
3月25日、神戸朝日ホールで開催された歴史シンポジウム『清盛・縦横無尽』に行ってきました。
主催が神戸市文書館で、4名いる報告者に元木泰雄さんの名前が入っていたので、これは行きたいぞ!と。
前の高橋昌明さんと関幸彦さんの講演会(平清盛と源頼朝)は抽選で外れてしまったので。
元木さんが1「政治史から見た清盛」
ということで、基調報告、清盛の政治史における全体像を提示し、その後に
2 「仏教文化から見た清盛」(上川通夫)
3 「日宋貿易から見た清盛」(山内晋次)
4 「文学史から見た清盛」(樋口大祐)
ということで関連報告がなされました。
ちなみに樋口さんは『変貌する清盛』、『乱世のエクリチュール』(←私は読むの挫折した)の著者です。
結果から言うとかなり面白かったです。
どちらかというと専門的な話が主でしたが、政治史や人物評などはある程度知っているため、寧ろ突っ込んだニッチな話の方が聴き応えがありました。
隣に座っていたおばさまと少し話しをしたのですが、これは全く意見一致でした…
そもそも往復はがきで応募して、ああいう処にまで来て話を聞きたいという人はある程度知識があるとか元々興味がある人だと思うんですよね。
そういう人たちに一般的な話をしても、なあ、という感じなので。
4の樋口さんの報告は大体『変貌する清盛』と被っていたのですが、2と3は知らない事と面白い事の連続で食い入るように聞いてしまいました。
恐らく、他の聞きに来られた方々も同じだったと思います。
1 「政治史から見た清盛」
大河ドラマにご不満が大きいようで、会場が何度かそのネタで爆笑に包まれました。笑。
仕方ない。それは仕方ない。
長年地道に研究を重ねて来た方からすると、たった45分でそれまでの積み重ねが全部吹っ飛ぶ(=ドラマが史実と思われる)ことが現実にありえるためですが、あれは歴史じゃないと思っても確かに酷い所は多いとは思います(私はトレンディ大河ドラマだと思って見てます…普通のドラマだと思うとまあ面白い)。
それはいいのですが、ひとつそうなの?と思った話があった。
後白河院、鳥羽院、崇徳院の親子関係で、叔父子という話は何度か書いてきましたが、あれ、現在研究史では否定されているとのことでした。
話の前提が覆りました(笑)
確かにこの事が書かれているのは古事談だったか十訓抄だったかで、当時の日記類ではなかった気がする。
崇徳院は白河院の子供ではない、というのが現行の研究の主流のようです。
本当に崇徳院が疎んじられていたのなら、実力者平忠盛の妻宗子が崇徳の皇子の乳母になんてならない。他に理由がある、云々…
このことに関しては、考証が色々とありそうですが、今それらを探してまで知りたいと思わないのでこの話はここでやめ^^;
興味がある方は調べてみて下さい。私も気が向いたら調べます。気にはなる。
信じてた事が違うと言われた時の驚き…^^A
2 「仏教文化から見た清盛」
報告者の上川さんは日本中世の仏教を研究されている方だそうで。
●社会に取り込まれた仏教
仏教が社会全体に取り込まれたのが12世紀、清盛の頃だそうです。
日本に入って来たのが…6世紀?パッと浮かぶのは物部守屋と蘇我稲目の争いですが…
随分と緩やかな時間をかけて社会に浸透していったのだな、と。
先日サイトに上げた『平安ライフ』の食事編でも、平安中期、庶民が好きなものを食べている一方で貴族は先例や仏教的思想に縛られて…、という話を書きましたのでなるほどと思いました(清盛の時代は平安末期)。
●日本の仏教
インドの思想を中国語(漢文)で記したものを日本で読み、解釈する。東アジア的な広がりがあるという事を話されていたような…(曖昧)
へーと思ったのは、12世紀の日本仏教は中国の仏教を超えて世界一の仏教を目指そうとしていたのだ、ということを話しておられました。
勿論、事実としてはなかったけれど(そして恐らく無理だっただろうけれど)、そういう事が考えられた事実はある、と。
ちなみに平家物語の冒頭「祇園精舎の鐘の声」、この祇園精舎が現地インドでは既に滅び去っていたことを、平家物語成立当時の日本人は知っていたそうです。
●転法輪法
この話が一番面白かったです。恐らく聞いていた人の多くが一番面白みを感じた所だと思う。
当時の仏教というのは大別してふたつの役割がありました。
1)学問、思想、信仰 2)政治
「転法輪法」というのは祈りの名称、人を呪い殺す修法のことだそうで、2)の政治と密接に関係していた。
修法というのはまじないというか…呪術に近いもので、目的は息災、増益、降伏(調伏)、敬愛の4つ。
この中で一番政治色が強いのが降伏で、12世紀によく行われていたそうです。
要するに転法輪法はこの降伏の法だということ。

上の平面図がその転法輪法を行う部屋。
夜中から朝方にかけて真っ暗にした密室の中、大輪明王曼荼羅を掲げた前に三角の爐で護摩を焚き、阿闍梨ら数人の密教僧が印を結びながら呪文を唱える。連夜。
そこで白檀を初めとする数種類の舶来の香木を焚くそうで、噎せ返るようなにおいがしたんじゃないかなあ。
異様な雰囲気です…
大輪明王と爐の間に高さ25センチほどの円筒を置くそうで、これが一番大事らしい。
写真右下の筒、これが実物の写真で、周りに絵が描いてありますがこれが呪詛神。
この中にある絵が描かれた紙か絹が納められている。
その説明が筒写真の左側の漢文。
=「依頼主の等身大の絵を書き、その足元に呪い殺したい人間の姓名を書く事」
漢文の左に足の絵がありますが、これがそれ。
足の下に説明があるけど、これは「院の姿です」という説明が書かれている。
で、この転法輪法を行った人の名前も分かっていて…
それを調べると院は後白河院、いつ行われたかというと鹿ヶ谷事件のころ。
あの上に足に踏まれていた名前は恐らく平清盛だろうと。
呪われていたのは恐らく平清盛だろうと。
………………うわあ……………
あるだろうな、こういうの絶対にあるだろうな、とは思っていても、目の当たりにするとぞっとする。
で、この転法輪法を行った阿闍梨は誰を呪うのか事前には知らされておらず、修法の初日に院に耳打ちされた、という事まで記録に残っていそうです。
上川さん曰く、密教=秘密仏教であるがゆえに中々表に出てこない部類の史料。
今回のお話は最近分かってきた話だということでした。
3 「日宋貿易から見た清盛」
報告者の山内さんは奈良〜鎌倉時代の国際研究史が専門、中でも日宋貿易。
日宋貿易の専門家は日本では3・4人しかいない、もの凄くニッチな分野だそうです。
そういう事もあってか、平氏の日宋貿易に疑問を呈しても中々耳を傾けてもらえないと嘆いておられました^^;
全体を通して言うと、「もっと大枠から、冷静に事実を見よう」、という話でした。笑
日宋貿易に関しては私も疑問に思っていた事があったので、すごく興味があった。
簡単に言ってしまうと、平氏の日宋貿易は現在喧伝されるほどの規模では行われておらず、
「神戸=当時から国際貿易港?」言いすぎ!という感じ。
そのひとつの根拠として博多にあった貿易の中心地、チャイナタウン(当時の呼び名は唐坊)の存在を上げておられました。
今の所神戸にはそうした場所の痕跡はない。
神戸でも陶磁器などが出て来ていますが、スライドで見た博多の発掘物群を見ると、これはもう圧倒的な差がありますねえ…
宋との貿易の中心地はそれまでと変わらず博多だったと考える方が自然だと。
それに貿易に力を入れていた(従来説)とはいうものの、それならあってしかるべきだろう貿易管理制度がないとも(これは日本史を通じてないそうです)。また平氏が自前で貿易船を送った訳でもなく…
中国商人が海外貿易を盛んにおこない始めたのが9世紀ごろからだそうで。
牛耳っていたのは日本〜インド半島という実に広範囲。
そしてそのメインルートは東南アジア。
日本はその支線で、そんなに儲けが出る貿易ルートではなかったようです。
また東南アジアでも日本でも、ルート、ネットワーク共に主体となっているのは中国商人であり、こうした仕組みを覆すのは平清盛でも無理だと。
(ちなみに世界あちこちにあるチャイナタウンの出発点はこの宋代で、華僑が東南アジアに多い理由もここにあるそうです)
日本からだけで見ると「あれ?」となる。
もっと大きな枠組みの中で、冷静に事実を見つめる必要がある、という事を仰っていました。
平氏の日宋貿易については記録がない、史料的に確認ができないのに、こうだ、と言われている事が多いようです。
こうあらまほしという先入観…予念があるのと、日本国内のみの事情ばかりを考えていること、言葉の意味の取り違え、この辺りに問題があるように話を聞いていて思いました。
これは目からうろこボロリでした。面白かった。
最後に樋口さんが山内さんに「大河ドラマで信西が中国語を話していたが、話せたのか」という質問をされていました。
12世紀の京都に宋人がいたことは、記録から分かっているそうです。
僧侶であったりお医者さんだったり。
なので話し言葉としての中国語を習えないという事はなかったようで、あながち荒唐無稽という訳でもないようです。
そうなんだ。
あとはまあ、いいかなー。
本当に面白いシンポジウムでした。行けて良かった。
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中には随分お待ち頂いた方もいましたので…改めてすいませんでした。
重なる時は重なると言いますが、本当にそうですね。今回は流石に骨が折れました。
ブログでも本当にひっさしぶりに広瀬武夫に触れていくつか書きたい事が湧き上がっているのですが、そちらはまた後日に。
先程抜糸してきました。でも、何だかまだ不自由です。うーん。不便。
引きつれて痛い事は痛いorz
御命日でした。
思う所は昨日書きましたので、今日は淡々と。
サイト、FRWL(広瀬武夫データベース)で、「著作・史料」の「公文書類2」を更新しました。
項目は6つ。
M30年 陸軍軍事施設視察依頼1 (東京) / 同左 2 (東京湾) / 同左 3 (大阪)
M31年 黒海裏海沿岸視察旅行願
M32年 英仏独三カ国軍事視察旅行願
M35年 軍艦朝日赴任関連文書
こんな感じ。
1行目の3件がロシア留学に先立つ国内の軍事視察に関するもの。
2・3行目はロシア滞在時の視察旅行願い。3ヶ国の方は秋山真之と欧州を旅したやつね。
4行目は帰国後、朝日に赴任するまでの関係部署とのやり取りになります。
一昨年「公文書における広瀬武夫」という考察を更新しましたが、その原本資料になります。
見直していて気が付いたのですが、ひとつ関係文書類が抜けている。
ロシアからの帰国時の旅費のやり取りの書類が3・4行目の間に挟まるんですが、…あれ?^^;
…めんどくさかったのか…
いや、「公文書に-」の方で大分引用しているので飛ばしたのかな。分からない。
興味のない方にはまったく面白みのない話だと思います。笑
大体において、血反吐を吐くほどしんどいページが恐らく読み手にとっては一番面白みに欠けるページなんですよね…
年表とか、この史料ページとか。…更新するのは一瞬ですが本当にしんどいんですよ…^^;
『広瀬武夫全集』に掲載されていたら私はそれを読むだけですが、原典史料は釈文から掛らないといけないのでorz
上にあげた留学前の軍事視察ですが、結構なハードスケジュールなんですよ。
これ、当時の鉄道敷設状況や運行状況などを調べて「うわあ」と思ったのですが…
海外赴任の際、陸軍だと大体3ヶ月〜半年の準備期間が与えられたそうですが、海軍だと大体1ヶ月が相場だったそうです。
広瀬武夫ら明治30年の留学組 
を見ると、留学の内示を受けたのが明治30年5月14日、辞令が6月24日。
そして広瀬の出国予定日は7月11日です(8月初に変更)。
内内示に当たるかと思われる異動が3月初旬にありますが、これは少し微妙な所があります。
辞令が下りてから、他の留学生とあちこち視察に行く、その組織間通牒が今回ご紹介の史料。
…辞令が下りてから、東京、大阪、京都、恐らく呉にも行っていると思いますが、これは本当に多忙です…
今みたいに東京大阪間2時間半とか40分とかではなく、新橋神戸間特急で17時間半とか、そういう世界なので^^;
だからこういう記事が新聞に載ったんだと思う。笑。→こういう記事(笑)(一番下の)
もう少し書きたい事もあったのですが、すいません、眠い!
レスは次回でお願いします…

