発点のない)思考は「不純さ」を自覚的に引き受けて行かなければならない。・・・(上記西谷修訳者あとがきp250)

 ここで言う「絶対の出発点」とは何か。

 実存的虚無感の徹底、ニヒリズムの徹底ということになるのだと思う。
 
 ここで過去ブログでも引用した倫理学者の竹内整一先生の「おのじから」「みずから」の話しを紹介します。

<『「おのずから」と「みずから」』(春秋社)から>

・・・・・世阿弥の言い方をふまえていえば、この世界の「おのおの」の「みずから」が「みずから」の徹底した営みにおいて「おのずから」を発見・感得しえたときに、「みずから」のままに「成就」する、ということである。「おのずから」に突き抜け、ふれることにおいてこそ、「みずから」の存在、働きが結像・発現し、その価値なり意味なり荘厳なりが与えられてくる。「空即是色」とはまさにその謂いであり、「あはれ」「面白」の肯定は、その「空即是色」の「色」の色あいのことである(同書p226)。

自他一如とでもいいましょうか、

「おのずから」に突き抜け・・・

この言葉が何とも的中に思える。「絶対の出発点」に身を置いているそのことを物語っているのではないか。

「現在」をみる。嘆きの様相

肉は、その意味では、(存在)の「エレメント」なのだ。