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移転しました(2014/1/1)

財部彪の話(2)

2013-07-01 | ヒストリ:近代MTS

大丈夫、生きてます。

御無沙汰ぶり過ぎてすんません。
もう少ししたら財部彪の話を書いて1ヶ月近くになろうとしていることにgkbr。
何の話を書いていたかとか書くつもりだったのか自分でも軽く忘れてました。ははは。
途中まで書いてた元寇…じゃなかった原稿(大袈裟)が残ってて良かった。なかったらそのままフェイドアウトの憂き目でした。 
   
~前回までのあらすじ~

財部彪 … 妻が山本権兵衛の長女。山本家の尻拭い担当。岳父が海軍のボスだったり藩閥の重鎮だったりマイホーム資金も融通してもらっていたりと色んな意味で雁字搦め
岳父・山本権兵衛 … 海軍は上手く育てたけれど怒らない教育で子育ては失敗気味。子供に甘過ぎ
婚姻関係での繋がり … 相婿の父・養父に松方正義、西郷従道、上村彦之丞がいる
財部君誰がどう見ても薩摩閥の後継者ですありがとうございました。
  
財部彪、明治42年に他にいた候補を押しのけて海軍次官に大抜擢。能力、卒業年、藩閥、諸々の絡みからか。
それまで軍令系統の勤務が主で軍政系統での経験なし。
畑が違い過ぎてどうしよう。←今ここ

~ ~ ~ ~ ~
 
財部は自分が次官に就任予定と聞いた際、
果シテ務マルベキヤ覚束ナシ」(M42/11/28)
こういう感想を残している。
そりゃそうだろ。不安過ぎる。
しかしながら上司である斎藤実海軍大臣はそんな財部に対し「一生懸命やればできるから頑張れ」と言って励ましています。
  
https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/1c/ec/7a316de1b28970bcb9d8065d0cf3c029.jpg?random= すげー大雑把なアドバイス(になってない)w

しかしながら斎藤にはそう言えるだけの事がある。実は斎藤、財部にとっては生きた実例なんです。
というのもこの方、10年程前に全く同じ目にあっていた。

明治31年、山本権兵衛が海軍大臣に就任した際、次官に抜擢されたのが斎藤です。
大佐に昇進してからまだ1年も経っていない不惑。滅茶苦茶若い。次官は少将というのが慣例なので、本当に異例の大抜擢だった。
ちなみに佐官で次官になったのは斎藤が初めてで、斎藤が最後。
  
とはいえ、励まされても当の財部は流石に辛い。
前回書いた事情で慣れてないから要領が分からない。
上手くいかないしその上忙しいしで、次官就任から2・3ヶ月経つと体が悲鳴を上げ始めた。
疲れは体の一番弱い所に出ると言いますが、財部の場合は胃腸だったようで半月ほど下痢が続く状態が数ヶ月続いている。
その状況を見た山本権兵衛が流石に心配して、財部にこういう話をしています。

https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/3f/50/97e171effa7ce7171775578feab7c671.jpg?random=1e5ce975b42689cd2785685f90c43380

大人(※山本)ガ海軍省主事トシテ(西郷、伊藤雋吉、仁礼氏等当局ノ時分)苦心ノ際、
午前八時ヨリ十二時迄山県将軍ト論戦シ、又午後一時ヨリ十一時迄井上馨、井上毅ノ二老ト論戦激烈ナリシトキ、
流汗頭痛嘔吐等ヲ催フシ屡々数刻モアリ。
大臣トナリタル後斯ル事無キニ至レリ (M43/05/10)

明治25年だと仁礼景範が海相、伊藤雋吉が海軍次官、西郷従道が予備役。
明治26年だと西郷海相、伊藤次官、仁礼は予備役だなー…
 
時期的に見て対清戦争に向けた第2期軍備拡張計画(明治25年からスタート)の話だと思う。
山本が官房主事として海軍の行財政整理と大リストラを断行したのがこの時の事で、これを切欠に山縣有朋(当時枢密院議長)や井上馨(同内相)、井上毅(同文相)らに認められるようになっています。
というかこの3人、当時海軍行政整理取調委員だったみたいで、それで説明や論戦や話をする機会ができたようです。
  