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今日と明日で更新します。
今日は第1弾という事でFRWL、広瀬武夫データベースの『註』の更新です。ちょっとです。
しかし『註』って。
いつももう少し良い題はないのかと思ってしまう。
いい案が浮かべば変えようと思いつつ、浮かばないのでそのまま走り続けているこのコーナー。
何の事はない、用語説明です。
教えてやんよ!とかそーゆー偉そうなものでも大層なものでもなく、その実態は
(寧ろ)私が教えてほしい用語のコーナー
この一言に尽きます。笑。
系統的には「H'sシップヤード(日本海軍建艦の流れ)」や「Beyond the sea(大雑把な軍艦の話)」と同じで、何も知らないド素人が疑問を持って調べて来たことを発表する場です^^;
私は本当に紙の上でしか海軍を知りません。
なので広瀬武夫を初めとする海軍さんを調べていて、当然のように出てくるのにいまいちよくわからない言葉がすごく多いです。
軍艦の話なんてその最たるものですが、制度的な話では駐在武官と駐在員は同じじゃないの?とか。
昔は同じだと思っていました。何故かって書籍上での誤記が多いためです(人のせい)。
表記の違いに何か意味があるのかと思い、いざ調べてみると全然違うものだった…
結果を述べると、武官と駐在員では部長とヒラくらい違うんですよ^^;
今回の註は水雷関係ですが、広瀬の時代であってもまだまだ海軍は過渡期真っただ中で、何がどうだったのか正直言ってよく分からない。
探しても制度が固まってから、つまり水雷術練習所ではなくて水雷学校になってから(明治40年以降)の記述ばかりでねえ…
時代が変わっても、学校の基礎になる部分や考え方の大枠はそんなに変わっていないだろうとは、思うのだけど。
広瀬は色んなエピソードが伝わっている人物です。
その反面、日常において彼がどういった職務に従事してたかという事について触れられる事は殆どありません。
以前も書きましたが、戦前は『軍神』広瀬中佐として称揚され、戦後の受難期を経て島田謹二氏以降は『人間』広瀬武夫、『国際人』広瀬武夫が強調される事が多くなりました。
またそれが現在に至るまでの広瀬の扱いの主流になっています。
しかしながら私が見るところでは、戦前戦後を通してすっぽりと抜けている視点があります。
それが『軍人』広瀬武夫。
広瀬は亡くなった当時は少佐で、戦死が注目されるような階級ではありませんでした(=若い)。
それに卒業席次の悪さが災いしてか、当初の職場は花形からは随分遠いところにあった。
具体的に言えば朝鮮海域で測量海図作成に従事していたり、日清戦争当初は後方支援であったり。
しかし所々光彩を放つ時があり、それが明治24年の南洋航海(航南私記)であったり、日清戦争時の鎮遠回航であったりします。
一番の目玉は露国滞在と旅順港閉塞作戦への従事になりますが、冷たい言い方をすればこの程度しか軍人としては目立つ所がない。
つまり、広瀬はどこ所属であっても組織の枢要にいた経験がほぼなく、その上若年で戦死しているため、旅順港閉塞以外で歴史に残るような事をなしていないんです。
軍人としては末端過ぎて、書くべきことが殆どない。
その上旅順港閉塞は失敗しているため、では軍人として何を残せたのかというと、結果的には名前しか残せなかったということになる。
まさに「軍神広瀬とその名残れど」で、そのせいか戦前戦後を通じて軍人として広瀬がどういった事をしていたのかというのは、殆ど触れられてきていません。
でも、広瀬武夫の軸は 大日本帝国の海軍軍人であること だと思うのです。
沢山あるエピソードを押さえていくのも面白いけれど、その傍らで、広瀬の人生の大部分を占める海軍という組織の中で、彼がどういう役割で何をしていたのかを押さえる事も大事だと思う。
「広瀬武夫、軍令部へ」と「公文書にみる広瀬武夫」という考察をサイトに載せていますが、実はこれはそうした思いの延長線上にあります。
そしてそうした事を考える際に、細かい所ですが、固有名詞の理解ができていないと無理な所があるのです。
『註』のトップに「私のメモ」と書いていますが、あれはまさにその通り。
『註』に限らず、FRWL全体が私のメモです。
…実は広瀬武夫の評伝を書きたいんだ。
これは秘かな目標。
戦後と戦前で「広瀬武夫」の扱いがどう変わったかというと、光を当てる方向は変わったけれども、人間性を美化して称揚する、その一点は全く変わっていないと私は思っています。
特にこの2・3年は、ドラマのいきすぎたロマンスと美化で一層酷くなったような気がします。
軍神というベールは剥がれたかもしれないけれど、また別の、違う名前のベールが被されたような状態ではないかと思う。
私はそうじゃない、生身の人間としての広瀬武夫を知りたいし、近付きたいんです。
だから閉塞作戦の時の判断はおかしくないかって批判だってする。
こんな悪口言われてましたって話だって、知り得た話は隠さずに書いてきました。
美点悪点、軍神であった事、軍人であった事、国際人であった事、どこかに強く偏るのではなくて全部ひっくるめて、広瀬の全体像を見たいし、知りたい。
今までの広瀬武夫像は、広瀬はこうあるべきだ、こうあって欲しい、という予念に囚われ過ぎていると思います。
でも、違う角度で調べていけば、それとは少し違う広瀬武夫の姿を提示する事が私にもできるんじゃないかなと。
私じゃ力不足過ぎるだろうと思います。
でも、何かできるんじゃないかと、そう思いながら続けてる。
(その為の史料整理をオンライン上で公開しているという感じです)

