藤原清衡が平泉に進出したのは1099〜1104年、若しくは1094〜96年の間と言われていますが、前者1099〜1104年というのが一般的に言われている事かと。
その約10〜15年程の間、清衡は平泉に出て来るまでの準備をしていたのではないかという事を以前書きました。
1088年 後三年の役終結
1099〜1104年、若しくは1094〜96年 平泉へ進出
1105年 中尊寺造営に着手
1124年 金色堂上棟
1128年 藤原清衡死去
何をしていたかというと摂関家に接近したり(荘園の現地管理者に)、天台宗・比叡山延暦寺と繋ぎを取ったり。
政権の安定を図るために、現地でも動いていただろう事は容易に想像出来ますが、その他に中央の権門に接近するなど、地固めをしていたと言ってもいい期間だったのではないかと思います。
その他、清原から藤原姓への復帰、陸奥国押領使への補任など、着々と足元を固めているように見える。
その一方で京都に目を向けると、朝廷が北方政策を転換したりしていまして(軍事支配の放棄)、これは時代も良かったんでしょうね。
平泉には歴代の御館が寺院や館を構えた事が知られていますが、清衡の時代のものは平泉館と中尊寺のふたつ。
中でも中心になったのは中尊寺です。
中尊寺は平泉の色々な意味で中心なんです。
清衡が白河(福島県)から外ヶ浜(青森県)までの奥大道に1町おきに笠卒塔婆を建てたが、その中心が中尊寺であるという事も紹介しました。
距離的な事を言えば、奥州の中心が平泉の中尊寺。
奥大道は今でいう国道です。国道4号線とでも思って下さい。
それが中尊寺の境内を通っている。
奥大道を通って平泉以北に向かおうとすれば、誰もが中尊寺の境内を通る事になります。
笠卒塔婆に関して言えば領地を明確な形で示すという意味もあったでしょうし、
奥大道が通る境内に関して言えば、誰が支配者かをしらしめるという意味でこれ以上の政治的なパフォーマンスは中々なかったのではないかなあ…
また清衡は在世中に陸奥と出羽の1万余の村々それぞれに仏教伽藍を建立し、仏性燈油田を寄進したという話も残っています。
それら仏閣の中心も勿論中尊寺。
笠卒塔婆や仏教伽藍などは『吾妻鏡』の記載によるのみで疑問視する声もありますが、要するに中尊寺を頂点として、仏閣、仏教を通じて奥州を掌握しようとしていた。
そういう感じらしい。

これを見ていると随分と平和的な政権だなあと。
実際にはそんないい所ばかりではなかっただろうと思いますが、まあ、その中心になった中尊寺。
それを清衡がどういった思いで建立したのかというと、それが『中尊寺建立供養願文』になります。
ただ供養願文には問題がありまして、それはどういったものかというと「これ、中尊寺の願文なの?」という、めちゃめちゃ根本的な…^^ゞ
原本ではなく鎌倉後期、南北朝時代の写本(2本)であること、願文に中尊寺という名称がないこと、書かれている伽藍と当時の中尊寺の伽藍の遺構に相違点があること、と色々と「?」な点が。
特に伽藍の点から毛越寺のものではないかと言われているのですが、これはこれで問題がある。
正直な所良く分からない、というのが現在地なのかと思います。
ただ「大伽藍」とだけ記され中尊寺という名称がないのは当時の作法に則っただけで、別に怪しむようなことではない、ということも言われていて、もう少し発掘調査ができれば、という感じではあるようです。
うーん。
しかし供養願文に関して記載がある手元にある数冊が悉く10年ほど前の本なので、最新の考え方がどうなっているのかが分からない。笑。
供養願文
ただ疑問は残るものの供養願文に書かれている理念というか、想いは、どの学者も否定しえないようです。
平泉に関してはあれこれ読んできましたが、どうもそんな感じがする。
それにこれが平泉を世界遺産登録へと向かわせた根本にあるものだと思います。
どういう事が書かれていたかというと、これは以前紹介しました。