しかし、「流汗頭痛嘔吐等ヲ催フシ屡々数刻モアリ」、これですよ。
そんな風には思えなかった。
山本権兵衛といえば図太いイメージで、余裕綽々と言うか、「ああ゛?そんなら海に橋掛けてみんかい陸軍さんよォ」的な(……)、自信に充ち溢れた感じだったのでこれには少し驚いた。
当時山本も40歳そこそこです。
幾ら肝の据わった人とはいえ、国家の元勲元老を相手に国防や建艦費の論戦を交わすのは常ならぬ緊張だった模様。

 
斎藤も山本も財部に言った事は、要するに「頑張って慣れろ」という事だったかと。
財部としては1年目は右往左往だったものの、2年目には頑張って慣れたせいか、随分余裕が出てきています。
これは自分でも自覚があったようで、去年と比べるとマシという表記がちょこちょこ見られるようになる。
まあ、元々賢い人だったというのもあるのだろう。
 
『海軍の本』だったと思うのだけれど『財部彪日記』の書評が載っていて、評者曰く財部は「まるっきり山本のメッセンジャーボーイである」。
確かにすごい頻度で山本権兵衛宅に伺ってるのね。
家が近いという事もあると思うのだけれど、それにしてもすごい頻度。2・3日に1度は妻の実家に顔見せ。
仕事上の相談は、次官就任時には恐らくかなりしていたと思う。

そういう事は直の上司である斎藤実にしろよという話だけれど(実際斎藤にも相談しながらやっていこうと言われている)、財部の斎藤を見る目は「大臣ちょっと頼りねーなー。もっと強気で行けよ」という感じ。
いや、腹壊しまくりの新任次官には言われたかねーだろそれw
大臣と次官ではやっぱり立場が違う。
斎藤の立場からすると海軍の意見だけを推していればいいというものでもなかっただろうし、その辺り部下から見たら弱腰だと感じる事もあったのではないかと思う。
 
それに斎藤は薩摩の人じゃないし、という感じもある。
ここで「ああ、そうか」と思ったのだけれど、実は斎藤の妻・春子は仁礼景範の娘なんである。
山本に抜擢されて、山本が媒酌人で、妻が薩摩出身元海相の娘でも薩摩閥の一員とはみなされないのか…
 
日記には相婿の山路一善がよく出てくるのだけれど、海軍に長州人台頭の動きが云々とか、あれは薩摩の妨げになりそう云々とか、露骨にそうした話をしている部分がある。
山路は松山出身。
松山藩は長州征伐の時に長州と敵対していて維新後も色々と冷遇されるような面があったようだし…
山路が殊更にそういうご注進めいた事をしていたのは、もしかしたらちょっとした疎外感があったからじゃないか。

山本は上記の人事刷新で随分薩摩以外の人間も登用した人物だけれど、山本本人が藩閥についてどう思っていたにせよ、旧藩からの人的繋がりは本当に強固。
そりゃ元々が家が近所で幼馴染とか先輩後輩とか親族とか、そんなんだもんなぁ…
つるむなという方に無理がある。
婚姻関係を結んだと言っても他県出身者が容易に入っていける世界ではなかっただろう。
 
更に読んでいて驚いたのだけれど、滅茶苦茶情報が早いのよ。
財部が今さっき知った事、知人宅に集まっていた薩摩人たちは既に知っていて、もうそれに付いて話し合ってる。
財部にしても政府の中枢人物に近いだけあって、結構色んな内情を聞いている。
口が固くないと絶対に無理だし、これはもうね、下手な人間を輪の中に入れられませんわ。

酒乱の如く酔っ払って来客中に押し掛けた挙句来客にまで迷惑掛けるとか、山路、それじゃやっぱり大丈夫かこいつと思われるよ^^;(藩閥以前の問題…)
 
  
もう少し続く。
 
 
確認で山本権兵衛の年表が無いかとウィキを見たら、行財政整理と人員刷新が軍務局長時代・日清戦争後の事とされていた。
戦争前後を間違えるならとにかく、何見ても官房主事時代ってあるのになあ。



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