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あんまりちゃんと見てなかった…^^
●強訴
強訴入りましたー。
実は先週の次回予告を見て祇園社との乱闘事件は今週なのかと思ってた。来週みたいですね。
神輿という事は比叡山延暦寺ですか。神木だと興福寺になります。
このふたつを合わせて南都北嶺といいますが、強訴はこの2寺がその大半だったようです。
鳥羽院の祖父白河院が
「自分の意のままにならないものは、賽の目、僧兵、鴨川の水」
と言っていますが、この僧兵というのが悪僧とか言われる武装した僧になります。
強訴を繰り返す比叡山の山法師の事。
荘園紛争とか寺院人事、つまり寺院の利害得失に関係する話が中心で、現実政治に対する要求というのはなかったみたい。
とはいえ今とは仏教や宗教組織に対する認識というのは全然違うので、やはり大きな影響はあったと思います…
●忠盛正四位上に(1144年 清盛26歳)
いよいよ公卿に…と家臣団一同がwktkする中、齎された官位は豈図らんや正四位の下…!
えーなんでなの?結局武士は王家の犬なのうんぬんかんぬん。
公卿は従三位以上です。もしくは参議以上(太政・左・右大臣、大・中納言、参議)。
うーん…
忠盛が幾ら順調に出世していたとはいえ、この時点で公卿に昇進出来なかったのにブーブー言うのは流石に現実味がないような気がします。
●高階通憲、出家
鳥羽院同様唐突で驚きました…いきなり出家してる^^;
これ以降は高階通憲改め信西ということになります。
武士を認めて取り込むのに各所から反対され、現実のあり方があまりにむなしく出家したという話の流れでしたが。
……え?そんな理由じゃなかったよ?
信西は元々藤原氏から高階氏に養子に出た人物です。
で、この藤原の家の祖父と曾祖父が大学寮に務めた学者で、信西もその跡を継ぎたかった。
具体的には大学寮の役職に就いで名を上げたかったのですが、高階の養子に行った段階でその権利がもう消失していた。
当時平安時代末期ですが、公家社会の仕組みはがちがちで、もうこれはどうにもならない。
嫌になった。もーどーでもいーや→出家でもすっか。
鳥羽院があれこれ便宜を図ってやろうとするのですが、結局出家してます。
まあドラマでこの内容を描くのは無理ですな。
変な理由付けせずに何も説明しなくて出家したでもよかったのではなかろうか。
●頼盛元服
清盛の次々弟、頼盛。という事は宗子の子、家盛の弟になります。
先述の通り家盛は早い段階で亡くなりますが、頼盛は長生き。
兄清盛とはちょっと距離のある弟君でして、清盛死後、一門の都落ちの時は京都に残留しています。
●鳥羽院がいきなり出家して法皇になっていた…
これで三角関係四角関係決着ですなあ。待賢門院が亡くなった時は鳥羽法皇は大号泣だったそうです。
●鶏合わせ
平時子の弟、時忠が出てきました。
有名な「平氏にあらずんば人にあらず」はこの方の言葉と言われています。
一門と一緒に都落ちし、壇ノ浦まで行きますが生き長らえています。義経に娘を嫁がせて接近を謀ったり…
不思議な感じのする人だなあ
鶏合わせと言えば、思い出すのはこれも源平合戦で。
和歌山、田辺に拠点を置いていたのが熊野水軍になります。
この水軍は平氏にゆかりがあり、源氏と戦う際には平氏は勿論味方してくれるものと思っていた。
しかしです。
この水軍のボス堪増の子供が武蔵坊弁慶という…
屋島の戦いの際、力を貸して欲しいと義経に頼まれた堪増が紅白の鶏を競わせ、結果源氏への参戦を決めると言う話があります。
(赤=平氏の色、白=源氏の色)
ちなみに闘鶏神社という神社も残ってます。
●お笑いパート源氏
源義朝の、鳥羽法皇の覚えがめでたくなったのは水仙を届けたからでは断じてない^^;
由良姫が「統子内親王に仕えている」と言っていました。
ドラマで断言してましたが、これ断言していいのかなあ。ちょっと良く分からない。
統子(むねこ)内親王、父は鳥羽法皇、母は待賢門院、つまり崇徳上皇、雅仁親王(後白河)の姉妹になる女性です。
「統子内親王に仕えているあんたに嫡男を生んで欲しい」
という旨のことを義朝が言っていました。
酷い話でも何でもなく、まー、どう考えてもこっちの方が歴史的には真実に近いんと違いますか。
以前も書きましたが、奥さん選び本当に大事。
お母さんの身分が高いから、子供が引き立てられるんです。早く昇進するんです。
義朝が取り立てられたのだって権門に近い(鳥羽院に近い)人間が近くにいたからですな。
***
神戸市文書館主催の歴史シンポジウム「清盛・縦横無尽」に行ってきました。
滅茶苦茶面白かった…!
講演は政治史から、仏教文化から、日宋貿易から、文学史から見た清盛という、4方向からの清盛。
中でも面白かったのが「仏教文化から見た清盛」。
プログラムを見て一番興味湧かないなあと思ったテーマが一番面白かったというこの罠!(笑)
こういうのってドラマとか漫画では見るけど、本当にやってたんだ、というのを歴史的事実として目の当たりにしてぞっとしました。
これはまた後日、色々と書きたい事もあるのでその時に纏めて。
今日はこの話が聴きごたえがあり過ぎて、面白過ぎて、ドラマ見よう!という気持ちにあまりならなかった。
単にテレビがかかってた、という感じでした。笑

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>なかむらきりのさん
ご心配頂きましてありがとうございます。久々にやったなーという感じでもう、本当に間抜けすぎてトホホです…(笑)

先週、NHK神戸放送局で開かれた公開セミナー「清盛と福原・大輪田泊」に行ってきました。
講師は大河ドラマの時代考証をされている高橋昌明さん。
3月3日にも神戸市立博物館の講座(「清盛のめざしたもの」)を聞いてきた所だったのですが、うまい具合に抽選に受かりました。
明後日25日のシンポジウムの抽選にも受かったのでそちらにも行ってきます^^
研究の最前線にいる方の話を聞くのは楽しい。
で、先週の演題はご当地神戸という事もあって福原京と大輪田泊の話が中心でした。
その話を延々と書いても仕方ないので「清盛のめざしたもの」と併せて、あ、と思った所だけ書いてみます。
ひとつめ。
”王家”という表記が、という話が…という事をこのブログでも少し前に触れました(こちら)。
高橋さんも「少し騒がれていましたが」と言いながら触れておられたのですが、研究史では普通に使っている言葉のようです。
私が受けた感じとしては、「え?今更何言ってるの?」というほど普通に使う言葉みたい。
そして同じエントリで、九条兼実の『玉葉』で、宋から来た書簡の天皇の表記が「国王」になっておりこれは無礼だと議論紛々だったという話も触れました。
この「国王」は 宋に従っている国のトップ という意味だそうです。
だから その国の王さま ではなくて 宋に従っている国の王さま ということになる。
宋と日本では字は同じでも意味合いが違うという可能性がある、と私はそのエントリで書きましたが、「宋と日本では」ではなくて「今と昔では」だった^^;
日本は宋に従属していませんでしたから、確かに当時の公卿たちが無礼だと感じても仕方ないかも…
でも、どう考えても当時の日本と宋は比べるのがおこがましいほどの差があったと思うので、これぞまさに井の中の蛙という感じではないでしょうか。
ふたつめ。宋銭の話。
ドラマの中で清盛が銭を知らなかった事について、都にいたならそんな事はなかったんじゃないかなあ…という事を書きました(こちら)
保元平治の乱辺りまで銭は使われていないと言いきってた。
そうなんだ。
保元の乱は1156年。平治の乱はその3年後の1159年。ドラマのあと20年後位。
基本的に物々交換で間に合っていた時代です。
でも古い時代から大口の取引については手形が使われていたことが分かっているんだって!びっくりした。
清盛の日宋貿易で宋銭は中心的な輸入品でした。
中国船がバラストとして銭を船倉に積んでいたから、多量に輸入されるということになったそうです。
日本からの輸出品としては木材と金を私は思い浮かべるのですが、中でも大事であったのが硫黄。
宋は当時異民族との戦争を続けていて、その対戦用に硫黄を必要としていた。
つまりこれは火薬として利用するということ。
…………。
我が国で「やあやあ我こそは常陸の住人なんとかかんとか」とかやってる時に火薬ですよ。
で、このまま100年位経って文永弘安の役(元寇)ですよ!てつはうですよ!(グーグル画像先生)
「国王」が無礼とか。
どちらが無礼か分からんなー^^;
そりゃあまあ三国志の曹丕の時代に奴隷しか貢ぐものがなかった我が国ですから…(魏志倭人伝)
卑弥呼の時代に九品官人法とか作ってんねんで!?
こんな所と比べたらあかん!!(笑)
他にも面白い話が沢山あったのですが、ブログで疑問だなと思って触れたのがこの2点だったのでこの位で。
**
やっちまったなー!(最近見ないね)