というか、このブログでは触れるのが何回目かになる筈です。
世界遺産登録の時にもあちこちのメディアが触れていましたが、その元になっているのがこれ。
供養願文にはどういったものを造立したかが書かれているのですが、その内のひとつ、『二階の鐘樓一宇』という項目に、以下のような説明がついている。
二十釣の洪鐘一口を懸ける
右、一音の及ぶ所、千界に限らず、苦しみを抜き、楽しみを与う
あまねく皆平等なり
官軍と夷虜の死すこと、古来幾多なり
毛羽鱗介の屠を受くること、過現量りなし
精魂、皆他方の界に去りて、朽骨なおこの土の塵となる
鐘声の地を動かすごとに、冤霊をして浄刹に導かしめんことを
二十釣の洪鐘一口を懸ける
この鐘の音は世界のあらゆる所に、生死するもの全ての上に平等に響き渡り、
苦しみを取り除き、喜びを与えるものである。
奥州では古来より数え切れぬほどの官軍と蝦夷が命を落とし、
また限りない毛羽鱗介(獣、鳥、魚等の動物)も犠牲となった。
その魂は今や他界へと逝ったものの、骨は朽ちて塵となりこの世に留まっている。
この鐘の音が大地を震わせる度に、彼等の、命を奪われしものの魂魄が
救われんことを、浄土に導かれんことを
これは清衡じゃないと言えなかったかもしれないなあ…
政治的にどうこうとか、そういう事を云々する前に、本当にそうだったのだろうなと思わせる力がある。
今迄見て来たように、清衡は前九年の役で父や伯父、従兄を喪い、母がその仇清原氏へと再嫁。
後三年の役では弟に家族を奪われ、もう一方の父の仇と手を組んだ挙句その弟も戦死させている。
清衡は戦争を指揮する立場にいた人ですが、
戦はもう沢山だという気持ちは持っていたでしょうし、争いごとの後の虚しさというのも、骨身にしみていたのではないかと思います。
ただ見ていて凄いなと思うのは、浄土に行って欲しいという想いは、亡くなった自分の家族に向けてだけの話ではないんですよね。
もう少し大乗的な感じ。
「官軍と夷虜の死すこと、古来幾多なり」という一文がありますが、これは本当にそうなんです。
東北は本当に古代から蝦夷と北上征服しようとする大和の争いが絶えなかった。
前九年の役以前で一番有名なのは平安、聖武天皇の時代の坂上田村麻呂とアテルイ、モレの争いでしょうか。
(7世紀頃 渟足柵・磐舟柵設置)
774〜776年 海道蝦夷、宇漢迷公宇屈波宇(うかめのきみ・ウクハウ)が反乱
778年 出羽の蝦夷が朝廷軍を破る
780年 伊治公呰麻呂(これはるのきみ・あざまろ)の乱
788〜802年 朝廷軍、大墓公阿弖流為(たものきみ・アテルイ)と磐具公母礼(いわぐのきみ・モレ)と事を構える
↓ この間、約30年ピッチで乱起こる
879年 元慶の乱
939年 天慶の乱(平将門の乱とは別もの)
これを見ているだけでも大小の反乱が何度も起こっている。
朝廷軍を破ったりもした一方で、長い戦の末に朝廷に謀られて殺されたり、奥州では沢山の命が犠牲になっています。
そうした戦で亡くなった蝦夷も、官軍側の人間も、獣も鳥も魚も、全部ひっくるめて「浄刹に導かしめんことを」、なんですよね。
仏の教えの前ではみな平等。
平泉は仏教都市とか、仏教王国と言われますがさもありなんと思います。
壮麗な仏教伽藍に囲まれた都市であったから、というだけの話ではないんですね…
斉藤利男『奥州藤原三代』を読んでいてへえと思ったんですが、
供養願文の最後には大伽藍一区(中尊寺という意味合いでいいと思います…)は鎮護国家を掲げるといった文言があります。
要するに鎮護国家のための伽藍だと。
このモデルは京都の法勝寺(六勝寺のひとつ)であったと見られていて、これも大きな鎮護国家の寺でした。(白河法皇が作った)
中心仏は毘盧遮那仏(大日如来。東大寺の大仏さんと同じ)、その周囲には五大明王が置かれます。
この五大明王(不動明王、降三世明王他)は、まあ大日如来の使者ですわ。
簡単に言えば、大日如来が言っても分からん奴には明王が憤怒の形相で命令する、みたいな…(大雑把過ぎ)
