平泉、奥州藤原氏の経済基盤を支えたのは黄金であったという話を前回しました。
その他、目玉となった交易品には馬があります。
軽く触れておくと、馬は糠部(青森県東部と岩手県北部)あたりの産が「糠部の駿馬」と言われ最高級だった。
源平合戦の頃で言うと、有名であるのは宇治川の先陣争いで有名な梶原景季の名馬、磨墨(するすみ)。
佐々木高綱の生喰(いけづき)。
そして一の谷で平敦盛を討った熊谷直実の権太栗毛など。
磨墨と生喰は源頼朝からの下賜ですが、熊谷などはわざわざ現地に郎党を派遣し、大枚をはたいて権太栗毛を購入している。

宇治川先陣之碑(筆跡は一戸兵衛大将)
陸奥国は平安時代初期から名馬の産地として知られていまして、品質としては最高。
今で言う最高級ブランドだったんですね。
その頃から富裕層が陸奥の馬を争って買い漁った為価格が高騰し、軍事用の馬が確保が難しくなり禁制になった、なんて話もあります。
武士ならともかく、富裕層が馬買ってどうするんだ…
と思ってしまいますが、持ってる事がステイタス、とか、そんなのだったんでしょうか。ブランドだし。
ポルシェに乗ってるような感じ?NUKANOBUエンブレム(笑)かっこいいよね!みたいな?(笑)
10世紀終り頃には中央も馬を税として徴するのではなく、買い上げていたようです。
この辺り、色々と研究があるようなのですが私の手元には資料がないので、詳しい事はなんとも言い難い。
まあでも、いい商売だっただろうなあとは思います。
もうひとつは鉄。
まあ、これはご存じの方も多いと思いますが、岩手、三陸海岸の地域は砂鉄と鉄鉱石が採れる事で有名です。
久慈とか久慈とか久慈とか。笑。
いや、冗談はさておき、釜石には新日鉄の工場がありますがそれも偶然ではなくて、この地域で鉄が採れたからなんですよ。
日本で初めて洋式高炉での製鉄に成功した地が釜石でした。
また南部鉄器と言いますが、それもこの辺りです。
嘗ての水沢市、現奥州市ですが、その水沢駅には南部鉄の風鈴が沢山つりさげられている。
大雑把です…
岩手には砂鉄製錬や鉄鉱石製錬の遺跡が非常に多いそうで、ある調査によると150は下らないといいます(『鉄の語る日本史』)。
また内陸でも一関や江刺(現奥州市。清衡の本拠地)にも遺跡があり、鉄山があり…
鉄の精錬というと、特に島根を代表とする山陰地方が上がりますが、そことは違う製錬技術、鍛冶技術が流入していたようです。
特に注目したいのが一関。
日本刀に興味のある方なら御存じかと思いますが、一関には舞草神社があります。
こちらに鍛冶集団が住んでいたらしく、鍛冶場の遺跡があるそうで。
その神社の由来になったのは舞草刀、もくさとう、と言われる刀です。
舞草刀というのは、諸説あるものの、日本刀のもとになったと言われる刀の事で、湾曲している、所謂湾刀なんです。
またここで鍛えられた刀は鋭利であった事も知られている。 →舞草刀
舞草刀以前には蕨手刀という刀がありました。
これは持ち手の部分が曲がっている。柄頭が早蕨の様に渦巻いているので、蕨手刀と言われるようになったんですな。
リンク貼っときますので、ぜひ見て下さい。グーグル画像です。口で上手く説明できない(笑)
→蕨手刀(わらびでとう)
で、これは出土が東北地方、それも北上川中流域に多く、丁度蝦夷と大和が戦争を繰り広げた辺りになります。
幾度かの戦を経て進化を遂げたのが舞草刀と言われています。
まあこれが湾刀な訳ですが、大和朝廷ではそれまでの刀は直刀。真直ぐ。
蕨手刀も刀身自体は真直ぐですが、馬上から振り下ろした時に斬り付けにくいという所から次第に湾曲したとも言われている。
直刀は斬りつけるのではなくて突き刺すんです。馬上からは中々殺傷能力に乏しい。
ただ思うに、当時の武器の主流は刀ではなくて弓矢なんですよね…
刀を使う程の接近戦がそれほどあったのだろうか。
これは誤解が多いように思うのですが、当時に限らず、日本の主流武器は弓なんです。
日本刀じゃないんです。
そもそも大鎧からして対弓矢戦の防具として作られている。
だから、武士への第一の賛辞が、
「弓馬達者」とか「海道一の弓取り」という表現になる。
まあそれはとにかく、『鉄の語る日本の歴史』では、精巧な鍛刀技術がこの地域に発達しているのを見た中央が、その蝦夷の戦闘力を弱めるために律令を以てこの地方に鍛刀場を作る事を禁止したという事が紹介されています。
技術的にもハイレベル、実用に飛んだ刀を作っていたようですね。
金、馬、鉄。
断片的な話ですが、これだけでも東北には大和とは全く違う国があったようにも思えるんですが…だって文化圏違うくない?
というかこれだけのポテンシャルがあってどうして平泉までの間虐げられ続けて来たんだ。
現地をひとつに纏める組織力に乏しかったんだろうと、私なんかは勝手に思っているのですが、実際の所はどうなんでしょうね。
ただそういったポテンシャルをじりじりと収斂して大きな勢力になってきたのが、11世紀の安倍氏。
それが朝廷も捨てておけない、容認できないほどのものになって、前九年の役に繋がったのかな、と思うんです。
結局安倍の支配は崩壊し、次いで清原のそれも崩壊し、最後に奥州藤原氏が引き継いだ。
藤原氏は一番良い状態でそれまでの”遺産”を受け継いだんではないでしょうかね。
ぽっと出の、いきなりの黄金文化なのではなくて、そこに辿り着く迄の間に、多くの種があちこちに捲かれていた。
ただ藤原氏の支配も終焉し鎌倉時代を迎えた時に、藤原氏が築いていた上記の特徴って忘れ去られたように言われなくなる…ような気が^^ゞ
あれれ、あの栄華は何処へ行った?といつも思うんですが(笑)
知らないだけかな?

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