肝心な時に滑るキャベツが悪いんです…キャベツ…あんにゃろう…親指も千切った…
そらーもーうわーと思うぐらいぐっさりと勢いよく包丁の根元が突き刺さった(笑)
今日病院に行って来たのですが、看護婦さんが「浅いから縫わなくてもいいかもー^^」って。
え?肉見えてたよ?白い所あれ皮下脂肪だよね?
あまりにきつくバンドエイドで縛っていたのでピッチリと切り口がくっついていて、そんなに深いと先生もおもわなかったみたい。
縫う段に至ってうわーって言われた。うわーっこれは縫わんといかんわーって。
だから縫ってとあれほど。
何年か前にももっと酷い傷こさえて縫って貰ったことがあるんですが、手を切った事よりパンが血まみれになった事の方がショックでした。
いやーもう本当に冗談でなく流血の大惨事ですよ台所!(笑)
…サンドイッチが…(←冷凍パンをスライスしていたら包丁が滑った)
3日我慢して病院に行った挙句「…痛いのが好きなの?」って聞かれた。
んなわけあるか^^
こんなので痛いと思うんだから切腹はどれほど痛いんだろう。
武市半平太はすごいなあ…(という結論にいつも落ち着く)
先日作ったフレジェ(苺のケーキ)がすごくおいしかったので、また違う苺ケーキでも作るかと思っていたのだけど当分アウトである!
というかこの手じゃ桜もちが作れない…なんたる失態か。

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メール停止を解除いたしました。
全返信しましたと言いたいところですが、それはまだ。
まだ幾つか確認してからお返事したいメールがありますので、もう少々お待ち下さい。
でも山は越えたので、ということで。
お待ちくださいばかりですいません。ほんと謝ってばっかりだよ…
………。
お待ちいただいてありがとうございます!(><)
先日の家族系図の件で久々に広瀬武夫のデータベースをつらつらと見ました。
た、楽しいな……!(自分で言う)
自分以外で楽しい人いるんかと思うけど、半ば自分の為に作ってるページなんでなー…
で、あのコーナーは色々と多岐に亘っているため何をどこまで作業したか、何をどう変えたかという所までは流石に記憶ができません。
あの本あそこまでデータベースにしたけど、時間が経ったら細かい所は忘れていて、どこまでやったっけ?となる事が往々にあって。
自分で作ってるデータなのにな!^^;
挙句の果てに作業が重複したりしてすごく非効率だったりする訳です。
大学の先生のように手伝わせる学生がいるわけでもなく(笑)、自分ひとりでやっているのでそういうミスが進捗状態(とやる気)にダイレクトに反映されてしまう。
今まで何度か痛い目にあったので、広瀬武夫に関してだけは自分用の作業履歴をつけています。
こんなの。
(※公開はしていない)
その時々の気持ちの濃淡がはっきり出てしまう表でもある。2011年なんてこの見えている行だけなんだぜ…orz
でね、これよ!
………あー……加藤高明の名前を系図に入れた時に少し触って、その後に全面移転したんです…その時にミスったかな…(前回の話です)。
いや、どうだろう。よく分からない。
交流関係は変更や訂正個所が出た時に触るのがしんどいところです。
なぜかというと、UPしている人としていない人が同じページに混在しているから。
先師・友人関係は完成分全部をアップしているので問題はないのですが、その他がややこしい。
私は普段自サイトは自分のパソコンに入れているデータから見ているので、皆さんが見ているのとは若干違う状態のものを見ていることになります。
なので誰をアップしてその際誰を消去しておくのか、これが偶に分からなくなる。
自分が作ったデータ全てが見えているのが普通の状態だから。
つまりあまり触りたくない理由を簡単に表現すればややこしい。めんどくさい。その上間違う可能性がある。…から。
だから交流人物のページを開設した時、初回は一気に70人分の更新ですよ。
人数えて自分でも笑いました。1年半かけて作ったデータもほんの一瞬だよ。笑
出し惜しみすればいいのにと我ながら思わない事もなかったのですが(笑)、あれこれ触ると誰か消したり、絶対間違いが起こる。
それでもミスするんですから、気をつけているつもりでも、気がついていないんだろうなあ…
粗忽さが悲しい。
で、もうひとつ気が付いた事があって。
上の図、オレンジの所が未アップなんです。はい。未アップなんです…
『註』の部分ですが、1年前に調べた水雷関係の話、まだ上げてません。
それにかなり(敢えて言う)、かなり頑張って作った公文書の解説もまだひとっつも上げていない。
そういや放置プレイだな。出来上がってるのに。…あれから丸2年…
せっかくなので、もう一度見直して広瀬の御命日あたりにUPしようかと考えています。
27Kもしないことだし、それくらいはやろうかなと。
あと個人的には桜餅を作らんと。広瀬にお供えせんとな〜^^

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\ …………… /
大抵いつも唐突な感じですが今日は何があったという感じですか。
………ショックなことが……orz
メールチェックをしていて、問合せだったのですが、ちょっと何を言われているか分からない事がありまして。
何回か読み返して、やっぱり言われている事が分からない。
なんでかしらと思って、サイトに載せている広瀬武夫の家族図を見たら、まままま、まちがひが……
よりにもよって家族の表記というものっそ基本的な所が違っていました。
何の事はない、私の間違いに疑問を持たれて下さった質問でした。修正し直しました。
広瀬は勝比古、武夫、潔夫、登代、美津、吉夫の5人兄弟です。
このうち美津と吉夫が腹違いの妹弟になりますが、美津ちゃんは2歳で早世してます。
で、この美津と吉夫の母は広瀬父の2番目の妻琴になる。んですが、吉夫の母を3番目の妻琴にしていた。

今更なんですが、お願い言い訳させて。
古いデータを上げてました。
ぎゃあああすいまっせん!気付いてなかったorz
吉夫君、上の兄弟に遠慮があったみたいなんです。
なんでかなあと思っていたんですが、よく見たら実母は当初広瀬の父重武の妾妻だったんですな。
ただ妾というのは明治初期では今でいう愛人とか不倫とかとは違うものでして、2等親族としてちゃんと戸籍に入る存在でした。
武夫の実母が亡くなる前に広瀬家に入ったものの明治17年に亡くなっており、その直前だかに妻になおされた。
吉夫は同じ家の子なんですが、それまでは所謂別腹、妾腹という事になります。
姉の美津は生まれる前に亡くなっているので同母兄弟がおらず、しかも母は幼少時に亡くなっているので複雑な所もあったのではないでしょうか。
でもありがちな継子扱いとかいじめとかそんな事はなかったみたいで、広瀬武夫自身が学費も全部面倒見るからと父を説得して東京に遊学させたりさせてます。
まー勝比古とは17才、武夫とは10才、潔夫とは7才、登代とは5才と、割と年が離れていますし、3番目の継母とは全員生さぬ仲になりますので、そういう感じでもなかったのかと思いますが。
ハイ。
そう言う事で2番目のお母さんの子、という事は分かっていたのに、ネットに上げていたデータが3番目のお母さんの子になっていました。
おかしいな、これ、作っている時に気付いて一度直したんだけど、更新し忘れてたか、去年の移転の時に間違ったデータ流したか…
あああああでも間違ったデータを出していたことに違いはないので…あーもう本当にすいません。
**
不備と言えば久しぶりにweb拍手の管理画面を見たのですが、アップロードしていた画像がぜんぶ表示できなくなっていて驚きました。
…何かあったの?いや、こちらも少し驚いて。
いつから自分で上げている画像が表示できなくなってたんだろう。
拍手下さっていた方、そっけない画面ですいませんでした。メッセージが全然出ていない状態でした。
というか、そっけないのはデフォルト…(どうしようもねえなあ)

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>2:31 歴史の考察面白かったです。〜の方(反転して下さい)
ついうっかり次々と読んで下さいましたか!(笑)それはよかった!頑張って調べて書いた甲斐がありました^^ 生活史を見ていると意外な歴史の側面が見えて面白いですね。もう少し調べて書きたい事もあったのですがそれはまた次の機会に持ち越しです。ぜひまたお越しください^^コメントありがとうございました!
>水橋さん
お久しぶりです!URL見ました。樋爪兄弟の地元、紫波町だったのですね。何より五郎沼と陣ヶ岡の距離が近くて驚きました。
確かにこれなら晒された泰衡の首が中尊寺に届けられたとしても不自然がないかもしれませんね。
地元に残る伝承はご当地だけに無碍にできないものがあると思います。地図や本の上からだけでは分からない、感じられない事も多そうで…調べたらもっと多くの示唆に富む話が残っているのでしょうね。
昨日のドラマレビューを見に来て下さる方が多いようで。
なぜ「皇太弟」ではダメなのか、その理由が分からなくて調べている方が多いようです。
それが解決したのか今日は拍手の数が多い…^^;
それで昨日の記事には少し手を加えたのですが(強調しただけ)、はい。
私もあれは見ていて不親切…というか、流石に説明がいるだろうここは、と思った。
あれじゃなんで崇徳院が崩れ落ちたか、知らない人には分からないよね。大事な所なのに。
ドラマチックに仕上げているだけに、おいてけぼりにされた人は多いだろう…
それに待賢門院が出家した理由も、呪詛した個人名を上げるよりは
「待賢門院の乳母子夫妻が呪詛していた」
とした方が良いと思う。
変に細かい所にこだわりって大事な所をスルーしている気がします…
で、ご連絡ですが、留めていたメールの返事を返し始めています。
いやもう本当にお待たせしました…
相変わらずのぼちぼち具合ですが、返信は必ず致しますのでもうしばらくご猶予下さい。
今日はこのご連絡だけ。