口で言っても分からん奴には鉄拳制裁か…と思ってしまうのですが(え?違う?^^ゞ)、
だから明王ってみんな怖い顔してる。
憤怒の形相で悪を断じたり、外敵を払ったり、煩悩の根本を降伏させたり、そういう事が役目になっている。
これが鎮護国家ということになると、怨霊の調伏だったり、”まつろわぬ民”といわれた蝦夷の調伏だったりになる訳です。
で、この法勝寺をモデルとした平泉の大伽藍一区、勿論安置する仏様も同じだったのかと思いきや、違った。
大日如来も、五大明王を安置する五大堂も作られなかった。
また中尊寺以外の平泉の寺院、全てにこのスタイルが受け継がれているようです。
斉藤氏によると、平泉仏教の特徴は
「夷賊調伏や王権擁護といったむきだしの国家の論理は徹底して退けられていた」点。
考えたらさ、そうだよなと思うんですが、藤原清衡って蝦夷ですよね。
父親は一応藤原氏に繋がりますが、母は現地豪族の蝦夷、安倍氏。
供養願文でも清衡は自分の事を「俘囚の上頭、東夷の遠酋」、要するに自分は蝦夷だと言っている。
平泉は都市づくりからして四神相応、京都文化の輸入だなんて昔は言われていましたが、これだけを見ても、精神面でも随分と独自色がありますよね…
それが、それまでの歴史の積み重ねの結果ですが。
四神相応にこだわりがなかったわけではないだろうけど、衣川以南という意識の方が強かったのではないかと思うし。
衣川
左に映る山が中尊寺のある関山。もうちょっと手前によれば中尊寺。ほんとすぐ傍でしょ
右の土手沿いには義経がいたと思われる接待館があった。
それまで軍事的、政治的な境界線であった衣川を南下して、こういった精神を中心に据えた中尊寺を奥州支配の中心に置くという辺りに、平泉の独自性があるような気がします。
色々あっただろうけど、平泉は総じて平和国家だよね。
清衡が亡くなったのは平泉に政庁を移して約30年後の1128年。73歳。
亡くなる4年前、1124年には逆善(自分の冥福を祈る。死ぬための準備でいいと思う)として金色堂を上棟します。
で、1126年に中尊寺落慶法要。
それ以前に、恐らくこの10年ほど前かと思いますが、清衡は脳溢血か何かで左半身が麻痺しており、奥さんが清衡の代わりに写経をしたりしています。カリエスも病んでいたようですし、晩年は病気で随分苦労したのではないでしょうか…
というか落慶法要で供養願文を読めたのだろうかという疑問もわくのですが。
ただ『吾妻鏡』には大往生だったと記されています。
秀衡や泰衡の時代にはそう伝承されていたんでしょうね。初代御館は大往生だったと。
科学の力のお陰でそうじゃなさそうだなあというのは分かるのですが、そうだったらいいなと思わずにはいられない。
あの前半生を見て、後半生で清衡が為した事を見ると、彼が希求したのは争いのない奥州、奥州の平和でしょうね。
中尊寺が落慶した際、それまでを振り返って、清衡はそれを一応は為し得たという思いがあったのではないでしょうか。
平泉の繁栄はその子基衡に、孫基衡に引き継がれ、更に発展していきます。
が、4代目のひ孫、泰衡の時に平泉は滅亡する。
わずか100年。
それでも色褪せずに青史や人の記憶に遺って平泉の歴史が受け継がれているのは、単なる豪華絢爛な黄金文化があった、というだけではなかったからだろうと思います。
こういう人がいてこういう文化があった事、地元にとってはね、本当に誇りだと思うよ。
あっちへこっちへと飛びましたが、とりあえず平泉の話はこれでおしまい。
もう少し触れたい話もあるのですが、きりがないので。笑。
はー がんばった。
ここまで読んで頂いてありがとうございました。
台風、酷いようで。皆さまもお気を付け下さい。
私が住んでいる所では風がすごいです。

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そしていつも拍手ありがとうございます!