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思ったんだけど、先週出家した佐藤義清(西行法師)って最初の目的は崇徳院を救う事じゃなかったっけ。
先週(先々週の回か)あれ?とは思ったんだ。
いつの間にか義清の目的が愛を知らない(笑)待賢門院璋子を救うという話になっていた。
出家の原因の一説に璋子さまとの失恋という話があるだけに、特に疑問も持たずに見ていたんですが、フォーリンラブる瞬間ってなかったよね?ね?一発変換でフォーリンラブる俊寛て出る私のPCって一体何なんですか?ねえ?
なんでいきなり目的がスイッチしたの?詩人の考える事はさっぱり分からん。それより崇徳天皇どーすんべ。可哀想に…
ちなみに幕末、長州の高杉晋作ですが、彼の号は東行といいます。
西行法師が好きで、彼にならってそうした。
西へ行く人を慕うて東行く その心をば神や知るらむ
という歌も詠んでいます。
●今週の系図
崇徳天皇の所に皇子が産まれてしまった…!
重仁親王ですね。
そりゃ自分の子供ができたらそちらに跡を継がせたいと思うのは人情です。
ただそのままでは美福門院得子としては面白くない訳です。こっちだって自分の子を帝にしたい。
「譲位して院政を敷いたらいいじゃん」とかなんとか、うまい具合に言いくるめて崇徳天皇を退位させ、躰仁(なりひと)親王が治天の君として即位しました。
近衛天皇です。
で、その即位だか退位の時に強調されていたのが「皇太弟」という言葉。
近衛天皇は鳥羽院と美福門院の子供、つまりは崇徳院の異母弟になります。
弟を養子として迎えていたんですね。崇徳院にとっては近衛天皇は弟だけど、子供でもある。
院政の前提は父子関係であるっちゅう事なんです。
白河院は祖父だったじゃん、ということですが直系じゃないとダメということなんですね。
だから「皇太弟」じゃ駄目なんです。
「皇太子」じゃないと、崇徳院は政治を執る事ができない。
ここ、ドラマでは全く説明がなかったですが、説明されないと訳が分からない所です。
そう思うと今週の話はキーポイントになる所がスルーされていて非常に不親切。
これはちょっとどうかと思います。
政治の実権は近衛天皇の実父鳥羽院の許にあるままで、結局何も変わらない。
騙されて退位させられた感じですか。花山院のようですなあ。
ドラマの崇徳院、なんか浮世離れっちゅうか、やや人間離れしてるような感じであれはワザとなのかな。
●兄弟たち
平清盛の子の方は、まだ幼名での登場ですが重盛、基盛兄弟になります。
重盛の1個下で、割合早い時期に無くなっている。保元の乱の後。
長生きしてたら後年の重盛の一族の中での立場も少し違ってたかもしれませんねえ
●時子の妹滋子
滋子ちゃん出てきましたー。この女性は重要ですよ〜
後に後白河院の寵愛を受ける女性です。
後平清盛と後白河院は盟友関係になりますが、その一番太いパイプであったのがこの建春門院滋子。
聡明な女性であったようで、それが気に入られたようですな。
彼女と後白河の間に生まれたのが高倉天皇になります。
で、この高倉天皇と清盛・時子夫妻の娘徳子との間に出来た子供が安徳天皇。
来週は時子の弟、平時忠が出てくるようですね。
「平家にあらずんば人にあらず」という言葉を吐いた人物です。清盛じゃないのよ。
そうか、森田剛か…
●待賢門院璋子出家
今まで普通に待賢門院て言うてるけど、出家していないので正確な表記ではないです^^;
美福門院にしても同じです。
息子を即位させた美福門院を妬んで呪詛させたという話でした。
天児(あまがつ)が出ていましたが、これ、雛人形の原型でいいのかな…?
生まれた子供の枕もとに置いて、災厄を引き受けてもらう、とか、そういうの。形代(かたしろ)です。
名前しか出ていませんでしたが、美福門院を呪詛した人物は待賢門院の乳母子夫妻でした。
関わっていたかどうかに関わらず、もうこれは完全にアウトですな。
呪詛していた場所が2ヶ所ありまして、その内のひとつが摂津の国広田社。
え?………広田神社?
はい!私の地元!(笑) 自転車で20分位!(笑)(だから覚えてる)
*
・崇徳院が気の毒過ぎ。義清も崇徳院捨てて行くような格好で顧みもせず出て行って結局ひとりである…もういいよ祟っちゃえ^^;
・待賢門院と堀川の会話がまるで宇宙人
・時子まだ源氏読んでる…
・盛国が出来過ぎてて面白くない
・源氏←野生の王国
・由良御前←うざ(自粛)
・源氏パートは最早笑うところである

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サイト更新しました。先日の「平安ライフ」の続きです。
先日更新した時までは1と2だったのですが、更に増えて3まで…あ、あれ?^^;
1ページがあまり長すぎるのもどうかと思って更に分割しました。
前回は食事の話でしたが、今回は
2)十二単の重さ、髪の毛を洗う話
3)体を洗う話、お風呂の話、トイレの話
+参考文献
流石に参考文献もつけました。うん…ちょっと大変だったので…
それに調べたい事がある人のお役に立てれば良いかな、と思いまして。
参考文献から探すというのは本当に大変なので。
今回の更新分で一番大変だったのは洗髪の話でした。
髪型の話はあるのだけど、髪の毛を洗うという話が殆どない…
本当にどうやって洗っていたかという記述が全然ないんです。どうやって洗ってたの?
あちらこちらの本やネット上にある話を見ていると、「宇津保物語」がよく引用されていました。
この物語には髪を洗う場面が多いのだそうです。
それで図書館で『宇津保物語』借りてさー。ぼちぼちと関係ある所を読んでたのですが、いや、本当に大変。
おすべらかし(←平安女子のあの髪型)を洗うのに、朝早くから夕方までかな?とにかく1日仕事。
髪の毛を乾かす時間なんて長すぎて男の人待ってられない。
それで痺れを切らして
「ひとりでなんて待ってられません。向こうで乾かしましょう」
とか言って、男の人が奥さんを寝室に連れて行く。
そうしたらね、乳母が怒るんですよ。
「折角洗ったのに乾かない間に寝てしまったら髪に変な癖が付く。また明日も洗わないといけないじゃない」
ん?
また明日も洗わないといけないじゃない?
そんなに気軽なもんなの?
この奥さんは皇女で身分が本当に高いので、そういう事もあるのかと思うのですが。
調べている時にざっと『宇津保物語』のあらすじを読んだのですが、これ、結構面白そうだなあ…
そうとはいえ今はちょっと読めないけど。
あて宮という女子いるのですが、彼女の裳着の儀の際に臨席した人間がその美貌に一目惚れ!
裳着の儀は女子の成人式の事です。先日加冠の儀の事を書きましたが、こちらは男子の成人式。
いや、美貌に一目ぼれて…あて宮ちゃん12才なんですよ…当時が満年齢である事を思うと10才位?
そのあて宮ちゃんに色んな人が熱烈に求婚するんですが、結局東宮の後宮に入ってしまう。
12才に熱烈に求婚…良い年したおっさん達が…お前らショタか気持ち悪ィ(現代的思考)ごほん。
ま、まあそれはいいんですが^^;
調べていて思ったのは、「詳しい事はあまり分かっていない」、この一言です^^;
今回更新分でも書きましたが、残っている史料の為だと思いますが、記述にすごく偏りがあって中流貴族のような…中流に関する言及が殆どない。高級貴族か庶民かという…
難しい所なんだろうなあと。
***
今日はNHKの公開セミナーに行ってきました。
時代考証をされている高橋昌明さんの講演で、『清盛と福原・大輪田泊』。
とても面白かったです!その話を書けばいいんですが、今日は少し疲れたので。
行ったらお土産くれたー
上の円筒はティッシュ。下に敷いているのはレジュメなどが入っているバッグ…
なのですがミシン目が入っていて、所定の場所で切り離せばクリアファイルになる。
人出の多い三宮、これを持ってうろうろするのは結構恥ずかしかったです。笑
久しぶりやなーと思って、NHKのあるトアロードを登って異人館方面へ。
右側に写っているのがシュウエケ邸。この通りに先日火事にあったグラシアニがあります。
ああいう姿を見るのは辛い…
風見鶏まで行くかな、とも思ったのだけれど、雨がぽつぽつ降って来たのでそのまま帰ってきました。

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>とよたさん
そう言って頂けると嬉しいです。書いている甲斐があります…(><)歴史って面白いものだと思うんですよ…ドラマを通じて史実に興味を持ってもらえたらいいな〜と秘かに思っています。嬉しいコメントありがとうございました。
もうひとつのブログで書き忘れたのですが、ホットケーキ、焼く前にフライパン(テフロン)に油塗って下さいね!油を入れて火にかけて緩くなってからティッシュでざっと塗り広げて下さい。それで十分です。2枚目からは油いりませ〜ん^^
>あいこさん(反転して下さい)
おお〜大先輩ですね!私も歴史が大好きでここまで来ました^^ コメントありがとうございます!
(産経新聞 2012/3/14 夕刊)
幕末に密留学?した薩摩出身のワイン王、長沢鼎の日記がカリフォルニアで見つかったとのこと。
「ワイン王」の日記、米国で発見 薩摩から移住、祖国思う心つづる
幕末の薩摩藩留学生で、米国で成功し「ワイン王」と称された長沢鼎(1852〜1934)の日記が、米カリフォルニア州で見つかった。
親しかった初代文部大臣、森有礼に宛てた手紙の下書きも含まれ、米国に一人残った長沢が、明治維新直後の祖国を思う心境がつづられているという。
長沢は、薩摩藩が西洋文化を取り入れるため、1865年に森らとともに英国に派遣した若者の一人で、当時最年少の13歳。
宗教家ハリスと出会って米国に移住し、カリフォルニア州サンタローザでワイン園を経営。
ワインはカリフォルニア十大銘柄に数えられた。サンタローザの議事堂には胸像も建っている。
(ソース:北海道新聞 2012/3/14)
薩摩から留学「ワイン王」の日記発見 米で成功

幕末の薩摩藩留学生で、米国で成功し「ワイン王」と称された長沢鼎(1852〜1934)の日記が、米カリフォルニア州で見つかった。
親しかった初代文部大臣、森有礼に宛てた手紙の下書きも含まれ、米国に一人残った長沢が、明治維新直後の祖国を思う心境がつづられている。
長沢は、薩摩藩が西洋文化を取り入れるため、1865年に森らとともに英国に派遣した若者の一人で、当時最年少の13歳。
宗教家ハリスと出会って米国に移住し、カリフォルニア州サンタローザでワイン園を経営。
ワインはカリフォルニア十大銘柄に数えられた。サンタローザの議事堂には胸像も建っている。
鹿児島純心女子大の犬塚孝明教授(日本政治外交史)によると、日記は米コーネル大在学中の1871年に執筆。
手紙の下書きは日記の最後2ページ半にわたり、他の留学生が帰国する中、日本に帰るか、残って勉強を続けるか迷う様子が英語で記されている。
犬塚教授は「日本のために何かしなければと考え、なかなか永住の決心がつかなかった当時の心情を知ることができる」としている。
2012年度の開館を目指す鹿児島県いちき串木野市の薩摩藩英国留学生記念館に収蔵する予定。〔共同〕
(ソース:日経新聞 2012/3/14)
*
2012年度の開館を目指す薩摩藩英国留学生記念館。
まじでか!
家に長沢の写真はあるんだけど、この人については何も知らないので何も書けません^^;
鹿児島中央駅前に銅像あるよね、位しか…
ここをのぞいて下さっている方で興味がある方もおられるかなと思って。
薩摩藩留学生、好きな人多そうやしな〜^^
こんなニュースがあったよ、という感じで今日はお願いします。

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いつも拍手ありがとうございます!
メドがつきました。
そろそろメールフォーム停止解除できそうです。はい。半ば青色吐息です。笑。流石に疲れた…
お待たせしている方への返信もそろそろ着手できそうですので、もう少しだけお待ちくださいませ。
あー…これでやっと机の上の本の山から解放される…
今日は特に何か話題がある訳ではなく残念ながらこのお知らせだけ。
びっくりしました。
この時代でこういう話の流れのドラマって今まであったんでしょうか。
佐藤義清がまるきりストーカーでした。怖ええええ…
その一線は越えてはいけなさ過ぎる^^;
●系図
人間関係がどんどんややこしくなっていきます。毎週言っているな、これ。笑。
ここを押さえておかないと、後で話が分からなくなります。
この時代のややこしさは、保元の乱に向かういざこざが同時進行している所にあると思う。
いざこざ=皇室、摂関藤原氏、平氏、源氏の家族の争いね。

前回生まれた皇子が躰仁(なりひと)親王。
ドラマでは美福門院の出自が低いため皇太子となれず、関白藤原忠通に図ってその子、聖子の養子となっていました。
聖子は崇徳天皇の中宮になります。
先週言われていましたが、当時このご夫婦には子供がいなかったんですね。
一方、外戚になる忠通にも男児がおらず、弟の頼長を養子に迎え(させられ)る訳ですが、その後男児が生まれてしまう。
1156年の保元の乱は、要するに上流社会の相続争いです。
●雅仁親王元服
保延(1139)5年12月27日元服ということで、雅仁親王こと後白河の生年を調べてみると1127年。
12歳。あれで。
いやいや。それは分かってました。子供だという事は。姿見れば丸分かりです^^
元服は現在で言う成人式ですが、12〜14・5歳くらいまでに済ませます。
何が変わるかというと、髪型が大きく変わるんですね。
前までの髪型は多分 みずら で良いと思うのですが、元服すると髻(もとどり)を結うようになる。
この元服式を加冠(かかん)の儀といって、この時から冠を被るようになります。
で、先日書いた『人前でパンツ脱いでる状態』ですが、成人した男性が髻を隠さずにいる状態を露頂と言います。
露頂の状態
これが人前でパンツ脱いでる状態。
なので、時代考証的に言うとこの時代のマンガの多くでは皆フリチ…げふんげふん パンツ脱いでる状態で恥いるようすも見せず生活している事になります。笑
あんたたち楽園追放される前のアダムか。
この辺り、厳密に描かれていたのは私が知る限りでは岡野玲子の『陰陽師』位です。
博雅が恥ずかしいという表現をしていた。こういう所であーよく調べてあるなーという事が分かる。
ただ、これは清盛達の生きた平安末期でも同じ感覚なのかな…
ちょっと分かりませんが、ごく親しい人の前なら露頂もOKというのを見た事もあるので、一概にこう、とも言えない気がします。
難しいね。
ついでに言うと、この加冠の儀の際に冠をかぶせてくれる人の事を冠親といいます。
何週間か前に清盛が元服していましたが、その時は冠ではなくて烏帽子をかぶっていました。
武家なので侍烏帽子ですね。あの烏帽子を被せてくれたのが烏帽子親になります。
で、元服の際の雅仁親王のフリーダムな行動に皆さんどんどんびきびきどーんびき どんどんびきびき ハッ!(回る)
佐藤義清が救いようがないと随分けなしていましたが、あれは当時の周囲の皆さんの人物評です。
ドラマの清盛や高階通憲(信西)のように見込みがある、なんて人は多分いなかっただろう。
後年、清盛の最大の障害として立ち塞がる人物が後白河であるから、そういうドラマ的な表現をしているのだと思います。
今様の話は先週書きましたが、あまりに凄くて「今様狂い」とか言われていた。
父の鳥羽院からも「あれは天皇の器じゃねーなー」とか言われてさ。だから余計に気楽に遊びまくるんだろうね。
そんな感じなので帝王学を叩きこまれた訳でもなく…
私のこの方に対する印象は、鵺とかそんな感じなのですが、この若い頃のあり方が大きかったんじゃないかなあ。
●藤原頼長
なんかね、最近彼の関係でブログにこられる方が増えてます。検索で当たるみたい。
こらそこー!調べたい内容は全部まるっとお見通しだ!ホモネタだろ!(こら)(笑)
うんうん。はっきり言って面白いよね。
なびかない相手をなびかせるために陰陽師に祈祷させたり新しいカレをゲットするために交際2年目のカレと一緒に家にまで押し掛けたりラブレター送ったり呪符携帯したり3Pに及んだりお願いそんな事に陰陽師使わないであげて(棒読)。
私も興味はあるしすっごく面白いと思うけど。
そう言う事だけじゃなくて、実在した歴史上の人物なのだからどんな人であったのかも知って欲しいと思うんです。
それに当時男色は上流社会では普通の事なんで。
それにこの院政期の頃って、ある意味男色のピーク時なんです。
好む好まないに関わらず、肉体関係を結ばないと出世できない例もありました。
後白河なんてまさにそうで、自分と男色関係にある近臣をどんどん取り立ててる。
この方、印象としては本当に手当たり次第で、源頼朝も子供の頃は後白河の相手をしていた可能性が濃い、という研究もあります。五味先生。
公家など貴族の子供がお寺に稚児として預けられた場合は、まずほぼ100%経験してます。
稚児ってそういう対象なんです。
じゃあ平家の公達殆どそうじゃん、といわれたら、殆どそうですとしか答えざるを得ない。
ぶっちゃけると、清盛の父親忠盛、ドラマで非常にカッコいいですけど、白河院に体を差し出したから出世したという話もあるんです。
気持ち悪いとか特異とかではなくて、そんなもんなんです。
保元の乱は、それぞれの家督争いが大本にあるのですが、度を過ぎた当時の上流社会の男色関係も決して無視できるものではないと思います。
要するに男色が絡んだ権力争いでもあるっちゅうことだよね。
でも「夜の関白」とか研究書で出てくると(※史実)、「どんなBLだよ」と思わず吹いてしまうのも事実(笑)
でも!
頼長が男色の代名詞のようにしか扱われない事に悔しさを感じるので。
検索で引っかけてこのブログに来た人、読んでくれ。笑。これは一部よ。こういう面もあったのよ。
頼長は腹黒い”悪”左府と言われる一方で、非常な勉強家、高い学識を誇る人物で、
日本一の大学生、和漢の才に富む
と言われた。だい・がくせい ではなくて、 だい・がくしょう です。
当時の学生とは学者の事で、つまり頼長は「すごい学者」だと言われていた。
子供の頃から頭は良かったようです。
そして和漢問わず、ものすごい読書量。ものすごい勉強家。
寸暇を惜しんで勉強する。博覧強記とはこの人の事をさします。いや、本当に。
この時代の人の常として、日記をつけています。頼長の場合は「台記」。別名「槐記」。
この日記の1年の最後にその年に読んだ本が挙げられたりもしていて、中でもすごいな、と思うのはですね…
歴史書を学ぶ暇がないので、康治2年春より食事中と入浴中に、
家の書生5人に命じて交代で『南史』(南朝の歴史。全80巻)の要点を読ませ、これを3度繰り返す。
11月16日に一応終わり、翌日からそのテストをした。時間がないので入浴中に行う。
方法は書生に南史の主要な所の初めの文を読ませ、自分が後を答える形式。
80巻から591題を問われたが、覚えていて答えられたのは285題のみ。
半分にも達せず実に恥ずかしく、翌日からまた書生に読ませることにした。
この知識欲。どこから来るんでしょう。
康治2年と言えば1143年。頼長23才の頃です。このドラマの時間軸で言うと、4年後の話。
こういう一面もある人だった。
ドラマでは落ち着いた、やや凄味のあるヒールになっていますが、結構いい感じだなと思いながら見ています。
このドラマはディテールがバランスよくちりばめてあるな、と感じます。
頼長と清盛の初対面ではオウムが出て来ていました。
今回も頼長の室にオウムが出ていましたが、史実です。日宋貿易で孔雀と一緒にやってきています。
当時のオウムも喋っていたようで、頼長の日記には
「人間の舌と似てる」
「喋ってるのは中国語?だから分からないのか?」
「羽根を広げた孔雀、絵で見た通り!」
とか、そんな事が書いてある。
●出家
佐藤義清の出家にしても、同じ事を思いました。
娘ちゃんを縁側から蹴り落としていましたが、ああいう所で入れるのか、と素直に感心した。
元は「出家を思いとどまって」と追いすがる娘を思いきるために蹴落とす、というエピソードだったと思います。
義清は鳥羽院の待賢門院への態度を見て、
「愛しい故につき放す」
と言っていましたが、これって自分の娘を蹴ったこともそれにつながるような。
今回の義清と清盛の別れの話は好きです。うん…ああいうの大好きなんです…笑
西行法師はまあ、また気が向いたら書こうかなあ…
●源氏
散々ですなあ。我が祖父も検非違使としてそれなりに働いていた、とか。
ちょ、頼朝酷すぎwww
毎回「今回のドラマと史実」みたいな感じですけど、どうなんだろう。
興味持って読んでいる人いるのだろうか…というか、ドラマ見ている人がどれだけいるのか、という^^;