>MVさん
誤植多いですか。そうですか(笑)
こちらの書籍はページ数の割にお高い本が多いのだからしっかりして欲しいですね…
しかし組み間違いは酷いです。
誤植ではないですが、下部が何十ページに渡って裁断されていない本を買った事があります。何で気付かなかったのか。笑。
忘れもしない宮城谷さんの「孟嘗君」。取り替えてくれと講○社に電話すると、(なぜか)ものすごく、けんもほろろに応対され(カスタマーなのに!)、10年以上前なのにいまだにめちゃくちゃ印象の悪い出版社…^^; 今ならそのままブログに書くのにな!(笑)(鬼か)
ご本人が近年の著作で17日と書いているのなら、もしかしたら勘違いとか、そういう事も充分考えられますよね。
重版が出るほど本出てるのか…^^ゞ一度書店で確かめてみます。
というか私『秋山真之』初版ですよorz(MVさん、流石です…)
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入口に、アテルイについて説明書きがありました。
坂上田村麻呂を主役とする歴史しか知らない者からすると不思議なネーミングですが、視点を変えれば納得です。
歴史はいろいろな立場から見て考えないと本当には理解できませんね。
なのに、歴史どころかその渦中にいて利害・敵味方の関係にあったのに、そのすべての霊の平安を祈ることが出来た清衡は、大きな人だったのだなぁと思います。
地元の方々が誇りにするのも当然かと。
話は変わって。
製本ミスに関して、かえって出版社に感心した例があります。
中央公論新社のある本の写真が裏焼きだったことがありまして、重版の時にでも直してくれればと思って指摘のはがきを出したのですが。
こちらが該当の本を送ったわけでもないのに、問題のページを作り直し製本しなおしたものが送られてきてびっくりしました。
そもそも読者に指摘される本を作らなければいいわけですが、人間がやることですから誤植や間違いが出るのはある程度は仕方ありません。
そのあとの対応で出版社に対する印象が大きく変わるということを実感し、自分もそれに倣わなければ、と思っております。
それにしても『秋山真之』、早く3刷にならないかなぁ。初版よりましだけど、2刷もちょっと……(笑)。
水沢は多くの人物を輩出していますが、こちらで英雄と言えばやはりアテルイではないかと思います。
電車にも彼の名前が付いているものがあるようですね。
>歴史はいろいろな立場から見て考えないと本当には理解できませんね。
私は古代東北の歴史からそれを学びました…
仕方ない点もありますが、どうしても 残っている歴史=朝廷から見た歴史、政府側から見た歴史 によってしまうので。
平泉までの歴史や、当時の奥州の話を知った時は衝撃でした。本当に勉強する事が多いです。
どうしたらあんな事ができるのだろうと本当に思いますが、
清衡はそれまでの自分の境遇もあったのでしょうが、地域や先人の歴史をよく知っていたのでしょうね。
彼が導き出した平泉での政治がああいった形であった事には感動を覚えます。
中央公論新社すごーい!
指摘はしても流石にそこまでは望みません。
というか「あー…」と思う程度でそもそも指摘もしない…^^;
どんな事でもそうかもしれませんが、「その後の対応で印象が大きく変わる」というのは、何についてもそうですね。
私は当たった人が悪すぎたのかな、という気もしますが。
でもあの対応は本当に酷かったです。電話口で「あ”あ?」とか「はあ?」とか。
何だかこっちが悪いような気にさせられて、本当に「ないわー」でした。
顧客対応という以前に、人として…的な…
『秋山真之』、年末にドラマ放送が始まれば増刷になりませんかね?