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いつも拍手ありがとうございます!
上記したように異様に頼長×アレなネタで来られる人が…
それでちょっとぐぐっていたらあるコピペ(2ch)に出会いました。思わず吹いた。以下転載してみる。
確かにね…面白いんだよね、こういう話…
そっち系ですので、苦手な方閲覧注意。
****
6 : ウホッ!いい名無し… : 2008/09/22(月) 03:36:32 ID:AoHY7zg3 [1/2回発言]
61 名前:1/2 投稿日:2007/11/04(日) 23:00:17
頼長というとこのコピペを思い出す
18 名前:日本@名無史さん[] 投稿日:2006/10/21(土) 16:38:30
平安の大物ホモ藤原頼長の日記「台記」の研究を読んでるんだけど
「受領讃」こと大僕卿孝標とかいう男が笑えた。
孝標日記(仮)
1. 頼長から手紙でしつこく言い寄られる。うざい。無視。
つーか俺には愛する妻もいるし。
2.このまま無視し続けるつもりだが、どうやら
俺とヤりたいがために坊主に加持祈祷までさせてるらしい。キモすぎ。
3.元上司の藤原忠雅さんは頼長の愛人の1人だったらしく、
俺と頼長の仲を取り持ってポイントを稼ごうとしてやがる。
これはかなり断り辛い。最悪。
4.しかたなく1回だけ会ってやる。会うだけだ。
それに忠雅さんも同席してもらって3人で。妙なことにはなるまい。
5.忠雅さんが頼長と別れたらしい。なんかかなり嫌な予感がする。
6.頼長のやつ調子にのって、今度は陰陽師に祈祷させてるらしい。テラキモス。
つーかストーカーだろ完全に。
1度会うだけの約束だったじゃねーかよ。祈祷のせいか最近夢見が悪い
7 : ウホッ!いい名無し… : 2008/09/22(月) 03:37:03 ID:AoHY7zg3 [2/2回発言]62 名前:2/2 投稿日:2007/11/04(日) 23:05:01
19 名前:日本@名無史さん[] 投稿日:2006/10/21(土) 16:39:09
7.久しぶりに忠雅さんから呼び出されたので、
何の用かとおもって家まで行ったら、ニヤニヤした顔の頼長がいた。
畜生、ハメられた。
って言うかこの日は忠雅さんの手前、断りきれずに
とうとう実際に「ハメ」られてしまった。ケツが痛ぇ……。痛ぇよ…。
8.妻が難産で死んだ……。子供も死産だった。欝だ。俺も死にたい。
とか言ってる矢先に、玄関先まで頼長が来てるらしいと従者から連絡が。
馬に乗って駆けつけてきたらしいが「空気読め」と百万回言いたい。
なんでこんな奴が藤原氏の氏長者なんだクソが。
馬より鼻息荒らそうで想像するだけでキモい。顔も見たくない。
もちろん追い返すように従者に言った。はぁー。
8.妻が死んでからは頼長も言い寄ってこなくなった。
さすがに俺の胸中を察してくれたのかな。
噂では今は年上の男と乳繰り合ってるらしいがもうどうでもいい。
9.と思っていたが妻の四十九日が終わった直後、
忠雅とさん一緒に頼長がうちまで押しかけてきた。
思わず警戒したけど普通に2人してお悔やみを言って帰って行った。
ホッっとした。意外と常識はわきまえてるんだな。
10.俺が甘かった。2日後にまた、頼長が今度は1人でうちまで来やがった。
もちろんまた俺のケツを掘ろうと必死に迫ってきたよ……。
開き直って交換条件を出したらOKしてくれた。
クソーこうなったらとことんコイツを利用して出世してやるしかねぇ。
ヤケクソだ。
なんかこんな感じだったw
続きが気になる人はヒストリア84号を読もう。
真面目な論文なんだけどそれだけに妙に生々しい。
*****
うん…
史実……だと……
(※藤原忠雅さん…交際2年目のカレ)
外出先で地震が発生した時間に黙祷しますという放送が流れました。
年齢性別問わず1分ほどその場にいた人ほぼ全員が黙祷してその場が静寂に包まれていた。
私は17年前に阪神淡路大震災を経験しましたが、去年起きた地震はそれとは規模も質も全く違っていました。
私は被災したとはいうものの、家は半壊、時間が時間だったので家族も全員揃っていたし、皆まだ蒲団の中だったので運よく誰も怪我もしなかった。
だから、大震災を経験したと言っても去年被災した方々とは”経験”の中身が全然違うと思う。
気持ちが分かるなんて言えないし…ましてや頑張ってだなんて口が裂けても言えない。
今以上にどう頑張れと。
地震から1年が経ち、今自分に何ができるのかと思うのですが、何も出来る事がないんだよね…非力過ぎて…
でも、以前ブログもサイトももう止めてもいいかなみたいな話を書きましたが、出来るだけ続けないとダメだなと思いました。
それというのも、震災後、電力不足だという話になってネットでも自粛ムードが広がりました。
私のサイトやブログは生活に必要な内容ではないし、あの雰囲気の中、更新は控えた方がいいかなと。
でも少し考えて、こんな時だからこそ通常通りにしようと思った。
そうは決めても実はすごく心苦しかったです。
だってあんな中、いつも通りにいつも書いている事を書きつづる事がどれだけ難しいか。
多分ブログ等でなんらかのものを発信している人は、みんなそうだったと思う。
ただ、その時もメール等でそうして欲しいと言って頂き、また先日アンケートでも通常回転していたのでここに来るとホッとしたという声をかけて頂いて。
こんな気まぐれな場所でも少しでも誰かの、何かの役に立てるんだなと思いました。
1年経ちそれを思い出し、また思い直しました。
それなのにダメだよね。あんまりマイナスの言葉を吐いたら。
東北の話では止めているものもあります。さぼってしまっていますが、ちゃんと続きを書くつもりでいます。
私に出来る応援はこれしかないと思うから。
昨年の震災で亡くなられた方の御冥福をお祈りします。
一日でも早い復興がなされますように…
昨日の日記、もの凄く変な切れ方してますね。
もー本当に眠たくて書きながら船を漕ぎ、何度か机に突っ伏しました。
変な感じの文章ですが、そんな変な内容を書いてなくてほっとしました ^^A
昨日UPしたのは「平安ライフ」と「平安スタイル」の2ページです。
前者はほぼ全面書き変え……と言いますか、ほぼ元の形がありません…
元々1話であった貴族の生活、食生活の話とお風呂等衛生の話を、分量が多くなったという理由で2分割しました。
今回更新したのは食生活の方。
このページで生き残ったのはお酒の話と糖尿病の話くらいじゃないだろうか。
平安中期、藤原道長や紫式部といった「いかにも平安時代!」の人々がどういう食生活を送っていたのか。
興味がある方は是非覗いてやって下さい。
藤原氏の全盛期を築いた藤原道長が糖尿病で亡くなった事は有名ですが、あの最期を見ると本当に壮絶です。
絶対に糖尿病で死にたくない。(と思うような亡くなり方をしている)
亡くなる10年ほど前に糖尿病からくる白内障で目が殆ど見えなくなり(目の前にいる人の顔が判別できない)、手足には痺れが出、亡くなる少し前にはトイレにも自分で行けなくなって失禁を繰り返し、背中には女性の乳房程の腫れものが…
医者が溜まった毒気(膿かな?)を抜くために針をさすんですが、僅かに膿と血(と絶叫)が出たくらいで何の解決にもならず、その後すぐに亡くなっている。
その上心臓病だか狭心症だか、とにかく胸の病もあったようです。
今回の更新では削ったのですが、昔読んだ本には脚気を患ってもいたという記述もあってだな…
手足の痺れというのは脚気の症状でドンピシャですなあ。
糖尿病予備軍の人にこの辺りの話印刷するか何かして渡したらいいんじゃない?と私は思う訳です…
気持ち上の予防になりそう。
「平安スタイル」の方は髪型の話になります。
これは昨日も書いたようにイラスト以外は触っていません。でも一番この話が好きなんだよね…(笑)
自分で書いていてなんですが、平安時代や歴史に興味がない方が読んでも、結構面白い話だと思います。
キーワードは「パンツ脱いでる状態」です。
今の感覚から言うと、なんで”あれ”が”パンツ脱いでる状態”(でいる位恥ずかしいこと)か、理解しがたいです。
だって、そうだと今みんなパンツ脱いでる状態だぜ!^^;
昨日書いた事ですが、1000年違うと、本当に色んな事が違う。
生活は勿論、心のあり方とか、ものの感じ方とか…
以下閲覧注意
平安時代で、え?と思うのはですねえ、生活の違いもさることながら、平安京の汚さです。
中世ヨーロッパがどれだけ汚かったか、ご存じの方も多いと思いますが、あれを少しマシにした感じじゃないかなあ…
尾籠な話ですが、庶民は路傍排便なんですよね。
大の方は一応場所が決まっていたみたいですけど。トイレ的な施設も一部にはあったようなのですけど。
溝に流すにしても、平安京は一応都市ですので、人口が多く溝で流せなくなったりとか、鴨川が氾濫した時とか…
いやいやいやムリムリムリ!
…ぞわっとする話です。
それに死体も目にする機会が多くてだな、ちょっとびっくりするけど、内裏の中を犬が人の腕を銜えて走っていたり、ふっと庭に目をやったら人の首が落ちていたりする(貴族の家)。
あーうんうん。あるある。よくある。
……。
……………。
………………ねーよ!
と突っ込みたいですけどね…
ハイ…あるんです…
中流の家なんかで使役している人間の中に病人が出たら道端に捨てます。
で、捨てられた方は物乞いなんかをする訳ですが、やがて餓死する。
死体はそのまま路傍に放置され、それを犬が食ったり鳥がついばんだりする。
食い残された頭なり腕なり足なりが犬によって内裏だったり貴族の家に運ばれてくる。
道長の時代の話です。源氏物語が書かれている時代の話です。
同時進行している世界とは思えません。
そりゃあね、こんな世界じゃ疫病だって流行しますよ。
ただ、最近調べていて思った…というか、認識を改めた事がありまして。
平安時代の貴族、自分が思っていたほど不潔ではなかったみたい。
従来言われている
「平安時代の貴族=ほとんどお風呂に入らない、髪の毛を洗うのは1年に1度=不潔」
この認識、恐らく一般的な認識でいいと思うんですが、これ、間違ってる。
道長のお爺さんが子孫たちに残した教訓では”風呂”には5日に1度入れといっていて、
また行事がある度に小浴を行っている。
風呂というのは蒸し風呂の事。要するにサウナです。
汗をかいて汚れや垢を浮かし、小枝や着ている湯帷子(ゆかたびら)でそれを落として、水なりぬるま湯なりで流す。
小浴は要するに行水ですが、この場合は精進潔斎とか、そんな感じ。
汚れを落とすというより、穢れを落とすことが主目的。
とにかく、サウナと行水を入れると2・3日に1回は体を清めているのね。
体を洗う事や洗髪に関する認識は、今を基準にするのは大間違い。
特に毎日頭を洗う、なんて恐らくこの半世紀位。
お風呂を焚くには経済力がいる。大量の水(を汲む労力)と、その水を沸かす燃料(費)が必要。
そんな事戦前では難しくて、近所にもらい湯や銭湯に行くのが普通だった。
『坂の上の雲』(小説)でも、秋山真之がお母さんをおぶってもらい湯に行く場面がありましたが、あれはありふれた風景だった。
昔から言うと、今のきれい好きは異常。
だから、2・3日に1度のサウナ&行水でも、当時からするとかなり清潔な感じだと思う。
何故そんな誤解が一般認識になったのかが不思議ですが…
勝手に不潔だと思っててごめんね、という感じです。
ただ、今のように石鹸などがないので、脂がきれいに取れたか、においがきれいに取れたか、と言われたら、正直な所どうだろうと思う^^;
まあ、においの方はその為にお香があるという事もありますが、貴族のお屋敷から一歩出たら上記のような感じなので、もしかしたら大して気にならなかったんじゃないだろうか。
糞尿臭や死臭の中を馬や牛車に乗って行き来するんだぜ…
時代は隔たりますけど、そう考えたら今の大河ドラマ、あれでもまだ滅茶苦茶きれいだと思うよ。

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いつも拍手ありがとうございます
サイト更新です。
先日来ちょこちょこと触れていた「平安ライフ」、加筆修正でUPし直しました。
頑張りました。(大声)(笑)
…いや、はい…頑張りました、じゃなくて、まだ頑張ってます…
うん。この話、実はまだ続いてる^^;
元々そんなに分量のある話ではなかったのですが、つらつらと書いていたら思ったよりも長くなってしまったのでふたつに分けることにしました。
今回更新したのがその前半、平安時代の貴族のご飯の話です。
こういうの。
うん。一見おいしそうというか、ご馳走というか。そう見えるんだけどね…
調べていて思うのは、1000年経つと随分感覚が変わるんだな、という所です。
まー1000年だもんな!^^;
今回の更新分でも書いたんですが、当時はご飯にお箸を突き立てるのがお作法でした。
ちょっとびっくりするよね。
今だったら人が亡くなった時の枕飯位でしか見ない。
あとは神様にお供えする(神饌)とか、そういう辺りですか?
座り方ひとつをとっても、平安時代の女性だと正座はしていない。
立て膝か胡坐が正式な座り方です。
まあ、物理的に十二単などの衣裳では正座できなかっただろうとは思いますが…(^^;
正座は室町時代、茶道からですよねえ。
それでも戦国時代や江戸の初期ごろならまだ女性は立て膝だと思う。
それに平安時代だと身分の高いお姫様なんかは、室内であっても立って歩く事はしませんでした。
膝行(しっこう)といってね、膝で進む。
膝をついたまま進むというのではないようで、武道の蹲踞とか和室での膝行のイメージなのかなと勝手に思っているんですが。
平安時代だと高貴な女性は自分の部屋で人生のほとんどを過ごすことになる。
裾の長い着物、丈なす黒髪、活動的とは程遠い。
奈良時代はまだ建物が独立していたので、違う建物に移動するには歩くか、輿に乗る必要があった。
平安時代になると建物が廊下で繋がれたので、移動する際着物を地面に引き摺らなくなり、裾がどんどん長くなる。
更に女性は家族以外にむやみに顔を見せるものではない、ということになり、益々家の奥に引っ込む状態に…
『はだかの日本史』という本によると、当時の貴族の寿命の平均は男性32才、女性27才だそうです。
食生活が偏っている事もありますが、何より不健康だよね。
病気になっても医学に頼るのでは無くて加持祈祷だし、それでは治るものも治らない、という場面が随分あったのではなかろうか。
今の常識からすると、感覚的に理解できない事も多い。
ただこの”今の”というのが、歴史を考える上ではいつもネックになるなあといつも思います…
「平安スタイル」の方は今回は特に触りませんでした。
武者スタイルの方を少しいじろうかと思ったんですが、今手をつけるとそれこそえらい事に(笑)
うん…実はあの話、途中で終わってるんだ。ははは。
今年は大河で清盛を放送している事ですし、あの続き話は今でなくてもその内したくなるだろうと思って今回は放置。
ただイラストだけはきれいなものに差し替えました。
ボケていたのでスキャンし直した。

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>なかむらきりのさん
つ、使ってるんですか…!私は大体1枚しか取っていないので使えないです(笑)それにメール便を使うようになってから切手を使う場面が殆ど無くなってしまい、使ってもいい用に置いてあるものまで使えない始末…^^ それはそれでどうしようかな、という感じです。笑











